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残の海人(のこのかいじん)7章

転がる運命

「真亜沙! 久しぶりねぇ!」

 大学病院内にあるカフェテラスでトレーをカウンターに並べてサラダを選んでいた織田真亜沙に、丸眼鏡の奥のくりくりとした眼を輝かせて声をかけてきた威勢のいい中年のナースがいた。

 看護学生時代から彼女のことを目にかけていた病棟師長の宮本愛子である。

「あらぁ! 宮本師長! 元気でしたぁ?」

 驚いて真亜沙は宮本の顔を見た。

 一年ぶりだろうか。尊敬する人、と問われると必ずその名を出すほど、宮本は真亜沙の憧れの対象であった。

 新人時代、患者を前に慌てる彼女を何度も落ち着かせ、看護師の国家試験合格の際は我が事のように喜び、手を取り合って泣いてくれたことは真亜沙にとって忘れられない思い出だ。


「元気も何も…今ねぇ、私、認定看護管理者のサードレベル受講中なもんだから、昨日まで五日間、缶詰だったのよ」

「えぇっ? サードレベル? 大学病院でも三人といないでしょ? どんだけすごいんですか~!」

「いやいや、すごいことなんかないの。順番順番。年の功。ところで、あんた、一人? よかったら一緒に、食べない?」

「もちろん!喜んで」


 窓外から燦々とした日光が降り注ぐ天井の高い店内には白の洒落た変形テーブルが十数卓も配置され、医師や看護師、コメディカルスタッフなど、さまざまな職員でほぼ満杯である。

 宮本がようやく空いた席を二つ見つけると、まだ精算をしている真亜沙に手を振って場所を知らせた。


 真亜沙がトレイを手に小走りに席の前に立つなり、宮本は真亜沙にいきなり切り出した。

「あんた、今度、ドクターヘリのフライトナースに指名されたんだって?」

 座りながら顔をしかめて真亜沙は答えた。

「そうなんですよ~。まだ大したキャリアもないのに、私でいいんですか?っていったんだけど、お前のような多少大雑把なやつの方がフライトナースにはいいんだって言われちゃって…」

 声をたてて宮本はあはは、と笑った。

「人事も馬鹿じゃないわねぇ、適任よぉ。適任!」

 真亜沙は不服そうに口を尖らせた。

「なんだかんだ言って、実は宮本師長が推薦なんかしてないでしょうね?」

 可笑しくてたまらない、といった風に宮本は答えた。

「残念ながら大ハズレ。ま、あんたがフライトナースに選ばれたのは周囲からそれだけ認められたって証でしょ? 飛び上がって喜ばなきゃ。けど、真亜沙は喜び過ぎると調子に乗って凡ミスが増えるから、イヤイヤぐらいが丁度いいんだろうけど」

 眉を八の字にして真亜沙は宮本に突っかかった。

「そうは言ってもですねぇ。やっぱり不安でいっぱいなんですよ。そもそもフライトナースの経験してる人が少ないから相談する人もいないし、日頃の仕事しながら、その合間を縫ってやるわけでしょ?」

 宮本は真亜沙の次から次に出てくる愚痴をしばらく微笑みながら聞いていたが、ようやく落ち着いたのを見計らうと、一呼吸おいて語った。

「あのねぇ。私は残念ながら旧世代だからドクターヘリに乗る機会はなかったけど、もし自分がまだまだ若かったらまず絶対立候補してた。

 だって、経験に勝るものなんてないでしょ?

 それに、こんなこと言ったらまたあんたを舞い上がらせる結果になりかねないけど…今度関東から赴任した髙田院長は、フライトナースや訪問看護の経験を持つ看護師を積極的に役職者に起用する、って公言してるんだから」

「と、とんでもない! 私、役職者になりたいなんてこれっぽっちも思ってないですし?」

 狼狽えて真亜沙は否定した。

「そうでもなさそうだけどねぇ?」

 宮本は上から下まで真亜沙の心を見透かしたようにしげしげと見つめた。


「いずれにしてもね…宮本組は卒業生も含め、みな前向きなのよ。あんたも卒業生と思ってくれてるのなら、心入れ替えて頑張りな。それにね…」

「それに?」

「今度、救命救急センターのフライトドクターになった飯田哲平先生。

 この先生、髙田院長が連れてきた医者なんだけど、私が若い頃、ある病院で実は一緒だったことがあるのよ。あの飯田先生と一緒に仕事が出来るなんて、そりゃ、名誉なことよ。おそらく、学ぶべきところがいっぱいあるはずよ」

「飯田先生? どんな先生なんですか? 性格は?」


 呆れるように宮本は真亜沙を見つめた。

「あんたも心配性よねぇ。まず一緒に仕事して、チームになって。それからでしょ? 確かに人だから合う合わないはあるだろうけど、飯田先生に変な癖はないわよ。極めて普通。でも、あの先生レベルで普通であり続けること自体ほんと、すごいと思うけど」

「ふ~ん。じゃあ、師長がその飯田先生とチームになって一番勉強になったことってどんなところだったんですか?」

 興味津々といった様子で真亜沙は尋ねた。

「一番勉強になったところ? う~ん、そうだねぇ。ひとことで言ったら…現場での決断力、かな?」

「決断力?」


 真亜沙がまだまだ聞きたい気持ちがあるのを察してか、遮るように宮本は付け加えた。

「まあまあ。さっきも言ったでしょ? 人の感想聞くよりも、まずは体験。

…ただね、あの先生の音楽の趣味だけは理解できないけど」

 ふふふ、と宮本は含み笑いをした。

「アイアンメイデンがどうたら、イングウェイの速弾きがどうたら、とにかくロックに興味がない私からしたら、まるで外国語聞いてるみたいで、全く理解できない。まあ、異文化見学とでも思いなさい」


 宮本は自らのトレイに置かれたデザートプリンを取ると、真亜沙のトレイにとん、と載せた。

「これでも食べて元気だしな! 今度就任祝いの飲み会、企画してあげるから!」






 その夜、佐賀弘道館大学医学部附属病院の高度救命救急センターは、脳梗塞や交通事故などによる外傷患者が次々と運び込まれたことで大忙しであった。

 真亜沙が緊急手術を終えたばかりの患者をオペ室からストレッチャーにて運び出そうとしていたその時、首から提げていた院内用の携帯電話が突然鳴り響いた。

 慌てて電話を取ろうとするも、手から滑り落ち、真亜沙は自分のそそっかしさに苦笑いしながら折りたたみ式の携帯を開いて受話器に耳を当てた。


「もしもし?」

「ドクターヘリ出動の要請が入っています。患者は心肺停止状態。

 現場は佐賀でなく、隣県の福岡なんですが、市中のドクターヘリがいずれも数件掛け持ちで手一杯とのことで、そちらで受けてほしい、と。

 既に新任の飯田先生も呼び出していますので、至急、ヘリポートに向かってください」

「了解しました! すぐ、行きます!」


 運航管理室からの電話を切り、真亜沙が携帯を閉じると、一緒にストレッチャーを押していた同僚ナースが同情するように声をかけた。


「今日は付き添いなしの初出動でしょ? 大変ねぇ。ここはいいから!」

「はい! ありがとうございます」


 ためらっている暇はない。真亜沙は患者を同僚に託すと、急ぎ、最寄りの重い鉄製の防火扉の前に走り込み、オペ室の階と屋上を繋ぐ非常階段へと躍り出た。


 ドクターヘリ、出動  ドクターヘリ、出動


 機械的に繰り返される非常放送の淡々とした声が、焦る気持ちをさらに増幅させる。

 とにかくあたって砕けろだ、と言い聞かせながら真亜沙が息を切らせて階段を駆け上がっていくと、上階の踊り場の非常扉が突然開き、Vネックの青のユニフォームを着た、小柄だが、がっしりとした体格の、天然パーマの眼鏡の男と鉢合わせした。

 男は、ぶつかりそうな身体をすんでのところで持ち堪えると、目を見開いて真亜沙に声をかけた。


「お~。君も新人なんだろ? 俺もここでは今日が初出動だから、よろしく頼むわ!」

「い、飯田先生ですよね? 話しは宮本師長さんから聞いてます!」

 うろたえた様子で真亜沙が走りながら軽く会釈をすると、飯田も頷き、いつの間にか二人は並んで階段を駆け上っていた。


「それでぇ? 師長さん、俺のこと、何て話してたの?」

「ヘヴィメタル好きだという…」

 階段を二段飛ばししながら飯田はぷっと吹き出した。

「いらん情報やなぁ~。ひょっとして、君もメタル好きなん?」

「まあ、好きか嫌いか、と言われれば好きです」

「ふ~ん、まぁ、もともとメタルの理解者周囲に少ないんで、貴重な味方ってとこだな。で? 好きなバンドは?」

「せ、先生、今、そんな心の余裕は…」

 眉をひそめて飯田は答えた。

「いいんだよぉ。どんな時でも心にゆとりもたないと。ドクターヘリは田んぼの中であれ高速道路の上であれ、どこでも治療の場になっちゃうけど、俺らさえブレなきゃあどうってことないんだから。平常心、平常心」


 屋上にようやくたどり着くと、二人はほぼ同時に壁に掛けられたウインドブレーカーを奪い取るように手にとった。

 開け放たれた鉄扉の先には漆黒の夜空を背景に、航空灯火に照らし出された白地に赤いストライプ柄のヘリコプターがけたたましいエンジンとプロペラの駆動音を轟かせ、まるで映画の一場面のようにスタンバイしている。


 一言、二言、飯田が声を掛けたものの、ヘリの轟音で聞き取れないのか、真亜沙は走りながら片耳に手を当てて眉間にしわを寄せた。


 飯田はじれったそうに、終いには大声で叫んでいた。

「俺! 新任だけど! アメリカでヘリの経験があるから安心して!」

「え? アメリカでぇ?」

「一応! 俺、アメリカの医師免許も持ってるんで!」

「どんだけすごいんですか?」

 目を白黒させて真亜沙が答えた。


 飯田がヘリの前方を見ると、透明なキャノピーの奥のコクピットには、室内灯の下、オーバーヘッドパネルに手を伸ばしている操縦士と、離陸前チェックリストを確認している整備士がいた。


 二人は相前後してキャビンに乗り込み、飯田は扉付近に、真亜沙はその対角線上に着席すると、すぐさま座席に掛けられたヘッドセットを頭に装着した。

 機内の壁面には生体情報モニターや心電図モニター、除細動器が所狭しと詰め込まれている。


「福岡市内だって?角さん」

 コクピットに向かって飯田が尋ねると、まだ幼さが残る、就職したばかりといった体の整備士の角が振り返って答えた。

「はい、福岡市西区の能古島という離島です」

「時間どれくらいかかる?」

 重ねて飯田が問うと、今度は中老の操縦士でベテランの坂井が後ろ姿のまま落ち着いた声で語った。

「そうですねぇ~、十分といったところかな。その場所にはまだ出動経験はないもんで」

 頷くと、今度は飯田が感心したような、まるで子供のような声を挙げた。

「にしても、坂井さん、このドクターヘリ、なんかすごくね? 中型のドクターヘリ、始めて見たよ」

「ああ、飯田先生、アメリカにもこんなのはなかったですかね? 

 このヘリ、最近、いろいろな災害やら地震やらが増え続けてるでしょ? それに柔軟に対応するために、政府から助成を受けて本来なら消防が対応するようなケースもカバーできるよう、ホイストで遭難者を吊り上げて救助も出来るようになってるんですよ。

 いわば万能型です。もっとも、消防隊員が同乗することは通常はまずないと思いますがね」

「ふぅ~ん。時代は変わったねぇ。佐賀弘道館もなかなかやるもんだ」

「まあ、テストケースですよ。テストケース。乗る我々からしたら誇りなんですけど」


 満足げに飯田が微笑んで振り返ると、救急バックの中身を真亜沙が一心不乱にチェックしている。


 飯田は真亜沙の姿をしばらくじっと見守っていたが、やがてゆっくりとした落ち着いた口調で切り出した。

「頭部外傷あり、意識不明の心肺停止状態。幸いなことに同伴者の中に心肺蘇生法に長けた者がいる。後は時間との戦いだな。ま、典型的なパターンだから、君の初出動には丁度よいだろ」


 スライディングドアが閉められ、坂井が操縦席でコレクティブレバーを引くと、ソリのような着陸脚がゆっくりと地上を離れ、機体はまるで重力がないかのようにふわりと十数メートル上昇した。

 ヘリは、その姿勢を安定させると、今度はその機首をわずかに前方に傾げながら、まるで複眼を持つ昆虫のように前を見据え、いったん空中に静止すると瞬く間にヘリポートを飛び去った。


 佐賀の市街地の夜景を眼下に眺めながらしばらくすると、ヘリは低山の山間部に入り、ただ真っ暗な空間をヘリは飛行していく。

 窓外に広がる闇をただあてどもなく見ていた飯田だったが、やがて持て余したのか機内へと目を移し、思い出したように真亜沙に親しげに声をかけた。


「ところで、織田さん、兄妹いるの?」

 真亜沙はふいに飯田が声をかけてきたことにびっくりしたように返事をした。

「兄妹、ですか? あ、はい…兄がいます。九つ年上の」

「九つ? へえ~、かなり離れてるんだね」

「ええ。さっき、ヘヴィメタル、好きだと言いましたけど、それって実は兄の影響なんです」

「なるほどぉ…九つも違うと、喧嘩にもならんだろ…」

「そうなんです。ほんとに優しい兄で。ただ、そんな優しい兄がなんであんなに激しい音楽を聴くんだろ?って最初は単純な興味から入って、最終的には自分もはまっちゃって。レインボーから、オジー・オズボーン、マイケル・シェンカー…主にギターヒーローがいるバンドでした」

「おぉ~っ。なかなか兄さんいい趣味してるね?

 さっき、優しい兄さんが激しい曲聴くの意外だって言ったけど、俺の知るかぎり、メタル好きに悪い人間、いないからな。

 それに、メタル嗜好の医者ってのは大概ギターの速弾きも上手いし、手術室でもスピードスターって崇められてるやつ多いんだよ」 

「そうなんですよねぇ。お兄ちゃんの友達もみんな良い人ばっかりで」

 飯田は破顔して喜んだ。

「こりゃ、救命救急センターの飲み会、楽しみになってきたなぁ。

 よかったら今度俺がつくったプレイリスト持ってきてやろうか? 君の初任務の慰労も兼ねてってことで数人で集まってもいいんじゃないの?」


 時速二百キロ以上で交通渋滞もない空をほぼ一直線に目的地へと向かえるヘリは、真亜沙の想像以上に速かった。

 灯り一つ無い鬱蒼とした尾根と山あいを幾重か超えると、もう目の前にはいつの間にか鶴の翼のように広がる、まばゆい福岡市街の夜景が見えてきた。

 思わず、綺麗、と出掛かった口を真亜沙は慌ててすぐさま手で抑えた。

 バケツいっぱいの銀の砂を一気に撒いたかのように煌めく街には、ところどころに金やルビーのような赤、オレンジの電照が散りばめられ、放射状の光の筋となった道路がいくつも交差し、その上を無数の車がまるで蛍のように行き交っている。

 その更に先に飯田が目を転ずると、夜景に照らされた乳白色の空の際に黒々とした能古島と志賀島の島影がはるか先に重なるように見え始めた。 


「ランデブーポイントは?」

 飯田は操縦席に問いかけた。

「島の北西部にある自然公園の中の運動広場です。患者の場所もGPSの位置では、その広場の海岸沿いを示しているそうです。島の地元の消防隊員一名に待機してもらっています。サーチライトが目印です」

 角は如何にも新人らしい初々しさで、てきぱきと答えた。

「了解。じゃあ、なんとかなりそうだね」


 程なくすると、ヘリの右手には七夕の天の川の電照で綺羅びやかにライトアップされた福岡タワーや海岸線沿いの街灯でオレンジ色に染まる都市高速、まるでローマのコロセウムのような福岡ドームや高層ホテルの灯りが見え、博多湾へとヘリが到達すると、目の前には聳える山のような能古島が眼前に迫った。


「島の前方の頂上にサーチライト。ランデブーポイントです」

 角の言葉に操縦桿を握る坂井は落ち着いた様子で、光る計器パネルを一瞥すると、了解、と頷いた。

 

 島の山頂にある展望台を通り過ぎると、足下にはいきなり何も遮るものがない自然公園の起伏のあるなだらかな丘陵が現れ、その先に拡がる平坦な芝生広場から、空に向けてサーチライトの白い光の帯が真っ直ぐに突き抜けていくのが見えた。


「消防隊員、地上から手を降っています!」

 角が叫んだ。

「JA690K、まもなくアプローチ」

 坂井が操縦桿をわずかに下げると機体は頭を垂れて少しずつ降下し始めた。


 深めのゴルフ場のラフのような芝が拡がる広場の左右にはサッカーのゴールポストが置かれ、丁度センターサークルの辺りに一人の男性が両腕を交叉させて大きく手を振っている。

 ヘリがじわじわと地表に接近すると、密集した芝生はまるで旋毛のように回転翼の強烈な風によってなぎ倒され、今にもちぎれんばかりに地面に張り付いた。

 地上の隊員は、作業着の背中を風でふくらませながら、手をかざして埃を避けつつ、ヘリの着陸が完了するのを見守っている。


 ヘリコプターのスキッドがゆっくりと地面に着地するや否や、飯田はスライディングドアを力強く開けて外に飛び出した。


「お疲れさんです」

 日焼けした、鷲鼻の端正な顔立ちをした屈強な作業着の男が先回りして声をかけてきた。飯田は時間を惜しむように早口で尋ねた。

「地元の消防団の方ですね」

「はい。久保田といいます。この自然公園の経営者です。今夜はたまたま私が当直していたもので」

 飯田は小さく頷いた。

「この広場の崖下に怪我人がいるようなんです。心当たりはありませんか?」

 久保田は飯田の言を聞くや、怪訝そうな顔をして答えた。

「この広場の崖下ですか? とても夜に人が近寄れるような場所ではありませんよ。

 隣接しているのはうちの敷地だけですので外からの人間が入ることもない。確かに干潮時には砂浜が現れますが」

「そこの地名は?」

「邯鄲といいます」


 飯田は振り返って角に向けて叫んだ。

「事故現場からの情報は何と言ってる?」

 角は狼狽えた様子で答えた。

「ぞ、ぞうせ! 事故現場の地名は象瀬だ、と…」

 地名を聞いた途端、久保田の顔色が変わった。

「象瀬! 象瀬はこの崖下ではありません! 離れ小島です! 岸から二百メートルはあります!」


 声を張り上げる久保田の姿を見て呆然としていた飯田は、やがてはっと気づいたような表情を浮かべた。

「し、しまったぁ、、、GPSの誤差だぁっ!」


 飯田と久保田のやり取りを後ろから見ていた角もしばらく魂を抜き取られたような表情のまま立ち尽くしていたが、急にはっと我に返ると、踵を返してヘリのキャノピーへと向かった。


 慌てた飯田が呼び止めた。

「何をする気だ」

 固まった表情のまま角が答えた。

「海上では手も足も出ません。水上消防団の救命艇を呼ぶか、航空隊のヘリに来てもらうしか方法はありません。消防に依頼します」

 その発言を聞き、飯田は焦った。

「ば、馬鹿言え! 今から出動要請して間に合うはずないじゃないか! このヘリだってホイストを装備してるんだ! 患者をワイヤーで吊り上げればいいだろ!」

「僕らは消防隊や自衛隊じゃないんです。無茶なことは言わないでください。常識的に考えてもわかるでしょ」

 しばらく二人の押し問答が続いたが、埒が明かないと見たのか、やがて角は舌打ちをして眉間に皺を寄せて真亜沙に向き直った。

「常識外れもいいところだ、全く! ねぇ、織田さんもそこで黙ってないで先生に何か言ってあげてくださいよ」

 困り果て、ただ顔をゆがめて二人を見ていた真亜沙だったが、突如として下駄を預けられたことに面食らいつつ、ここは何とかせねば、と頬を引きつらせながらも飯田におずおずと声をかけた。


「先生…どう考えたって無理ですよ。私たちはそんな訓練も受けていないですし。ど、どうか、どうか、冷静になって下さい」

 目をギラリと光らせて飯田は叫んだ。

「俺は正気だよ! 知らんだろうが、俺はいつかこんなこともあろうかとカルフォルニア州のアーミーサバイバル訓練施設で何十時間も講習受けて来てるんだ! 助けられる自信があるから言ってる!」

 予想外の返事に真亜沙は目を白黒させた。

「ど、どんだけすごいんですか・・・」


 それきり真亜沙はもう無駄、とばかりに黙り込んでしまった。

 真亜沙が頼りにならないと分かると、角はいよいよ興奮し、飯田に畳み掛けるように迫った。

「万一、万一、先生が出来るとしても、助ける人、揺れるロープを抑える人、ワイヤーを巻き上げる人、三人は必要なんです! だから無理だと言ってる!」

「三人? 君と俺と、そして、ここにいるじゃないか」

 飯田が久保田の方をふと振り向くと、久保田はきょとんとして、私? といった様子で自分自身の顔を指さした。


「何を非現実的なことを…」

 頭を振りながら角が唸るような声を挙げると、飯田の怒りはついに沸点を超えた。

彼が矢庭に角の作業服の襟首を両手で掴んで締め上げると、角の背中は大きく後ろへと仰け反った。

「眼の前に助けられる命があるんだよ! 手が届くくらいの眼の前に! とにかくヘリを出せ! 出すったら出すんだよ!」


 驚いた真亜沙は止めに入った。

「先生! 暴力は絶対に駄目ですっ! 落ち着いて下さい!」

 

 三人が揉み合いのようになった様子を操縦士の坂井は、ただじっと、悲しげな目をして見ていた。

 が、しばらくすると、ようやく意を決して、真一文字に結んでいた口を開いた。


「飯田先生!」


 寡黙で中老の紳士といった風貌の坂井が始めて大きな声をかけてきたことで、興奮した飯田も、びっくりしたように角の服の襟を掴んでいた力をわずかに緩めて振り返った。

 

 坂井は目尻に皺のある一重瞼から覗く、黒曜石のような瞳を底光りさせ、穏やかに語った。


「先生ぇ。知ってるかもしれないが、私は実は今月いっぱいで定年でしてね。現役時代にはそりゃ、何度も悔しい場面に遭遇して来ました。もう少し、組織が融通を効かせてくれたら救えた命だったのに、とね。

 個人的にはもう、あんな経験はゴメンだ、と思ってきた。

 ところが、不思議なことに、それがまた、今日やってきた。因果なもんですなあ」

 坂井は寂しげに笑うと、すぐに真顔に戻り、今度は角の目をまっすぐに見つめた。


「…角君。今回の件、もし良かったら私に預けてくれないか?

 現場の私が全責任を持つ、ということで。


 私の一存でやったことにして、君の責任は問われない。

…どうだろう?

 それに」


 坂井は、はにかみながら、子どものように無垢な目を光らせた。

「この最新鋭ヘリの100%のポテンシャルを一度、最後に見てみたい…恥ずかしながら、そんな欲が出てきて、ね」


 角はわなわなと唇を震わせていたが、坂井の言にはすぐには答えず、こみ上げる感情を押し殺すかのように二、三歩先の地面をただ見つめていた。しかし、やがて空を見上げて瞼をぐっと力を込めて閉じると、次の瞬間、坂井の方をちら、と見つめ、足早に操縦席へと向かった。


 坂井は角の背をみて、よしっ、と気合を込めた一言を発すると、後を追いながら、振り返って皆に声をかけた。


「先生、織田さん、行きましょう。久保田さんも悪いが同行してもらって良いですか?」

 急転直下の出来事に驚きを隠せない久保田だったが、ためらいもなく同意した。

「私で出来ることであれば」

「よし! 皆さん! 乗って!」


 坂井が操縦席へと乗り込み、三人も次々と駆け込んでスライディングドアが勢いよく締まると、ヘリは地面の芝生を波立てさせながら一気に離陸してそのまま垂直に上昇した。

 機体があっと言う間に五十米ほど上空に達すると、久保田はすぐさま窓の外を指さした。

「ほら、もう眼の前です! あれが象瀬です!」


 対岸のわずかな街の灯を除けば漆黒の海が拡がるばかりの今津湾であったが、目を凝らすと、確かに、跳び跳ねた墨汁のように黒々とした島影があるのが見えた。


「上空三十米で静止し、サーチライトで島を照らします。角さん、対象者との位置修正をお願いします」

 これまで憮然としていた角であったが、坂井からの誘導依頼に、渋々ながらも小さい声で、了解、と返事をした。


 ヘリが象瀬の真上に停止して胴体下のライトが点灯すると、漆黒の岩場が一瞬で昼のように照らし出され、そこには手をかざして頭上を見上げる二人の男性、そして横たわった患者に心肺蘇生法を施している男の姿があった。

 岩礁にはすでに汐が迫り、彼らの足元は白波で濡れている。

 患者の容態だけでなく、状況的にも残された時間が少ないのは明らかだ。


「フルボディ・ハーネスはどこにある?」

 飯田が角に尋ねると、彼は後部座席のオーバーヘッド・コンパートメントを指差し、開けるように促した。

 カバーを開けると、彼は束になったハーネスから手頃なものを二本取り出して、その一本を久保田に投げるように放った。

「俺が先に降りて患者を診るから。その後に君が担架を抱いて降りてきてくれ。俺等が先にヘリに上がる時は、担架が空中で旋回しないようにロープを握っててほしい。いいね?」


 久保田は受け取ったハーネスの肩ベルトを握りしめると、頭を掻きながら苦笑いした。

「まさか、日頃の訓練がこんなところで役に立つとはですねぇ」

 真亜沙は飯田と久保田のやり取りを傍で眺めながら、緊急事態とは言いながら、何故か二人の表情が活き活きとし始めたことに内心驚いた。

 男ってのは、ほんとうに理解できない。

 頭を振りながら、真亜沙は呆れてため息をついた。






 轟音を響かせて宙に静止して頭上でホバリングを続けるヘリを、慎治とネルグイは夢かと見上げていた。

 旋回するメーンローターからの吹き下ろしで海面は激しく波立ち、強風に煽られた地上の彼らの髪は乱れ、眩しいサーチライトの灯に皆一様に目を細めた。

 ヘリ胴体の底部には赤と緑、尾翼には白の航空灯が明滅し、慎治はまるで救世主を得たかのような心地でそれらを見つめ、頬を紅潮させた。

 瀬古は毛利に両手で心肺蘇生を続け、すでに額は滝のような汗で濡れている。

 彼は、足元を洗う波に浸からせながら、息を切らせつつ唸るように声をあげた。


「地獄に、仏とは、まさに、このことだぁ」


 ヘリのスライドドアはすでに明け放たれ、開口部から角と飯田が身を乗り出している。


「前方十米、目標確認。このまま十二時前へ。スロー。スロー。スロー。ここで停止、はい」

 角はキャビンの坂井に向けて親指を立てた。

「ホイスト点検。フックよし、ワイヤーよし。飯田先生、カラビナ、点検して下さい」

 飯田は安全帯に繋がったステンレス製の金属の輪をワイヤーに引っ掛けながら角の問いかけに答えた。

「大丈夫。何度もやってきてるから。織田くん、ドクターズバック!」

  重さが十一キロもあるオレンジ色のリュックを真亜沙は引きずるように飯田に手渡すと、飯田はいとも簡単にぐいと持ち上げて肩ハーネスに両腕を通し、ヘッドセット付きのヘルメットを座席から取り上げて目深に装着した。


「準備オーケーですか、先生? はい…では降下開始!」

 ヘリの降着脚に乗り、ほんの数秒ほど両足を踏ん張っていた飯田は、角の言葉に頷いて一度深呼吸するや、矯めた膝を解き放って見事に空中に身を投げた。


 彼の体は自らの糸に身を委ねる蜘蛛のように真っ暗な夜空を美しく滑空し、瞬く間に象瀬の岩礁にふわりと着地した。


「どうだい!」

 カラビナの輪から命綱を外しながら、飯田は、見たかと言わんばかりに上空で身を乗り出して左右に揺れるワイヤーを持った角に向けて言い放ち、親指を立てた。角もその姿を見て親指を立て返した。

 

 飯田が振り向くと、慎治とネルグイは硬直し、まるで神を見るかのごとく固唾をのんで彼の次の言葉を待っている。

 飯田は急ぎしゃがみ込んで膝を付くや、心肺蘇生を続ける瀬古に労いの声をかけた。


「君、よく頑張ったなぁ」

 声をかけられた瀬古は、気が抜けたのか、いきなり呻きながら腰を抜かして後ろ向きにへたり込んだ。

「あ~、もう無理!」


 一瞬、戸惑いの表情を見せた飯田だったが、すぐさま側に立つ二人に向かって早口でまくし立てた。

「君ら、彼がやってるの見ただろ? 交代だ! 次は君か? 君か?」

 慎治とネルグイは目を見合わせたが、不安げな慎治の顔を見てとると、ネルグイが機先を制して前に出た。

「私、何でもやりますよ」

「分かった! 俺がもういい、というまで続けてくれ」

「はい!」


 ネルグイが両手で胸骨をテンポよく押し始めると、飯田は毛利の頸動脈に手をやり触診で脈を確認した。数秒すると事態を理解した、とでも言いたげに唇を噛んだ。


「心停止を確認。脛骨からアドレナリン投与」


 どうなることかと上空から見守っていた真亜沙と角も、飯田からの声に緊迫した表情で互いに頷き、ほぼ同時に了解、と返答した。

 飯田は毛利の体に汗で張り付いたズボンの布をつまみ上げると、バッグから取り出した鋏で太ももの部分をまず切り裂いた。

 そして、同時に手に取った骨髄針を毛利の膝下に突き立て、安全ピンを外して勢いよく打ち込んだ。

「良し! 固定完了。内針を抜去。アドレナリン1㎎注入するよ」

 手にしたピンクのパッケージの空け口を歯で食いちぎって開封し、シリンジを取り出すと、飯田は骨髄針にジョイントさせて薬液の注入を手際よく開始した。


「織田さん!時間測って!」

「は、はい!」


  真亜沙にヘッドセットで指示し、注射器のピストンを押し終えると、飯田はここで一区切り、と、ため息を付きながらしゃがもうとしたが、くるぶしまで迫る海水で尻を濡らしてしまったのか、慌てて立ち上がった。


「こりゃあ、まずいな! もう少し高いところに移動しよう。君も手を貸して」

 後ろを振り向いて飯田は慎治に声をかけた。

 慎治は気後れしながらも黙って頷き、毛利の上体へと近づいた。


 島の中心部に目を移すと、浸食で大きく口のようにえぐれた東側には緊迫した現場をよそに、小さな祠の中で観音菩薩像が柔和な微笑みを浮かべている。 

 幸いなことにその前面には平らな岩盤があり、他の岩礁よりもわずかに高い位置にあるため、未だ海水には侵されていなかった。


 髑髏の顔に似た島のシルエットは皆を飲み込むように眼前に迫り、その下を四人は共に俯きながら毛利の両手足を掴んで、彼の体を静かに岩盤の上へと運んだ。


「二分経過。まだ反応はありませんか?」

 真亜沙は腕時計で時間を確認しながら上空から飯田にマイクで呼びかけた。

「まだだ。彼らに原因検索してみる」

 飯田は座り込んでいた瀬古におもむろに尋ねた。

「どういう状況で彼が倒れたんだい?」


 瀬古は最初に意表を疲れたようだったが、すぐさま答えた。

「いきなり興奮してばったり倒れたんです。棒立ちで、前向きに。それで顔も怪我しちゃって…」

 なるほど、と飯田が答えたその時、先程まで心肺蘇生していた場所にバックボードを抱いた久保田がヘリから静かに降り立った。


「飯田さん! 担架に患者さん移しましょうか?」

 久保田が緊迫した声で尋ねた。

「いや、まだいいよ。もう少し待ってくれ」


 飯田は改めて瀬古に向き直って聞いた。

「彼、持病があるって聞いてた?」

 瀬古が答えに詰まっていると、その後ろから慎治が割って入った。

「僕、聞いてます。心臓の病気があって、薬を飲んでいる、と」

 飯田は片眉をわずかに動かして眼光を光らせた。

「どんな薬か聞いてる?」

「いゃあ、そこまでは…家族ではないんで」

「そうか、しかし、それにしても君ら何故こんな夜中に。釣りにしても無謀すぎるだろ」

 返答に困った慎治はそのまま俯いて黙り込んだ。


「三分経過! 先生、三分経過しました!」

 真亜沙は緊張した面持ちで、声を上ずらせながら飯田に呼びかけた。

 飯田は心肺蘇生を施しているネルグイと横たわった毛利のそばに膝を付いて座り、頸動脈に触れながらその表情の変化を見ていたが、やがて意を決して真亜沙に告げた。

「アドレナリン追加投与。この場で行う」


 新しい注射器をバッグから取り出して飯田が薬剤の注入を終えると、その後はヘリのホバリングの音だけが上空で無情に響き渡るのみで、彼らは言葉をかわすこともなく、動かない毛利の胸をただじっと息を詰めて見守っていた。


「せ、先生!」

 皆が沈黙する中、突然ネルグイが息を挙げながらも小さく叫んだ。

 ネルグイが顎でここを見ろ、とばかりに顔をこわばらせて指す足元には、先程までは白く乾いた玄武岩の色が海水に濡れて黒光りしているのが見て取れた。あろうことか、毛利の背中にもすでに海水が押し寄せて来ている。

 久保田は慌てて飯田に尋ねた。

「先生! もう限界なのでは? ボードに載せてヘリの中で処置しましょうよ」

 腕組みをして熟考していた飯田は二度ほどちらりと上空のヘリと毛利の体を見比べていたが、次の瞬間、妙に落ち着いた様子で皆に言い渡した。

「もう、ちょっと。 待ってみよう」


 横たわる毛利の唇から流れる血にガーゼを当てながら、飯田が頬に伸びるヘッドセットに向けて独り言のように呟いた。

「身体所見。顔面全体に切り傷と擦り傷。前歯陥入だが幸いなことに出血は少ない。顎骨折の疑い」

 飯田は心肺蘇生を続けるネルグイの邪魔にならぬ程度に毛利の身体の隅々までを見回していたが、やがてふと思い出したように振り返って慎治に尋ねた。


「彼、何歳?」

 慎治は一瞬返答に詰まったが、父と同級だったことを思い出し、答えた。

「七十二歳。七十二です」

 

 あの時、自分が止めれば良かった。

 毛利の横顔を見ながら慎治は後悔の念で一杯であった。毛利が主導して決めたこととは言え、止めようと思えばいくらでも止められるチャンスはあったはずだ。

 自らの至らなさで父の親友の命をなくしてしまうかもしれない、慎治はその重圧に押し潰されそうだった。


 慎治は大和家の蔵の調査の際に交わした毛利との会話を一つ一つ記憶を辿るように思い出していた。

 そう言えば、彼は妻とは早くに離婚していて、子供もなく、天涯孤独の身だ、と。定年後、六十五で非常勤職からも引退し、このまま静かに余生を送るのか、と思っていたところ大和家の謎の解明を託され、これ以上の幸せはない、と。

 そう笑っていた毛利の笑顔を思い浮かべ、慎治は胸が締め付けられる思いだった。


「先生…すみませんが…もう限界です…」

 胸骨圧迫を続けていたネルグイがとうとう音を上げた。

「分かった。じゃあ次は俺がやろう」

 空気の抜けた塩ビ人形のようにその場に座り込み、Tシャツに汗が染み込んで筋肉質の身体にぐっしょりと張り付いたネルグイに代わり、飯田が蘇生を引き継いだ。


 皆は最悪の事態を予見してか、緊張で押し黙ったままだった。

 上空でけたたましくヘリのメインローターの風切り音が鳴り響く中、誰一人動こうともせず、吹き下ろしの風に髪を煽られながら飯田の手技をじっと見つめている。

 時折、両手で胸骨を押す際に彼の口からうっ、うっ、と力む声が漏れるだけで、時間だけが無情にも過ぎていく。

 暗澹たる心地の彼らの足元は既に黒いタールのような海水に浸り、周囲の海面は強風で波頭が白く泡立っていた。


「飯田先生! 六分経過。六分経過です!」

 ヘリから真亜沙は声高に呼びかけた。

 操縦席から坂井も飯田に尋ねた。

「先生、このまま上空待機続けますか?」

 飯田は息を挙げながら答えた。

「燃料はどうなんだい?」

 角も会話に加わり補足した。

「ホバリングは燃料を食いますが…まだ、大丈夫です」


 先程まで疲れ果てて座り込んでいた瀬古とネルグイだったが、座ったズボンの下半分が潮に浸り、身体が浮き出すと、諦めて重い腰をようやく挙げた。久保田は横臥した毛利の左腕の半分ほどに水位が迫ったのを厳しい表情で確認すると、もはや我慢の限界とばかりに飯田に問い質した。

「先生、もう明らかにここにいてはまずいですよ! 担架に載せましょう! そうしないとここにいる者全員が水没してしまいます!」

 その声を聞いた瀬古も口を挟んだ。

「差し出がましいけど…俺もそう思います。先生、上がりませんか?」

 ネルグイも皆の意見に同意し、黙って頷いている。


 慎治は今の状況から見ても皆の意見はもっともだと感じつつも、一方で奇跡のような回復への期待も捨て切れなかった。

 地上での蘇生を諦めてヘリに乗り込んだ場合、その時間を考えると心拍が戻る可能性が限りなくゼロに近いのは誰が見ても明らかだ。


 慎治は飯田がどのように返答するのか固唾をのんで見守った。

「分かってる。分かってるさ。ただな、俺の何百という経験がまだだ、と言ってんだよ」


 医師からこう言われてはどうしようもない。

 久保田は何か言葉を継ごうとしたが、それをぐっと飲み込んだ。

 瀬古も失望したように天を仰いだが、口答えもせず、もはや諦め顔である。


 このまま回復しないまま最悪の結末を迎えるのであろうか。

 皆が悄然とする中、ネルグイが突然、驚いて声をあげた。


「あっ、あれ! 海上タクシー!」


 遠くのレジャー施設の観覧車の電飾や街の灯を背にして、漆黒の海を突っ切り、船尾から白い航跡を描く十米ほどの漁船が急速に近づいてきているのが見えた。

 そのキャビンのルーフには航海灯がともされ、風防の前にぶら下げられた集魚灯が皓皓と昼間のように輝き、デッキにはその光を浴びた帽子を前後ろにかぶった半袖の一人の若者が大きく手を振っていた。


「あの人たち、ヘリの音聞いて何かあったのかと心配して来てくれたんだ!」

 ネルグイが手を降って応えると、操舵室から半身を乗り出してこちらの様子を伺う船長の姿が見えた。


「騒々しくなってきやがった。今来てもらっても余計な仕事が増えるだけだぜ」

 瀬古は苛立たしげに言い放った。


「八分経過しました!」

 真亜沙の声に反応し、飯田はかっ、と目を見開いて毛利の顔を改めて凝視した。


 慎治はもはや最悪の結末は避けられないと悟ったのか、父にどう話すのか、警察にどう説明したら納得してもらえるだろうか、と心の準備を始めていた。

 連帯責任。

 なぜ止められなかったのか。

 浅慮の極み。


 自らに投げかけられるであろう批難の言葉が次々と湧いては消えた。父からの依頼を安請け合いするのではなかった、と悔恨の念を抱きつつ暗黒の空を見上げた。


 もはやどう見ても事態の好転は無い。

 誰もがそう思っていた、まさにその時ーー


 毛利の固く閉ざされていた血糊の残る唇の端がわずかに開き、ふぅっと吐息が漏れたのを飯田は見逃さなかった。




「自己心拍再開!」

飯田は深く刻まれた眉間の皺を解くと、初めて口元を緩めた。

 真亜沙と角はヘッドセットから響く彼の声を聞いた途端、安堵して深々と座席にその身を沈めた。


 瀬古が快哉を叫び身体をくの字にして拳を握りしめると、皆も一様に悲鳴ともつかない大声を上げ、知らぬ間に肩を叩きあっていた。


 そんな中、飯田は皆の興奮をよそに、今起きたことを全て忘れてしまったかのような冷静な態度で久保田に声をかけた。

「よし。上がろう。バックボードに患者を固定する。手伝ってくれ」

「お安い御用です! 」


 久保田が朗々と答えると、瀬古やネルグイ、慎治もじゃぶじゃぶと海水を足で掻き分けながら近寄り、何か出来ることはないか、と飯田に尋ねた。


 飯田は、毛利を担架に移乗するための助力を請うと、皆は四方から毛利の身体に取り付き、その体躯を各々が抱きかかえ、まるで壊れものを扱うかのように慎重に持ち上げてボードの上にゆっくりと置いた。

 海水を含んだ毛利の服からは大量の水滴がしたたり落ち、オレンジ色の樹脂製の戸板はあっという間に水浸しである。

 膝を付いた飯田が手際良く安全帯を毛利の身体に数本巻き付け、最後に頭部をストラップで固定し終えると、慎治の顔を見上げた。


「君、この人と一番親しいんだろ? ヘリに一緒に載ってくれないか?」

 慎治は毛利の危篤状態からの生還にただただ安堵し、歓喜のあまり思考が停止してしまったのか、惚けたように訳もなく首肯いた。


 隣で飯田と慎治の会話を聞いていた久保田は、なぜか首をひねりながら、人差し指で皆の頭数を数えている。

「全員、乗れるんですか?」


 首を振りながら飯田が答えた。

「残念だがそれは無理だ。しかし、いいところに漁船が来てくれたもんだ。あれに載ってもらうしかないないな」

 顎をしゃくって飯田が船を指し示すと、船長とは懇意だから、と久保田は明るかった。


「俺が先に患者と上がり、次は君がレスキューハーネスを彼に着させて、二人同時にホイストで吊り上げてもらう。いいね?」

「承知しました」

 久保田が答えると同時に、象瀬の手前五米ほどで停止した海上タクシーのデッキから、逆光でシルエットとなった一人の男が大声をかけてきた。


「うぉ~い! 久保田さぁん! 何やってんのあんた、そこで?」

 操舵室から出てきた船長は、浅黒い顔から白い歯を覗かせながら大声で叫んだ。


「長谷部さん、詳しい話は後! 悪いけど、ここにいる二人、船に載せて港まで運んでくれませんか? 私は消防としてヘリに乗らなきゃいけないんで」

「ん~? 二人だけでいいの?」

「はい。よろしくお願いします!」

「分かった。任しとき! しかし、ヘリが来るなんてまるで映画みたいやなぁ」

 船長が口を開けながら眩し気に頭上を見上げると、ちょうどホバリングを続けるヘリのドアからするすると光るワイヤーが降ろされる最中であった。

 おおっ、と船長とその助手が感嘆の声を漏らすと、飯田はまっすぐに手を伸ばし、振り子のように揺れるフックを右手でがっしりと受け止めた。


「ホイストキャッチ!」

  飯田はフックを掴んだまま巧みに担架の胴体部から伸びる安全ベルトと自らのハーネスのカラビナを同時にホイスト装置に手際よく接続して、叫んだ。

「取り付け完了! テンションかけて!」

  ヘリのドアに手をかけて下を伺っていた角が応えた。

「了解しました。まもなくテンション! 最終確認終了、巻き上げ開始! よ~し!」


 毛利を乗せたバックボードとそれにぴったりと身を寄せた飯田の足が地面から離れ、その体がふわりと空中に浮き始めると、しばらくは右左へとわずかに水平に振れる兆しを見せ始めたが、地上で久保田が担架につながったロープを固定すると、ボードの揺れは嘘のように止まった。


 ヘリのサーチライトの逆光の中、一つの物体のようになった飯田と毛利の影は、見る間にその姿がヘリに近づくと共に小さくなっていった。


「残り十米、五米、はい! 機内収容します!」

 命綱につかまりながらヘリの着陸脚に立って身を乗り出していた角は、目前に迫った担架の安全ベルトをつかむと、力任せにひっぱりながら機内の床へと招き入れた。

 やがて、空中でボードを後ろから押していた飯田も、収容を確認すると、反動をつけてその体を投げ入れ、両足で機内へと着地した。


 腰の安全金具を外しながら大きくため息をついた飯田に角は声をかけた。

「自信がある、と言われていた理由が分かりましたよ。大したもんですね」

 飯田は片眉を上げて口角を緩めた。

「君の誘導が完璧だったからさ」


 飯田の背中からドクターズバッグを降ろすのを手伝いながら真亜沙が興奮した面持ちで頬を紅潮させながら労いの言葉をかけた。

「どんだけすごいんですか? 飯田先生。もうっ、スーパーヒーローですね!」

「その誉め言葉、患者を救ってから言ってくれ。角さん、久保田さんともう一人の彼を引き上げる。ホイスト降下、頼む」

「了解しました」


 再び、すぐさま降ろされたホイストのフックを久保田が地上で受け取ると、フルボディハーネスを身に着けた慎治のカラビナと自らのそれを固定させて接続を確認し、頭上を見上げた。


「取り付け完了! テンションかけてください」

 ワイヤーが張られたのを久保田が見届けると、海上タクシーの甲板から見守る船長に大声をあげた。

「長谷部さん! 悪いけど、後の二人のことはよろしく頼みます!」


 心配するな、とばかりに船長はデッキから両腕で丸印をつくっている。


「あまり下は見ない方が良いと思います。そこだけ気を付けて下さい」

 久保田の助言に慎治が頷くと、二人は身体を向き合わせながらわずかに旋回し、ヘリへとゆっくりと巻き上げられていく。

 慎治は明滅するヘリコプター底部の航空灯を一度見上げると、素直に指示に従って目をつむり、吊り下げられたワイヤーに身を任せた。


「残り十米。五米。はい、機内収容」

 角が腕を伸ばしてまず慎治の体をヘリの中に引き入れると、久保田も後を追って勢いよく足先から床の上に降り立った。機内を見ると、すでに毛利は担架からストレッチャーへと移されている。


「ホイスト格納完了! ドア、クローズ!」

 指差し点呼しながら声を挙げ、角がスライディングドアを勢いよく閉めると、絶え間なく鳴っていた耳をつんざくように風切音は遮断され、未だプロペラ音は響くものの、心のゆとりを持てるほどの静寂が機内に訪れた。





「さあて、織田さん、行きますか?」

 飯田が真亜沙を励ますように張りのある声を投げかけた。


「はい!」

「気道の確保。喉頭鏡と気管チューブ準備して。生体モニターでパラメータ管理開始」

 真亜沙は自らが座る席の側に掛けられたビニールラックから慌ただしく機材を選び始めている。

 飯田が毛利の頭の下に枕を差し込み、毛利の顎をくい、と持ち上げて真亜沙から手渡された喉頭鏡で口を押し開けると、コクピットに戻った角のいら立つ声がヘッドセットから聞こえてきた。


「困りましたね。消防からの指示では、福岡市内はどこの救急も手一杯のようです。なんでも数万人規模の青年会議所の世界会議が開催されてて、前例のないほどの外国人の急性アルコール中毒でパンク状態だと」

 飯田はいまいましげに舌打ちした。

「本末転倒な話しだぜ、全く」

 操縦士の坂井が尋ねた。

「佐賀弘道館に戻った方が良さそうですね、飯田先生」

「ああ、そうしてくれ」

 

 もう既に患者しか眼中にない飯田と真亜沙の後ろで慎治と久保田は立ち尽くしていたが、やがてねぎらうように久保田が慎治に声をかけた。

「座りましょうか? 立っていても邪魔になるだけですから」


  慎治がこくりと頷くと、二人はコクピットを背にして後ろ向きに鎮座するシートに遠慮がちに浅く腰掛けた。

「今回は大変でしたね。この方、あなたのお知り合いなんでしょう?」

 眉をひそめて、同情した久保田が慎治に声をかけた。

 慎治は何かを話さねば、と思うのだが、頭を縦に小さく動かすだけで精一杯であった。

「お気持ちは分かります。今日は長い夜でしたね。しかし、それも終わりますよ」


 慎治はわずかに片頬をこわばらせながらも微笑を浮かべてそれに答えた。

 

 確かに長かった。

 今までの人生の中でこんなに長い日はなかっただろう。

 しかし、自分にとっては毛利が完全に元のように戻れるのかが心配だ。

 もし万一意識が回復しなかったら。

 よしんば意識が戻ったとしても、もし何らかの障害が彼に残ってしまったなら。


 慎治は暗澹たる思いを抱えながら、窓外に拡がる光の絨毯のような市街地の夜景を、ただ何の感懐もなくぼうっと眺めていた。






 あの嵐のような夜から五日後。

 佐賀弘道館大学付属病院の診療棟の前に広がる外来駐車場に慎治が車で到着したのは午前八時半を回る頃であった。


 毛利が命を落とさなかったのは、奇跡としか言いようがない。

 あの日、この大学病院からドクターヘリが応援出動していなければ、彼は確実に命を落としていたことだろう。

 ただ、心肺蘇生はしたものの、毛利は未だ深い昏睡状態にあり、面会謝絶だった。

 彼は身寄りがないゆえ、急遽、慎治の父が仮の保証人となり、入院中の父に成り代わり、慎治が身の回りの世話をすることになったのだ。


 主治医から病状を詳しく説明したい、との連絡を受けての今日の訪問であったが、当初、彼は戸惑った。

 というのも、その日の午後、真矢の乳腺外来の診察予約をすでに入れていたからだ。

 前後に日程をずらせないか病院に相談したものの、担当医の都合がどうしてもつかない、と断られていた。

 ただ、看護師によると、外来での説明は三十分程度と聞き、午後からの真矢の付き添いには十分間に合うと踏んだのだ。


 玄関から吹き抜けの広々としたロビーに慎治が入ると、正面にはまるでホテルフロントのような総合受付があり、数名の事務員が患者に対応していた。

 カウンター前に並べられた待合椅子には既に数百名の患者が座って順番を待っていた。

 手が空いているスタッフはどこか、と、慎治が受付を見渡していると、柱の前のインフォーメーションブースにいた制服姿の女性が笑顔で近づいてきた。


「おはようございます。どうなさいました?」

 慎治はほっとした様子で応えた。

「あ、すみません。実は、ここに数日前にドクターヘリで知り合いが入院しまして。先生から説明があるとのことで伺いました」

 女性は同情して眉をひそめた。

「まぁ、そうでしたか…では受付にご案内致しましょう。患者さんのお名前は?」

「毛利です」

「ご予約は?」

「はい、しています」

「畏まりました」


 長いカウンターの中からデスクトップの画面を真剣に見つめる一人の女の事務員に女性が声をかけた。

「お疲れ様です。ご予約の毛利様のお知り合いの方がいらっしゃいました」

 黒縁眼鏡を掛けたグレイのベスト姿の事務員が頷いた。

「毛利様ですね。はい、確かにご予約いただいております。主治医は飯田先生ですので、四階の救命救急センターの受付まで直接お訪ね下さい」

 ありがとうございます、と事務員と案内係の女性に頭を下げると、慎治は女性の指示どおり、艶々と光るリノリウムの床の矢印に沿って進んだ。


 エレベーターで四階に着き、救急集中治療科の受付にて取り次ぎを請うと、慎治はカウンター前の待合の長椅子にとりあえず腰掛けた。


 待合室には既に三人の先客がいた。

 そのうちの若い女性は、一人突っ伏して泣いており、その父親だろうか、白髪頭の男性が腕組みをしてそばで瞑目している。短髪の痩せた若い男性は、立ったまま携帯で真剣に何かを検索していた。

 ホールには重苦しい空気が漂い、同じ空間にいることを慎治はためらいながらも、早く呼び出しが来ないものかと、じりじりとした時間を過ごした。


 数分もすると、組んだ手に顎を載せ、太腿に肘を付いていた慎治の携帯が突然振動し始めた。

 慎治はびくんと反応し、慌てて廊下の方向に顔を背け、口を抑えながらスマホを頬に当てた。


「もしもし?」

 蚊の鳴くような声で慎治が応答した。

「慎治? ああ、お母さんだよ。説明始まった?」

「いや、まだだけど、今、待合室なんだよ。あんまり、話せない」

「そうだろうねぇ。じゃあ、聞くだけ聞いて。あのさ、実はね、この前から話してた例の自宅の建て替えの件。ほら、ハウスメーカーに勤務してたら家建てるときに割引制度があるって言うじゃない? それでさぁ、真矢ちゃん、住宅展示場で働いてるらしいから、それとなくあの子に聞いてくれないかなぁ、と思ってね」

「…そんな厚かましいこと聞けるわけないでしょ! 何考えてんの?」

「うんうん。そうなんだけど、ダメもと、ってのもあるじゃない? うちも、お父さんがああだし、だけど家は老朽化してるし。お父さんのために介護仕様にもしないといけないから、ゆっくりもしていられないんだよ」

「……」

「今、慎治と真矢ちゃん、うまくいってないわけじゃないんでしょ? ちょこっとでもいいから、聞いてくれないかな?」

「……」

「駄目? それじゃあさ、真矢ちゃんの電話番号教えてくれない? 私、直接、掛けてもいい?」

「あ~」

 目を閉じて慎治は頭を垂れた。

「よりによって毛利さんが大変な時にそんなややこしい電話してこなくていいじゃん?」

「ごめんごめん。だけど、思い立ったが吉日って言うじゃない。今日、お父さんのお見舞いに行ったら、なんか急に不安になっちゃってね…慎治や真矢ちゃんには決して迷惑をかけないようにするから。ちょっと電話してみるだけ。情報収集のつもりで。いい?」

「もう、勝手にして…こちらはそれどころじゃないんだよ。それに、話してなかったと思うけど、今日、真矢ちゃんが病院に受診するから午後から付き添うことになってるんだ。だから電話するなら明日以降にしてくれないかな?」

「病院受診? いったいどうしたっていうの?」

「今は詳しく話せないよ!とにかく、後でかけ直すから。いったん切るよ」

慎治は電話を切ると、天を仰いで溜息をついた。


「大和さぁん」

 待っていた慎治にカウンターから声がかかった。

「一番診察室にお入り下さい」

 ほっとして立ち上がった慎治は、カウンター奥へと延びる市松模様のタイルカーペットが続く廊下の一番手前にある診察室のスライドドアに歩み寄りおずおずとノックをした。


「どうぞ」

 中から入室を促す張りのある男性の声が聞こえ、慎治が中に入ると、Vネックの濃紺の半袖ユニフォームを着込み、よう、と気さくに手を挙げて回転椅子で微笑んでいる医師がいた。飯田だ。

 慎治にとっては、あの日の夜、ドクターヘリで駆けつけ、毛利を死の淵から救ってもらって以来の再会だ。

 慎治は硬い表情でぺこりと頭を下げた。


「先生、先日は本当にありがとうございました。なんとお礼を言っていいのか…もう駄目だと何度も思いましたけど、毛利さんがなんとか命を取り留めたのも先生のお陰です」

 緊張のせいか、慎治は準備していたお礼の半分も言えなかった。

 飯田が軽くふんふんと頷いて受け流すと、逆に慎治に質問を返した。

「大変だっただろ? 俺が一緒にヘリに乗って付いて来て、って言ったから迷惑かけたんじゃない? ところで、無事にあの晩は家に帰れたの?」

 慎治は照れながら右手で頭を掻き、勧められた丸椅子に座った。

「いゃあ、実はあの日は駅の近くのビジネスホテルに夜中の一時にチェックインしまして。翌朝も何しろ一銭もお金がないんで、手当たり次第友人に電話かけて、小松っていう奴がようやく車で迎えに来てくれたんです」

 飯田は如何にも悪いことをした、と言いたげに苦笑した。

「そっか~。ところで、良く事情聞いたら、毛利さんと君は親族でもなんでもないらしいね」

「そうなんです。父との同級生なんです」

 ふぅん、と飯田は相槌を打ちながらモニターの画面に顔を向けると、その横顔がバックライトの灯りで青白く染まった。

 飯田は画面に表示された病状経過説明書につらつらと目を通していたが、やがて慎治の方を振り向いた。

「まあ、君らがあの島で何をしていたか、個人的にはとんでもなく興味はあるけど、それは措くとして、今の毛利さんの状況を話しとこうか」

 慎治は、はい、と、椅子に座り直しながら身を乗り出した。


「まず、ね…順を追って説明しよう。知っての通り、彼は一時心肺停止の危険な状態だったけれども、君らの適切な蘇生処置の甲斐もあって、自己心拍は再開した。

 けど、一度心臓が止まると、その人の身体への影響は極めて大きい。

 そこで、その負担を和らげるために、低体温療法といって、彼の体温を三十二から三十六度に維持する治療を三日間行った。それから徐々に復温して平熱に戻したんだけど、依然として彼は昏睡状態のままだ」

 飯田は首筋を右手で擦りながら、眉を寄せてもう一度パソコンの画面を見つめた。

「一般的には高齢者の人ほど心拍再開後のリスクは高くなる」

 慎治はごくりと生唾を飲み込んだ。数秒沈黙したのち、彼は勇気を振り絞って尋ねた。

「…回復しないことも、あるんですか?」


 飯田は口角をぐっと引き上げて静かに慎治を見つめ返した。

「それは今のところ何とも言えないな。ただ、体をつねったら痛みへの反応はしっかりとある。だから希望は持てる。」


 鼻腔を膨らませながら鼻からふぅっと息を吐くと、慎治は下を向いたまま腕組みした。


「君の気持ちは分かるよ。けど、そんな時に余計落ち込ませてしまうようで悪いが、仮に覚醒しても、脳の障害や手足の麻痺などが残ることもある。しばらくは君らにとっても心理的負担は大きいよなぁ。ま、俺等も全力で治療していくから。

…ところで、どうだい? このあと、毛利さんの顔、見ていくかい?」

 慎治は憮然とした表情のまま、飯田の言にこくりと頷いた。

「よし。じゃあ看護師さんに案内させるから」


 飯田は言い終えると、中廊下で忙しく立ち働く看護スタッフの一人に声をかけた。

 いかにも仕事がさばけそうな短髪のスクラブシャツ姿の看護師は、飯田の指示を聞くと、分かりましたぁ、と快活に頷いた。

 慎治は飯田に丁重に頭を下げて、先導する彼女の後について診察室を後にした。


 毛利の病室は旧館だった。凸凹したリノリウムの床に蛍光灯の寒々しい光が反射し、長く暗い廊下を寂しく照らしていた。

「ここです」

 ナースステーションに隣接したガラス張りの部屋を覗くと、そこには十台ほどの医療用ベッドがあり、各々がカーテンで仕切られていた。

 ベッドの手前の長テーブルでは、白衣の医師と二名の看護師がパソコンの画面を見ながら何やら真剣なミーティングをしている。


 看護師が指差す先を見ると、酸素マスクを頭部にベルトで固定された毛利の姿があった。

 でっぷりと太って突き出した上体にはパッドが貼られ、その頭の上にはモニターで心電図の波形や心拍数などが表示されている。

 ベッドサイドにはさまざまな医療機器がところ狭しと置かれ、毛利の体はそれらとチューブで繋げられていた。見るからに生かされている、といった感じだ。

 慎治は、元気な頃の毛利の姿を思い浮かべ、そのギャップに居たたまれなくなった。


 慎治の表情の変化をそっと伺っていた看護師がさりげなく声をかけた。

「大変でしたねぇ、毛利さんも。福岡市内から搬送されてきたんですって? ご心配でしょう? 私たちも精一杯治療させていただきますから」

 看護師は眉をひそめ、うんうん、と同情して一人頷いた。


 未だ済んでいなかった入院手続きを終え、病院の玄関に慎治が降り立ったのは、それから一時間ほど経ってのことだった。

  真夏の強い日差しは外来駐車場に整然と並ぶ車のボンネットを焼き、その車列を縫って歩くだけでもその熱気にやられそうである。


 慎治は自分の車に向かいながら前日に父を見舞った時のことを思い出していた。


 重い意識障害があり、会って話しても分からないかも。

 母の玉枝からそう聞かされたが、病室を訪うと、予想に反してその日の丈一郎はしっかりとしており、なんの不足もなく会話できた。

 が、他方、慎治にとってそれは針のむしろでもあった。


 怒らないで冷静に聞いてほしい、と慎治が前置きしたにも関わらず、毛利が象瀬で心肺停止状態となり、未だ昏睡状態にあることを告げると、丈一郎はみるみる驚きの表情を見せ、慎治を罵倒した。

 痩せ細った体でよくそんな声が出せるなと思うほどの怒声であった。

 大声を聞いた看護師が廊下から心配して駆けつけたほどである。

 しかし、実は象瀬の強行軍を主導したのは他ならぬ毛利だったことを知ると、彼はようやくその身をリクライニングベッドに沈めたが、病衣から覗く痩せた肋骨は、未だ興奮で上下していた。


 すべての医療費は彼が回復するまで大和家が負担する。

 自分にもし不測の事態が起こっても、それは必ず守って欲しい。

 やがて冷静さを取り戻すと、丈一郎は慎治にそう言い渡した。


 それは当然だ、と慎治も深く同意すると共に、ある意味、父が毛利の保証人を引き受けてくれたことで彼の心理的な負担は大幅に軽減された。


 とは言え、いつ意識は元に戻るのか。

 先の見えない入院生活が自分たちの人生にどのような影響を今後及ぼすかを考えると、毛利には悪いと思いながらも、今の自分には重い負担だと感じざるを得なかった。


 慎治が自分の車のドアノブに手をかけドアを開けると、すぐさま熱気が顔を襲ってきた。

 車のキーを差し込み、エンジンを掛けようとすると、黒のビジネスショルダーに入れていた携帯が不意に鳴り響いた。


 慎治は慌ててファスナーを開けて携帯のポケットホルダーから電話を取り出して耳に充てた。


「もしもし?」

「もしもしぃ、大和さんの携帯でよろしかったですか?」

「はい、そうですが」

「ああ、良かった! 私、先程の看護師の橘ですぅ! 実はですね、毛利さん、今、突然意識を回復されたんですよぉ!」

「ぇえっ?」

 慎治は目を見開いて左右に眼を泳がせた。

「それで、ですね、大和さんと話しがしたい、と言っておられるんです! 

 もう外来駐車場、出られましたか?」

「いっ、いゃ、まだ出ていないです」

「あぁ、良かった~! 今からすぐ上がって来れますか?」

「あ、ああ、もちろんです! すぐに戻れます! 待ってて下さい!」


 慎治は予期せぬ急な展開に驚きつつつも、すぐに携帯を切り、開いたショルダーバックのポケットに携帯を滑り込ませた。

 そのつもりだった。


 だが、無情にも彼の携帯は気づかぬうちにバックの表面を滑り落ち、運転席とドアポケットの間の隙間をすり抜け、座席の下の暗闇へと消えた。

 慎治は急いで車のドアを勢いよく締めると、全速力といって良い程の速さで車列の間をすり抜け、病院の外来玄関へと駆け抜けていった。


 しばらくすると運転座席の下に落ちた携帯からは、真矢からの着信音とバイブ音が誰に取られることもなく、延々と車内で鳴り続けた。






 いよいよ象瀬付近の海底から元寇の際の遺物がのこされていないかどうかを調査するに当たって、コリンはネルグイに対し、與座氏から地元の漁協に事前に口添えしてほしい旨を伝えた。

 コリンは、実際に水中遺跡の発見につながるかどうかも分からない段階で、行政の埋蔵文化財課への許可などとややこしい話しにしたくない、ただ、頻繁に海域を行き来する漁協には一応断りを入れておきたい、とのことだった。

 ネルグイからの依頼に與座氏は快く応じ、島おこしにつながる発見になるかもしれないので、出来る限りのことをしたい、と非常に好意的だった。


 今回の初動調査は三名の潜水士が行う、ついては海上タクシーを二週間チャーターしてほしい、とコリンはネルグイに告げた。 

 宿泊については島内唯一の宿泊施設のある自然公園内のヴィラを三棟、貸し切ることになった。

 滞在がなにぶん長期であり、食材の買い出しや調理の補助が必要とのことで、コリンやネルグイにとって勝手知ったる礼子、真矢、大貴の力も出来る範囲で借りれないだろうか、と厚かましい依頼とは承知のうえで、ネルグイは與座氏に打診した。

 難色を示されるかと思いきや、これも、島のためになるのであれば、と與座氏は快く応じた。


「それぞれ予定があろうけれども、何とか力になってやってくれ」

 父からの依頼に、真矢は、複雑な思いだった。

 ネルグイは自分に好意を寄せている。そのことが真矢は疎ましかったが、なぜか、彼の依頼を断る気にはなれなかった。


 様々な海洋調査機器を積み込んだ二台の銀色のハイエースワゴンと共に、コリンも含めた四名の調査員が自然公園のヴィラ専用駐車場に到着したのは午後三時を過ぎた頃であった。

 ネルグイはコリンが連れてきた三人の調査員を見て驚いた。見ると、自分とほとんど変わらない若者ばかりではないか!


 コリンによると、彼らはアメリカ南部の大学からやってきた学生で、海洋調査の経験を積むために今回のプロジェクトの存在を聞きつけ、ぜひ参加させてほしい、と申し入れがあったのだという。

 なんでも、コリン自身もその大学の出身で、恩師の学部長直々のオファーとのことだった。


 コリンは丸太のような体にリネンのシャツを素肌の上から羽織り、ジーンズを履いただけのラフな格好だ。シャツの袖を手で巻き上げながら、彼はざっくばらんに学生たちをネルグイに紹介した。

「こちら、フレッドとリチャードとブライアンだ。同じ大学院で水中考古学を学んでる。君とも年齢は近いので、やりやすいと思うよ」


 コリンの体躯の後ろには、まだ幼さが残る栗毛の男二人とブロンドの男一人がはにかみながら笑みを見せて佇んでいる。

 ネルグイも体格には自信がある方だが、彼らも百八十センチ前後で、贅肉のない筋肉質の体つきをしており、顔は海洋調査でこんがりと日焼けし、Tシャツにバミューダパンツ、と、サーファーと見紛うような男ぶりである。

 ネルグイは三人とがっちり握手を交わし、親しげに声をかけた。

「会えてよかったです」

 

 宿泊先のヴィラは自然公園の一番高台に、芝生の大広場を取り囲むように建っていた。

 フロント係の案内で皆が芝に降り立つと、一同は前方に広がる雄大な玄界灘のパノラマに感嘆の声を挙げた。


 なだらかな緑の丘陵の先には眼の覚めるような紺碧の海が広がり、皿を伏せたような志賀島が手が届きそうなほど目の前にある。

 その島の端からは、まるで糸を引くように海の中道が本土へと弧を描いて繋がっていた。左に眼を転ずると、遠くに霞んだ玄界島や大机島、小机島がぽっこりと海に浮かび、博多湾を行き交う船々を静かに見守っている。


「ここからの景色、素晴らしいでしょう? 

 千三百年前の防人も、これを見ていたんですよ。それを考えただけで、なんだかロマンチックじゃありません?」

 スタッフの言葉をネルグイが通訳して伝えると、彼らもこれからの滞在への期待感からか、目を輝かせ、耳を傾けた。


 ヴィラの玄関に着き、ネルグイが居室の木製の鍵を手渡すと、コリンは心配そうに尋ねた。


「ネルグイ、この前から話してた件、大丈夫かな?」 

「ああ、今日のパーティーのことでしょ? ちょっと言いづらかったけど、與座さんは快く招待に応じてくれましたよ。與座さん自身は要件があって来れませんけど、礼子さん、真矢ちゃん、大貴君、三人とも来てくれるそうです」

「そうかぁ。それは良かった。実は潜水作業ってのは君らが思っている以上に過酷でね。始まる前に皆で景気づけしたかったし、世話になる與座家の皆さんとも親睦を深めたかったんだが…ほっとしたよ」

 コリンは満足げな笑みを浮かべた。

「じゃあ、今日は六時にこの隣の棟でバーベキューパーティーだ。それに、俺等がいる間はサポートスタッフのために専用のヴィラも一棟用意してるから、そこで寛いでもらってもいい。なんなら泊まってもらってもいいし。お酒も入ることだしね」

「大貴君が飲まずに足代わりになると言ってたんで大丈夫だと思いますよ。それと、コリンさん、良かったら與座さん一行が来るまでヴィラで書き物をしてても良いですか? 一本、今日中に仕上げなきゃならない原稿があるんで」

「ああ、構わんよ。自由に使ってくれ」

「ありがとうございます。それじゃあ、後ほど」


 そう言い置くと、ネルグイはルームキーを受け取り、三人の学生たちに手を挙げて気さくに挨拶を交わすと、隣のヴィラの垣根の向こうへと消えていった。





 

 この仕事を受けて、ネルグイは始めて後悔した。

 昨日の晩のことを思い出すだけで虫ずが走る。今でも三人の学生の胸ぐらをつかんで締め上げたいくらいだ。

 彼はそう思った。


 コリンは当初、海洋調査では酒と男女問題がプロジェクトに影響を及ぼすことも多いから、と、学生に行き過ぎた行動がないか注視していた。

 最初は杞憂と思えるほどに、彼らは身内だけで大人しく酒を飲んでいた。むしろ、学生たちは與座家の面々に遠慮し、遠巻きに様子を見ていたぐらいだ。

 雲行きが怪しくなったのは、大貴が大学生たちに気に入られ、一緒に飲み始めてからだった。


 若さゆえの深酒。そしてそれ以上に旅先の高揚も相まって、互いに競うように杯を交わし始めると、ついに酒に弱い大貴が先にダウンした。

 ハンドルキーパーの予定だった彼が潰れたことで礼子と真矢は途端に帰る足がなくなってしまった。


 だが、それくらいはまだ良かった。大学生たちは、今度は真矢を取り巻いて飲み始め、それだけでなく、母親の礼子にさえ色目を使う始末だった。

 特に、ブロンド髪をしたフレッドは、真矢に魅了されたようで、スマホの変顔ソフトで真矢を笑わせることに余念がなかった。

 調査海域で得た美しい貝殻を真矢に渡すぐらいはまだ許せた。しかし、いよいよ互いの肩が近づき、誘うようにフレッドが真矢の髪に触れ、真矢が身をのけぞらせた時、ネルグイの我慢の糸がぷっつりと切れた。


 彼は立ち上がり、フレッドの襟をつかもうとして手を伸ばすと、驚いたことに、コリンがすぐさま割って入った。

 彼はネルグイの肩を両手で抱いたまま浴室のパウダールームへと連れ出すと、いきなり平謝りに謝った。

 彼が言うには、このプロジェクトを成功させるためには、初日から喧嘩はまずい、そのうえ、フレッドは恩師の息子で、トラブルは避けたい、ここはなんとか堪えてくれ、とのことだった。

 ネルグイは、彼らが、尊敬する與座家の人々をホステスのように扱うことがどうしても許せなかったが、最終的にはコリンを立てるため、どうにか自らの怒りを落ち着かせた。

 その後、事態を収拾するためにコリンはパーティーを強制終了させ、與座家の面々をもうひとつのヴィラへと泊まらせたのである。


 ネルグイはコリンとツインのヴィラに一緒に泊まることになったのだが、いかんせん、彼の燃えるような憤怒がそう簡単に収まろうはずもない。

 隣でいびきをかいて眠るコリンをよそに、うつらうつらしたかと思うと、すぐ目が覚める。その繰り返しで、朝まで熟睡することもなく過ごす羽目になった。


 ようやく夜も白々と明けてきた頃、ネルグイは、ふとレセプション係の女性が語っていた、朝の自然公園を独占出来るのは宿泊者だけの特権、という言葉を思い出した。

 彼は、昨晩の悪夢のような出来事を忘れるためにも、新鮮な空気を吸いに出たい、と、コリンを起こさぬよう外に出た。


 北の玄界灘はまだ紫に沈んでいたが、ヴィラの壁は既に朝日の予兆で金色の光を身にまとい始めている。

 ネルグイが空に向かって伸びをすると、呼吸するほどに身体が浄化されていくのを感じる。

 携帯電話の時間はまだ五時半だ。


 ネルグイは東の方角を振り向いて息を飲んだ。


 海を向くコテージの庭には、逆光の中、陽に透かした人の静脈のように群生したブーゲンビリアが、たった今開花したかのように艶めかしく咲いている。

 その先を見ると、鏡のように静寂に満ちた博多湾が際限もなく拡がっていた。

 海の境界から空に隆起するかのような山々の漆黒の稜線には、今にも黎明が姿を現そうとその縁を橙に染めていた。


 次の瞬間、その尾根の一つから燦々たる光芒が八方に放たれたかと思うと、空にたなびく数多の巻雲を光の帯が貫いた。


 まるで神が今にも降りてくるかのようだ。


 その光景にうっとりと見惚れていたネルグイだったが、しばらくすると、コテージの隣に植えられた巨大な楠の葉陰に何かの気配を感じ取り、我に返った。


 鬱蒼と茂る、幹周りが大人三人分の太さの樹木の正面に回ると、ネルグイは驚いて声を挙げた。


「真矢ちゃん?」


 そこには、崖際に生えた楠の太枝に吊り下げられたブランコに腰掛け、湾の方角を寂しげに見つめている真矢がいた。


 真矢は青色のリネン地のシャツワンピースを着て、起きぬけなのだろう、化粧もろくにしていなかった。

 彼女の横顔のきめ細かい素肌は朝日に照らされしっとりと輝き、波打つ毛先が無造作にかかる豊かな胸からは、匂い立つような色気が漂っていた。

 ネルグイの声に反応した真矢は、まるでスローモーションの映像を見るかのようにブランコに乗ったままゆっくりと振り返った。


 ネルグイは思わず息を止めた。


 逆光の中で真矢の巻き毛は、まるで火に煽られた繭糸が宙に踊るかように浮かび上がり、朝日で金色に隈取りされた姿は、まるで人ではないかのように神々しかった。


「早いのね」

 ようやくポツリと真矢が口を開いた。


 真矢の姿に圧倒されながらもネルグイが答えた。

「ああ、朝まで、何だか眠れなくてね」


 ネルグイは真矢のただならぬ雰囲気を察して、遠慮がちにゆっくりと近づき、ブランコを支える楠の幹に半袖から覗く筋肉質の左肘を預けてもたれかかった。


 しばらく二人は一言も発することなく、並んで博多湾の朝の雄大な景色を見ていた。


 湾内には霞もない澄み切った空気の中、入港を待つ船が数隻、錨を下ろしている。

 遠くから聞こえる貨物船のトントントン、というエンジン音が小気味よく耳まで届いてくる。

 島の手前を一隻の小型船が、V字型の鮮やかな航跡を残し、のんびりと行き過ぎていく。


 互いに何も語らないが、不思議に居心地は悪くない。


 やがて、ネルグイが静かに口を開いた。

「何かあったのかい?」


 真矢は、あなたに言っても仕方ない、という調子で頬をわずかに膨らませ、ブランコを前後に揺すっていたが、ふいに空を見上げて誰ともなく語り出した。

「なんだかね。私自身の気持ちが分からなくなっちゃった」

 ネルグイは押し黙ったまま唇を真一文字に結んで前を向いた。


 志賀島と能古島に挟まれた狭い湾の入り口には、ボーッ、ボーッと汽笛を挙げながら、まるで王のような威厳でゆっくりと航路に進入してくる大型貨物船が見える。


「みんな、なんで先を急ぐんだろう。人の気持ちなんてそれぞれ進行速度は違うのに。私達以外のところで話しはどんどん進んでいって、取り残されるのは私だけ。大和家や私のお母さんからも結婚を匂わせる発言があるし、もう、神社の総代会なんかでもお父さんが話してるみたいだし。

 もう、怒りを通り越して呆れてものも言えないわ。どこかに逃げ出したいくらい」


 真矢は語り終えると目を伏せた。

 潤んだ瞳にかかる長いまつ毛が光を帯びて七色に煌めいている。


「自分の生き方を自分で決められない。そんな息苦しい気持ち、僕も経験があるから、良く分かるよ」

 ネルグイは一人、頷いた。

「だけど、真矢ちゃんが自分で言ったように人の感じ方はそれぞれ違うものなんだし。だから、土台、人が言う事なんて深刻に考え過ぎない方がいいんじゃないかな?」


 真矢はちらりとネルグイを咎めるように見ると、鼻を鳴らした。

「あなたは島のことを知らないのよ。たとえ悪気がなくても、いつの間にか私たちの噂は広まる。そして、それにがんじがらめにされちゃうの」

 ブランコのロープを真矢は握りしめている。


 深い溜息をつくと、今度は真矢は眉をひそめてネルグイを見上げ、問い詰めるかのように尋ねた。

「勝手に村田先生や私の母からも、仮結納だ、なんて言われちゃってさ…私は口にしたことさえないのに。仮結納? …いったい何なの?って感じ。あなたの国はどうなの? そんなしきたり、ある?」

 ネルグイは意表をつかれ、目を丸くした。

「しきたり? う~ん。そうだな。日本の細かな慣習を知ってるわけじゃないけど、僕ら、都会の生活はまだしも、遊牧民としてはそりゃ、数えきれないほどしきたりはあるよ。けど、今はそれに縛られる理由もない。…帰る家もあるけど、ないようなもんで」

「家があるけど、ない? どういう意味?」

 ネルグイは逡巡して口ごもっていたが、やがて仕方がない、という様子でぽつりと語った。

「僕らは故郷を捨てた。それに父も母も、とうにいない」

 言い終えるとネルグイは寂しげに微笑した。


 真矢は悪いことを聞いた、とでも言いたげに、目を瞬かせて下を向き、ごめんなさい、と声を絞り出した。

 

 しばらくは無言の時間が続いた。


 眼の前に広がる世界は朝日によって次第にその全てがまばゆいほどのオレンジ色に染まっていく。

 霞む群青色の山あいから顔を出した太陽は、海に溶鉱炉のような茜色の光の帯をつくり、その道は、海を割り、二人の前までまっすぐに続いている。


 ネルグイが今度は明るい調子で切り出した。

「誤解しないでほしいんだけど、ぼくが見た今の真矢ちゃんの状況を客観的に考えてみようか。まず、良い知らせと悪い知らせがある」

 真矢は最初は驚いた表情で受け止めていたが、静かに頷いてネルグイの顔を見つめた。

「じゃ、まず悪い知らせから」


 どこかで見た光景だな…ネルグイは不思議な感覚を覚えた。

「うん。そう来るかと思ったよ。じゃあ、ね。まず、君は、まだ交際して時間が浅すぎると言い、周囲があまりにも急ぎすぎだという。しかし、もし君が本当に慎治君との仲を進めたいと思うんだったら、両家と真剣に渡り合って、現状の流れを止めるべく必死に動くべきじゃないのか。

 だけど、今はその努力さえせずに、ただ不安や不満を抱えて悶々としているだけだ。 

 言っておくけど、僕は君のことが好きだ。しかし、これは自分が有利になるための発言じゃない、ってことだけは理解してほしい」


 真矢は瞬きもせずにネルグイを見ていた。

「本当にやるべきことがあるのにその方向に動いていない。これから導き出される答えはただ一つ。

 君はこれから時間をかけたとしても、今以上に彼を好きになれない。それだけじゃないのか。

 それが君が動かない本当の理由なんじゃないのか。

 もしそうだとすれば、迷いがあれば今すぐにでも止めるべきだ。どんなに話しが進んでいたとしても、君の不安を止める方法はそれしかない。

 彼との縁談が壊れることがどんなに辛くとも、それは、一瞬だ。

 それに比べて君の人生は長い。君の人生は人のものじゃなく、自分自身のものなんだから」


 白く透き通った喉を緊張でごくりと動かし、真矢は眉を寄せた。

「じゃあ、良い知らせは?」

 真矢はわずかな望みをかけるように問いかけた。


「良い知らせは、こうだよ。君が今、慎治君を本当に愛していることに気づいて、全力で両家を止めること。そして、お互いの愛が深まって時期が来るのを待つことだ。そうすれば、全てが丸く収まる。誰も傷つかない」


 二つの提言を聞き、真矢は暗澹たる心地で背筋を伸ばしたままブランコに座り、微動だにせずに前を見つめた。




「オハヨウゴザイマース!」

 朝の静寂を破るような人の呼ばわる声が突如響きわたり、二人が面食らってコテージの側を見ると、大きな筋肉質の体にキツめのTシャツを身にまとった、ショートパンツを履いたコリンが手を振っていた。


 満面の笑みで近づいてきたコリンは片眉を上げて陽気に問いかけた。

「お邪魔だったかい?」

 照れたようにブランコの座板から立ち上がった真矢は、否定するように手を振り、コリンに向かって微笑んだ。


「大丈夫よ。コリンさん。お早いのね」

「アサ、ハヤイ、キモチイイ、ネ?」

 悪戯っ子のようにコリンはウインクした。

 うふふ、と真矢も応じた。

 ネルグイも二人でいたことに少々恥じらいつつも、何事もなかったかのように事務的に問いかけた。

「コリンさん、意外と朝、早いんですね。朝食までにはまだ一時間くらいありますよ。食事の内容、昨晩、ちゃんとリクエストしてましたっけ?」

 知らないのか、という体でコリンは答えた。

「俺は朝は強いんだぜ。特にオンビジネスの時は、な。…で、どうだい?迷惑でなかったら、君らも一緒に朝食の時間まで園内を散策しないか? 打ち合わせも兼ねて」


 唐突な誘いだったが、ネルグイは素直にこくりと頷いた。

 彼が真矢の方を振り返ると、彼女は首を横に振り、コテージに戻るわ、とだけ告げた。

 当たりは気づかぬうちにすっかりと日も昇り、開園時間前で客が未だにいない中、作業服を来たスタッフが一輪車に農作業用の耕具を載せ、談笑しながら三々五々持ち場へと向かっている。

 いつから鳴き始めたのか、クマゼミのワシャワシャと忙しない鳴き声が園内の芝生広場を囲む木々の至るところから聞こえてくる。


 ネルグイは自らの消化しきれぬ気持ちを抱えたまま、コテージの中へと消える真矢を見届けると、あえて必要以上にコリンとの会話に没入しようと努めた。




           


 慎治は、毛利が入院してからというもの、お見舞いや身の回りの世話など、休みの日はほとんど自分の時間もない有様だった。

 また、平日は父の知り合いの不動産会社での見習い研修も本格化し、遅い日は夜十一時に帰宅して朝五時に起床する、というタイトなスケジュールを余儀なくされた。


 それに加えて、父の病状の悪化である。


 慎治は飯塚の花瀬からの出勤時間や父の見舞い、毛利が入院する佐賀への距離などを勘案し、以前から必要な時は声をかけてくれ、と言われていた村田のマンションを一時的に借りれないか、と泣きついてみた。

 幸いなことに、既に村田の父は、自宅に近い場所に議員事務所の機能を移転していたこともあり、マンションは空き家同然だった。

 ただと言うのも何だろう、と、急転直下、破格の値段で慎治が半年ほど借りることになったのだ。


 お陰で、移動時間が相当短縮されたものの、多忙な日々に変わりはない。


 村田には真矢と交際の進展について、ある程度伝えてはいた。

 しかし、真矢との関係にきしみが生じたそもそもの原因であった家族合同での食事会については、村田の父が好意で行ったことだけに、慎治はオブラートに包んだような言い回ししか出来なかった。


 何で仲が悪くなっているのか理解出来んな。

 村田はしきりに首を傾げていたが、そもそも彼が二人を引き合わせただけに、自分に出来ることがあれば、と、心強かった。

 

 ただ、真矢が乳がんの疑いで病院に行く際、同行を約束していたにも関わらず、結果すっぽかした形になってしまった経緯を聞くと、村田は、お前も要領が悪いやつだな、とにかく電話やメールじゃなく、一刻でも早く本人に会うことだ、と焚き付けた。


 病院で受診した結果、彼女の乳がんの疑いは晴れたものの、その後、真矢からの連絡は途絶えていた。

 平謝りに何度も電話で詫びた慎治だったが、真矢は電話口ではつれない返事ばかりで、こちらから会いたい、と申し入れても何だかだとはぐらかされた。


 学生から社会人、と急激な生活の変化に翻弄されるばかりか、父や毛利の闘病、真矢との交際が周囲の盛り上がりとは逆行するように冷え込んでいることで、慎治の心は自分でも分かるほどに荒んでいった。







 その日の夜はバケツの底が抜けたような、線状降水帯が停滞したことによる土砂降りの雨だった。


 近所の一級河川も氾濫注意報が出ており、避難勧告が出されてはいたが、川から距離があるからと高を括り、慎治が避難所に行くことはなかった。

 一人慎治が部屋で過ごす中、マンションの外壁や窓には叩きつけるような激しい雨が降り続き、時としてその轟音は、ガラスを破るのではないかと恐怖を感じるほどだった。


 そのうち、珍しく妹の未來が慎治に電話をかけてきた。

 内容は母から促されての雨の中の安否確認だったが、なぜか歴史調査の話しの流れの中で真矢とネルグイの話題になった。


 あの二人、なんか、雰囲気似てるんだよね。

 慎治と真矢の現在の状況もろくに知らない未來ではあったが、言い終えた瞬間、はっ、余計なことを言った、とでもいうように息を止め、深い意味はないのよ、と即座に打ち消したものの、二人の会話にはぎくしゃくした気まずさだけが残った。

 ただでさえ落ち込んでいるのに未來の追い打ちをかけるような言葉に慎治はますます苛立った。


 何とか自らの焦燥を抑えつつも、豪雨の中で未來の声が聞き取りづらいことも相まって、この面倒な電話が一秒でも早く終ることを願った。


 じゃあね。

 しばらくすると軽やかに言い放って未來は電話を切った。


 時計をみると、すでに午後九時だ。

 豪雨でとても外に出れる状況にはなかったが、慎治は台所の床下にインスタント食品があることを村田が話していたことをふと思い出し、屈んでハッチを開けると、びっくりするほどのストックだ。

 飯抜きと覚悟していた慎治は、安堵してカップ麺を一つ取り出し、電気ポットのお湯を入れた。



 ピンポーン。

 雨の音にかき消されそうになりながらも、インターホンの甲高い音が室内に突然鳴り響いた。


 なぜ? 

 こんな豪雨の中、いったい誰が?


 一瞬、慎治は恐怖さえ感じつつ、リビングの入り口にあるインターホンモニターに走り寄ると、そこには玄関ホールで無表情に立ち尽くす真矢がいた。

 会社の制服のままの真矢は、傘を差してはいたのだろうが、横殴りの雨で、ライトグレイの服が黒に見紛うほどに濡れている。

 ウェーブする髪の毛の先から雨の雫が落ちているのが暗いモニター越しでも分かった。


「私。開けてもらっていい?」

「真矢ちゃん! いったいどうしたの?」

 驚いた慎治はさっそくシステムパネルのボタンを焦りながら押し、オートロックを解除した。


 サンダルを履いて慎治が玄関の扉を半分開けると、真矢は照れたような笑みを浮かべたが、すぐに蝋細工のような顔に戻り、その暗い瞳には深い疲労の色が見て取れた。

 ソバージュの髪は雨と湿気でくるくると大きくカールし、ぐっしょりと濡れた毛先からは水滴がぽたぽたとオーバーブラウスの肩に落ち続けている。

 額や頬には乱れた毛先が風呂上がりのように張り付き、最後に会った日から比べると、そのあまりにやつれたイメージに、慎治は驚いた。


「ああ、こりゃあ…」

 戸惑いながら、慎治は、さぁ、とにかく入って、と真矢に促した。

 玄関タイルに立つ真矢をそのままに、慎治は急ぎ洗面室のラックから手頃なバスタオルを二枚取り、戻るなり、その一枚で彼女の肩を優しくふわりと包んだ。


「とりあえず、濡れてるところ、拭こうか?」

 真矢がこくりと首肯くと、慎治は今度はリビングにある四人掛けのダイニングテーブルの木製の椅子の上にもう一枚のタオルを敷いて、まずは座って、と勧めるが真矢はなかなかもじもじとして座ろうとしない。


「服、濡れて気持ち悪いよね…風呂場の乾燥機で、乾かす?」

 慎治は着替えをどうするか悩んだが、幸いなことに、サイズ違いで返品するつもりだった生成りの長袖シャツをクローゼットに入れていたことを思い出した。


「良かったらシャワーでも浴びたら? 着替えは僕のでなんだけど、新品のシャツ、あるから。それでもいい?」

「うん」

 始めて真矢が声を発すると、慎治はようやくほっとしてバスルームへと彼女を誘った。


 風呂場で真矢がシャワーを浴びている間、慎治は考えた。


 なぜ今日、彼女は来たんだろう? 


 もちろん、悪い気はしなかった。こんな酷い夜に自分を頼って訪ねてきてくれたことがただ単純に嬉しかった。

 しかし、ここ数週間の真矢の態度からすると、不自然のような気もするのだ。


 慎治の腹が鳴った。

「そうだ、いけね、そのままにしてた」

 独り言して慎治はキッチンに戻ると、カップヌードルの麺は伸び切っていた。彼は相変わらず地鳴りのように響き渡る豪雨の音にじっと耳を傾けながら、麺をすすった。




「ありがとう。ほっとしたわ」

 リビングのテーブルに頬杖をしてスマホで時間潰しをしていた慎治の後ろから真矢が声をかけた。

 振り返ると、波打ち、長く豊かな髪をシュシュで束ね、洗いざらしの襟付きのシャツを素肌に羽織った真矢がいた。

 大きくせり上がり開襟した胸元には和蝋燭のような鎖骨が露わになり、白く滑らかな肌は、シャワーの温水を浴びてわずかにピンク色を帯びていた。

 ワイシャツの前身頃が、ふくよかな太腿を申し訳程度に半分ほど隠し、その下には丸みを帯びた膝小僧とスラリと伸びる足が見えた。


「なんか、飲む? ビールならあるけど…」

 恐る恐る慎治が尋ねた。

「そうね。飲もうかしら」

 吐息を漏らしながら、しょうがない、とでも言うように真矢は返事をした。


 慎治が缶ビールのプルタブを開けて真矢に手渡すと、彼女は一口目を申し訳程度に飲んだものの、すぐに缶を置き、テーブルに視線を落としたまま唇を結び、黙り込んだ。


 ただならぬ気配に慌てた慎治は、何とかこの重苦しい雰囲気から抜け出そうと、あの象瀬での顛末をいささか大げさに脚色して面白おかしく真矢に語り始めた。

 が、熱を帯びて慎治が語れば語るほど真矢は気のない素振りをして、頷きもせず、ただ虚ろな瞳で頬杖をついて、視線も合わさずに正面を向いている。


 まるで相手のいない独言を続けているような慎治の顔を、真矢はようやく下から舐めるように見上げた。


「まず、謝るべきじゃない?」

「え?」

「電話では確かに言い訳は聞いた。だけど、私にちゃんとした形で謝ってないよね?」


 慎治は狼狽えた。

「う~ん、そう? 自分ではちゃんと謝ったつもりだったんだけど…君には、そう取れなかったんだね?

 …じゃあ、改めて…本当、悪かったっ!ごめんなさいっ!」


  彼は自分でも驚くほど力の籠もった声で、目を伏せてしばし頭を垂れた。


 真矢は憮然とした態度でそれを見つめていたが、やがて重々しく口を開いた。

「そんなんじゃ、駄目でしょ。何も気持ちが籠もってない」


 慎治は戸惑った。

「じゃあ、一体どうすれば…」


 きっ、と真矢は慎治を見返した。

「一体どうすれば、じゃないでしょ? 私が病院でどんな心境だったか分かる? ただでさえ病気かどうかで不安なのに、知らない病院で知らない先生に診てもらうことがどんな気持ちなのか。それなのに、あなたは自分の言い訳ばかり。確かに毛利さんのことは不幸なことだったけど、それをあなたは強調するばかりで、私の気持ちには全く眼を向けようとしてないじゃない?」

 慎治は、言いがかりのように聞こえたのか、目を神経質に瞬かせている。

「全く眼を向けてないなんて、それはないよ。誰よりも心配してたし、どうにかしたいと思ったからこそ病院を紹介したんじゃない」


「でも、あなたは来なかった」

 真矢は追い打ちをかけるように冷たく言い放った。


 それを言われたら二の句も告げない。

 慎治は下を向いて言い訳したい自分の気持ちを押し込めた。


「だいたい、家族同士の食事会といい、今回の件といい、私の気持ちはいつも後回し! 私を守ろうともせず、あなたはいつも自分を守ることしか考えてないじゃない? それに、歴史調査だって…私も最初はあなたや毛利さんやネルグイさんと会うことがただ楽しかった。

 けど、今はこう思う。先祖のことも大事だけど、今の私たちがどう生きるかが一番大事なんじゃないの?   

 それに、家をどう守っていくかを大和家は大切にしてるみたいだけど、第一に守らなければいけないのは、今の二人の関係じゃないの?」


 強い真矢の口調に、慎治は黙ってうつむくままだった。反論しようと思えば出来なくもない。しかし、今、彼女に何を言っても一緒だ。そう思った。


 その後、真矢との言い争いは延々と続いた。一度止んだかと思うと、真矢が再び激昂し、同じ話しが繰り返されるという、彼にとっては悪夢のような時間だった。


 真矢も当初は自らの感情を抑制しているかのようだったが、何度目かの慎治からの弁解を聞くと、突然、堰を切ったように彼女の怒りが沸点を超えた。


「どうして言い訳が先で謝罪があとなのよ!」


 しばらく沈黙が二人の間を支配したが、数秒後、豪雨の音を切り裂くように地響きのような雷鳴が轟き、目も眩むような閃光が走った。

 頭を抱えた真矢が、突然テーブルの上に突っ伏した。


「もう、どうしていいか、何がなんだか」

 未だ鳴るタイミングを伺っているような地鳴りのような雷の音が聞こえ、またもや稲光が部屋の中を真昼のように照らし出すと、真矢は耳を両手で塞ぎながら眉間に深い皺を寄せ、目を瞑ったまま動かなくなった。


 いつもの真矢じゃない。


 慎治は尋常ではない彼女の怒りに恐怖を覚えたが、何か手立てがあるわけでもない。

 今はなんとか彼女をなだめつつ、今日という日をやり過ごすしかない。


 気づけば時計は日をまたぎ、深夜の二時を差していた。


 篠突く雨はまだ夜半も続き、明日の午前中まで避難勧告は解除されそうもない、とスマホの臨時ニュースは伝えた。

 このままだと午前中いっぱいまでは仕事も休みだろう。


 慎治にはそれが唯一安堵できる材料だったが、それにしても、この際限のない議論にどこかでけりをつけねばならない。しかし、実りのない口論はそれからも続いた。


 いよいよ時計の針が四時を差した。

 慎治はあまりの眠気に頬杖した顎が何度も外れ、朦朧とした意識と戦っていた。真矢もその姿を見るたびに自らの怒りを増幅させてきたものの、さしもの彼女も、ついに椅子の背に疲れた身を預け、右に首を倒したまま、目を閉じて動かなくなっていった。

 

 それからまた、どれくらいの時間が経ったであろうか。

 突然頬杖が外れ、慎治がびっくりして飛び起きると、すでに朝の七時半になっていた。


 まずい、会社の早出の人に電話しないと。

 慎治は携帯を手に電話をかけると、その声で真矢も目を覚ました。


「あ、ああ、分かりました。いえ、まだ外には出てません。雨はまだ降ってます。はい。ありがとうございます」


 電話を慎治が切ると、真矢は放心したような目でこちらを見た。

「起きた? うちの会社、午前中は様子を見て出勤ってことになったみたい」

 眠そうな目を擦って真矢はわずかに首を縦にふり、虚ろな表情で応えた。


 真矢はおもむろに隣の椅子に置いていた巾着型のショルダーバックに手を伸ばして携帯を取り出した。

「もしもし。あ、おはようございます。與座です。はい、まだ…。そうですね。いえ、その時間は…実は今、込み入った話しをしてまして、雨のこともあるんですが、お昼くらいの出勤になると思います。すみません」




 外は昨晩までではないものの、やはり滝のような雨で、窓ガラスにぶつかる雨垂れは蛇口から水を流し続けているかのようだ。

「朝はどうする? カップラーメンとコーヒーくらいしかないけど…」

 慎治はおずおずと真矢に尋ねた。

 真矢は一瞬ためらったようだったが、すぐに何もいらない、とでも言うように首を左右に静かに振った。

 不意に前触れもなく席を立ち、一切目線を向けることなく真矢は洗面所へと向かった。


 三十分ほどかけて身支度をして帰ってきた真矢は、すでに昨晩から浴室で乾燥させていた会社の制服を身に着けていた。

 その後二人は無言のままテーブルの前にスマホを手に居心地悪げに向き合っていたが、やがて慎治は思い出したように立ち上がり、真矢を置いてデスクトップパソコンの前にあるオフィスチェアーに腰掛け、電源を立ち上げてメールをチェツクし始めた。


 そう言えば毛利には携帯ではなくパソコンのアドレスしか教えていない、が?

 来ている。

 二、三日忙しさにかまけて確認していなかったが、そこには毛利からのメールが三通ほど溜まっていた。

 慎治は開封が遅れたことを後悔した。しかし、メールが出来るほどに気力と体力が回復してきた彼からの知らせは嬉しくもあった。

 その内容は、入院先の大学病院への訪問が可能かどうかを問い合わせるものだった。どうやら、新たな真実が明らかになったらしい。


 慎治は、返信が遅れたお詫びととともに、簡単な文面で訪問が可能なことを記入し終えると、画面を見ながら背中越しに何気なく真矢に声をかけた。

「それで、真矢ちゃん、いつ帰るの?」


 真矢はその言葉を聞いた途端、スマホから顔を上げて信じられないとでも言うような呆れた顔を見せたが、次の瞬間、目を見開き、薄いこめかみに筋を立て、声を張り上げた。

「何、その言葉?いかにも早くに帰ってほしいような言い方!あんまりじゃない?」


 慎治は予期せぬ真矢の反応に慌てて振り返った。

「いや!? そんなつもりは全くないよ!」

「…そんなつもりは全くない、ですって? よくもそんなことが言えるわね! ほんっ、と、信じられない! 私が、、、私が、、どんな思いでここに来てあなたと話そうとしたのか、結局何ひとつ分かってなかったってことじゃない?!」

 声を震わせて真矢は鬼のような形相で慎治を見据えた。


 押し問答が何分も続いた。

 慎治はなおも突っかかる真矢を何とかなだめようとするのだったが、度重なる謝罪の要求に、とうとう昨晩から何度も押し殺していた己の感情が爆発した。


「いい加減にしてくれ!僕だって色々大変な中、真矢ちゃんのことに努力してきたんだ。それがなぜ分からないの? 今、僕は家業のことだけじゃなく、研修先のこと、父の病気のこと、歴史調査のこと、毛利さんの入院のこと、本当、これ以上ないくらい忙しい状況の中をやりくりしてるんだよ! それを何の努力もしてないように言われるのは心外だよ! 

 これ以上話しても堂々巡りになるだけだ! 今日は、出ていってくれ!」

 

 真矢は怒りで唇をわなわなと震わせた。

「なんてことを言うの?! あなたは昨晩、私が話したことを何も分かってない!」


 議論を尚も続けようとする真矢に切れた慎治は、彼女のショルダーバックを椅子からひったくると、力ずくでその胸に押し付け、全体重をかけて廊下へと追いやった。が、真矢も負けじと抵抗し、慎治をリビングへと押し戻した。

 やがて幾度かの小競り合いの末に二人が玄関に達すると、未だ罵倒し続ける真矢の言葉を慎治は両手で封じ、苦虫を潰したような顔をして言い切った。


「とにかく…とにかく…、今日は帰ってくれ!」


 玄関の鉄の扉を開け、真矢の体が通れるほどのスペースが開くと、慎治はそこに彼女を押し込んだが、なおも激高して真矢は声を張り上げた。

「私のことなんか、私のことなんかどうでもいいんでしょ?!」


 目を怒りで見開いて発した真矢の言葉に慎治は一瞬たじろいだが、心の中で何か大きな悲しみを感じながらも、慎治は力ずくで扉を閉じた。


 雨は先ほどまでの風や雷雨が嘘のように、今ではしとしとと心地よいほどの降り方に落ち着き、ときおり雨だれが隣家のトタンの庇を心地よく叩く音だけが聞こえてくる。


 慎治は、玄関の扉に額を押し付けながらしばらく立ち尽くし、己の心に湧く怒りを何とか落ち着かせようと努力した。


 と同時に、慎治はわけもなく、止め処なく溢れる涙が自分の頬を伝って玄関のタイルにぽたぽたと落ちるのをただ呆然として見つめていた。






 豪雨の日から一週間ほど経ち、慎治は、毛利からの依頼により、佐賀弘道館大学医学部の附属病院を見舞いも兼ねて訪ねた。


 病棟の担当看護師によると、毛利は、すでに少しずつ運動負荷を加えつつ、食事内容の改善指導も含めて徐々に退院に向かっている段階ということだった。


 真矢との一件があって以来、慎治は仕事はもとより、プライベートでもなるべく空き時間がないよう、自分自身に考える余裕を与えないように心がけてきた。

 そうでなければ平静を保っていられないのだ。

 ただ、八方塞がりの中、毛利の回復は唯一、彼にとっての明るい材料だった。


 慎治が午後三時を回るころに旧館南二階のナースステーションを尋ねると、数名いる中の一人の看護師が、あらぁ、と反応し、毛利さんなら今、廊下を歩行器で理学療法士さんと歩いていますよ、と告げた。

 慎治は、詰め所を中心に東西に走る二本の廊下を歩いて毛利を探した。

 すると、毛利の居室である二〇八号室近くに、ポロシャツにジャージ姿のセラピストと思しきスタッフに付き添われ、歩行器に両腕を回している毛利がいた。

 銀髪の頭や顔に巻かれていた包帯も既に取れ、眼鏡の奥の目の光には気力が宿り、血色の良いふっくらとした頬の様子からも良好な健康状態を伺わせた。

 病衣から覗く、でっぷりとしていた腹が多少凹んでいるように見えるのは、食事療法が功を奏したからであろうか。


 慎治の姿にすぐに気付いた毛利は、よっ、といつものように小さく、可愛らしく手を挙げた。


「悪いねぇ、いつも。今日は仕事、休みなの?」

 慎治がにこやかな笑みで返すと、毛利はご満悦の様子で、付き添いの理学療法士に向き直り、やがて遠慮がちに切り出した。

「伊藤さん、ね? お見舞いで彼、来てくれたし、この天気でしょ? 三階の屋上庭園にでも出ていきたいんだけど、どうかな?」

 スポーツ刈りでひょろりとした体型の彼は、さも意外だ、と言いたげに目をぱちくりさせた。

「毛利さん、いつもはキツイキツイ、もう駄目、なんて言ってるけど、今日はなんかやる気が漲ってるねぇ」


 照れた表情で毛利が視線を落とすと、彼は破顔し、全然問題ありませんよ、むしろ是非行ってきてください、と彼の肩に優しく手を置いた。


 慎治は毛利と並ぶと、歩行器でたどたどしく進む彼の歩幅に合わせて、地面を踏みしめるかのようにゆっくりと慎重に足を進めた。

 

 二人がエレベーターホールを抜けて開け放たれたアンティーク調の鉄扉を越えると、そこには鋼鉄のクライミングアーチに白やピンクの薔薇を纏う芳しい香りが漂うトンネルが続き、朝方に降った俄か雨でその蔓や葉は目に染みるほどの緑だった。


 トンネルを抜けると、木製の遊歩道には植栽や花壇が配され、瀟洒でこだわりのある意匠は、まるで英国の庭園のようだ。

 咲き誇る花壇のそばには木製のベンチがフェンス沿いに数脚配置され、佐賀市内の町並みが遥かに一望できる。

 毛利は、中央のベンチの一番良い場所を選ぶと、慎治にも座るように勧めた。


 歩行器から毛利がベンチに移ろうとすると、慎治は手助けを申し出たが、毛利は笑ってそれを制し、自らの力で移乗した。

「ああ~。ここ数週間の出来事を思うと、こうして座っているだけで奇跡みたいなもんだね」

 毛利は深く嘆息した。

 慎治も、感慨深げに同意した。

「もっともです…。なんか、一年くらいの出来事が一気に来た感じで…。…でも、毛利さん、実際のところ、具合はどうなんですか?」

 毛利は頭を掻いた。

「いゃあ…もちろん、日々良くなってきてる実感はあるが…逆に、人は何時どうなるか分からないって思いが強くなりすぎちゃってさ。今も精神安定剤を飲みながら、隠れて作業してるとこさ。飯田先生からは、おかげでこっぴどく怒られてるよ」

 彼は笑うと、外に出たのが嬉しくてたまらない、といった様子で、うぅん、と背伸びをし、はるか遠くの、淡い陽を浴びて光る甍の波をしみじみと見つめた。

 やがて毛利が、慎治に申し訳なさそうに切り出した。

「宿題を残したままだったんで、いい加減、気になってただろ?」

「ま、まあそうですね」

 慎治は苦笑した。


 毛利はわずかの間、空を見上げ、呼吸を整えているように見えた。が、やがて、目を細め、重々しくその口を開いた。


「…今回、象瀬で見つかったもの…そして、これまで我々が調査を通じて得てきたもの。それらを勘案して、僕はすでに一定の見解に到達している。しかし、それをそのまま君に伝えるべきどうか、少々迷っていたんだよ」


 慎治は毛利の心を測りかね、不思議な顔をして次の言葉を待った。


「今回の象瀬の竹行李に入っていた古文書と印章。あれは、君も見たよね?」

 慎治は生唾を飲んだ。

「はい、もちろんです」

 よろしい、と頷いて毛利は続けた。


「あの象瀬で発見した古文書…あれは、まさに、我々が探していた大和四郎左衛門の失われた三年分の日記そのものだった。そして、一緒に見つかった印章。これも、驚くべきことに、なんと…西暦一二七四年、蒙古軍の第一回目の博多侵攻の際、中隊長の印可として兵士にフビライ・ハンが授けたものだったのだ」

 慎治はあまりにも非現実的な話しに目をむいた。

「なんですって!?」

 毛利は驚愕する慎治を見て、まあ落ち着け、と言わんばかりに両手でなだめた。

「君の驚きは理解できる。私も最初は心臓が止まるかと思ったよ」


 彼はほくそ笑んで数秒、ベンチから見える町並みを目を細めて見ていたが、すぐに険しい表情に戻った。

「だが、ことはそう単純ではない。順を追って話そう。まず古文書の件だ。

 がっかりさせると思うけど、大和四郎左衛門の日記の中には、千利休や貝原益軒との直接のつながりを示す証拠になる記述は、実のところ、見つからなかった。

 ひょっとして僕らには読み解けない暗号のようなものが隠されている可能性も大いにあるが、正直、あの日記を四郎左衛門がなぜ抜きとったのか、僕には分からない。抜き取られた日記の内容も、来客者の名前や世相、日々の出来事や雑感が記されているだけで、秘密と呼べるべきものはほぼ見当たらなかった」


 衝撃的な毛利の発言を、慎治は口を開けたまま聞いていた。

 落胆を隠さない慎治の表情に、毛利は無理もない、という調子で頷いた。

「ただ、不肖毛利、歴史家から怒られるかもしれんが、状況証拠を積み重ねた自分なりの見解はある」

 毛利は咳払いをして言葉を継いだ。

「まず、考えてもみてご覧。象瀬に隠されていた庄屋日記とモンゴル兵の印章。そうまでして隠したかったのは何故か? 

 誰が何も関係がないものを、あの岩肌を登り、埋める必要がある? 

 隠さねばならないのは、この二つに関連があるからこそだ。

 ところで、慎治君、福岡県の宗像市にある宗像大社って知ってる?」

「宗像大社ですか? たしか、世界文化遺産に登録されているところですよね。海の正倉院って言われて国宝もたくさん展示されてるらしいけど、僕は行ったことないです」

「そう、その宗像大社だ。

 そして、この玄界灘に面した筑前・宗像の地を古代より支配していたのが、古事記や日本書紀にもその名が記されている海洋豪族の宗像氏だ。

 当時、宗像水軍といえば、知らぬものはないほどの海上戦の、いわばプロフェッショナルだった。

 元寇の際も、鎌倉幕府の要請を受けて、弘安の役にあたっては博多浜の防塁の築造を任されている。

 そして、ここからが問題なのだが…私の友人の郷土史家からの情報によれば、宗像社史関連の鎌倉時代初期の古文書の中に、宗像氏の家臣に大和四郎左衛門という人物がいたらしいんだ」


「大和四郎左衛門! 同姓同名? 偶然ですか?」

 慎治は驚いて声を挙げた。

 彼の反応が落胆から期待へと変わったのが余程嬉しかったのか、毛利は目の奥底をきらりと輝かせた。


「ここで一つの仮説が立てられる。第一回の蒙古襲来、文永の役は、唯一の資料である八幡愚童訓では元軍は一夜にして撤退したことになっている。

 その真偽はさておき、退却する船に乗り遅れ兵士たちも当然いただろう。投降したある者は斬首され、ある者は捕虜とされただろうが、逃げ遅れた敵のために数ヶ月は御家人による残党狩りが行われたに違いない。その際、宗像氏も当然、幕府の依頼を受けてその一翼を担っただろう。そして、その任を…」

 すぅっと鼻から毛利は息を吸いこんだ。

「四郎左衛門は与えられたに違いない」


 毛利の言を聞き、慎治の背中には一瞬、電流のようなものが走った。

「…それが、モンゴル兵と大和家の接点…」


「その通りだ。

 そして、ここからは大胆な推論になるけど…大和四郎左衛門は、幕府や主君である宗像氏の意向に反し、敗残兵を匿ったのではないか、ということだ。

 奇想天外に聞こえるかもしれないけど…印章を隠したのはなぜか、と考えると、そんな結論にしかたどり着かないんだよ。

 それを裏付けるかのように、四郎左衛門は、第二回の蒙古襲来である弘安の役の数年後に、なぜか謹慎処分を受け、その後、宗像家の家臣団からその名が忽然として消えている」


 とうてい信じがたい説だった。

 が、慎治は、直感的に何故か深くそれに同意する自分がいた。

 毛利の解説を聞いていくうちに、胸に熱いものが迫るのを彼は禁じ得なかった。


 言いようのない感情が胸に迫る中、慎治はなんとか冷静にならねば、と言い聞かせながら、まだ胸に残る疑問を率直に尋ねた。


「だけど、毛利さんが推理した、貝原益軒と大和家の関係は…どうなんでしょう?」

  慎治の言を聞き、毛利は眉間にわずかに皺を寄せながら正面を見据え、深く頷いた。

「そう。そちらの謎についても、あらかたの見解を、僕は持っている。たとえば、だ。

 まず、益軒は、十九歳のときに早くも福岡藩主の黒田忠之公の近侍となり、理由は分からないけれども、謹慎や謁見不許可、ついには二十一歳のときにお役御免で失職している。そして、この前後三年間が四郎左衛門の名を受け継いだ君の先祖が象瀬に隠した日記の時期と符号する、ということは過去にも語った通りだ

 そこで思い出すのが、抜き取られた三年分の日記の直前の日付けに書かれていた、蔵の中で見つけたあの一文だ。覚えてるかい?」

 慎治は、はっと閃いた。

「分かります! 能古島で人別帖に記載されていない海女を生業とする家族が見つかった。そもそも、能古島に我々が足を向けるきっかけとなった最大の要因がそこだったですよね?!」

「そう。そこに僕はこの三年分の日記を隠さねばならなかった最大の原因があったんだと思う。つまり…」

「敗残兵の子孫が生き残っていた、という…」


 毛利は合いの手を打った。

「そうなんだ。

 これも僕の妄想に過ぎないかもしれないが、四郎左衛門の先祖が何らかの形でモンゴル兵を過去見過ごしたのではないかという嫌疑をかけられ、それを幼き時から交流のあった益軒が藩主に直訴して取りなそうとしたのかもしれない。

 どうだい、これで点と点が繋がらないかい?」

「うん、違和感はない、です。全く感じない…」

「だろ? 僕も全く違うところを掘り下げているわけじゃないと思ってる」


 次々と披露される仮説に圧倒されながら、慎治は最後の疑問を、もう腹いっぱいとも思いつつ、恐る恐る毛利に尋ねた。

「じゃあ、もともと僕らが調査をする一番の動機となった、千利休との関わりは、…いったい?」


 毛利はにやりと口元を緩めた。

「ああ。そもそも君のお父さんもその秘密を明かしたくて着手した歴史調査だったよね。

 それについては…

 僕が考えるに、千利休が君らの家の庭を作庭した第一の理由は、豊臣秀吉の九州平定の際の兵站や兵士の宿泊先の確保などに直接の便宜を図ったことへのお礼だと思うけど、どうも、それだけじゃなかったようにも感じてる。それを解く鍵は、やはり以前も語ったように九州王朝の存在だと思う」


 毛利は若干乱れた病衣の襟を整えつつ、こほん、と学者然として咳払いをした。

「この国の源流は、大和朝廷が成立する前から存在した九州王朝にあった。これは固く僕が信じていることだ。

 僕は、大和家のご先祖もそれを何らかの経緯で知っていて、代々秘事としてそれを受け継いできたのでは、と踏んでいる。

 しかしね、国をまとめようとする権力者にとっては、そんな説は邪魔でしかない。国の始まりは大和朝廷でなければいけないんだ。

 挙国一致で戦わねばならなかった鎌倉幕府の時代にしても、九州を兵站基地として朝鮮出兵を目指した豊臣秀吉政権にしても、江戸幕府に忖度しなければいけない立場にあった福岡藩にとっても、だ。

 しかし、その時代時代に、大和家が一子相伝として受け継いできた九州王朝の実在説に、ある者は深く同意して大和家を支援し、ある者はタブーとして排斥し、その説を亡きものにしようとしてきた。

 その歴史そのものがこれまでの出来事の背景に大きく関与している。そう思えてならないんだよ…

 確かに言うまでもなく、益軒と利休との関係は大事だ。

 しかし、この二人をきっかけにして、我々はさらにはるか古代のとんでもない大和家の秘密にたどり着いた。そんな気がしてるんだ」


 遠くを見る目で前を向いた毛利から慎治は一度視線を外すと、見上げる厚いうろこ雲から差し込む数本の薄明光線をしばらく凝視したまま自らの混乱した頭をどうにか整理しようとした。


 毛利の言はいちいち納得できる。しかも心を震わすほどに。

 しかし、結局、それは事実ではなく、あくまで推論に過ぎない。

 これまでの疑念が浄化されていくような心地よさを感じながらも、どこか一方で、割り切れない、小骨が喉に刺さったような気持ち悪さが残ってしまうのだ。

 毛利は慎治の思いを見透かしたように、慈愛に満ちた目で語りかけた。


「君が何を考えてるのか、分かるよ。確かに、歴史調査の収穫として謎の裏付けが出来れば良いんだが、考えてみれば、歴史上誰でも知ってるような人物でさえ分からないことの方が多い。僕も全力でこの件に取り組んできたが、現状で出来ることは、ここまでだ」

 病衣の袖から左手をゆっくりと伸ばして、毛利は慎治の肩に手をおいた。

「ただし、収穫はあった。大和家の人々は、代々、虐げられた人々を助け、歪曲された真実に立ち向かい、それらを黙って見過ごすことは決してなかった。

 その受け継いだ一族の血があるからこそ、花瀬という地で、民から一心に信望を集め、のちに大庄屋まで上り詰めたのだ。

 それが伺えただけでも残された君らにとってはかけがえのない財産になるのではないかい? 君も間違いなくその血を受け継いでいるのだ」


 慎治はいつの間にか、期せずして自らの頬につうっと一筋の涙が伝っていたのに気付いた。


「さあ、謎解きは終わった。今度は君が生きる番だ」

 毛利は慎治を励ますように呼びかけた。


 だが、慎治は毛利の言葉には正面から答えずにシャツの袖で涙を拭うと、ぶっきら棒に言い放った。

「いえ、まだ終わっていません」

 毛利は予想外の慎治の反応に目を丸くした。


「象瀬で毛利さんが倒れる前に叫んだ言葉、覚えておられますか?」

 慎治は、さも追求するような口ぶりで毛利に問いただした。

 はたと気づいて、毛利はああ、そこか、と思わずバツが悪そうな表情を見せた。


「おのごろ、かい?」

「そうです。なぜあの時、毛利さんはそれに驚愕して倒れたのか、それをまだ僕は知らされてません」


 今まで飄々として語っていた毛利の顔が途端に曇った。

「そうか、いつか落ち着いた時に、君に明かすつもりだったが…今回、そこまでも君に語らねばいけないかねぇ」 

 ぼさぼさの銀髪を手ぐしで掻き上げながら毛利はぼやいた。

「確かに、重要な秘密が一つだけ残ってる。分かってはいたのだが…正直、それに取り組む気力が最早、僕には残されていなかった。君ら子孫が長い時間かけてこれから明らかにすべきことかな、とも感じていたので、ね」


 毛利は慎治を試すかのようにその目を覗き込んだ。

「このまま寝かせずに、すぐ取り組むつもりなのかい?」

慎治は断固とした様子で頷いた。


 仕方がない、と毛利は脱力したその身をベンチに預けた。

「分かった。とにかく、崩し字を解読したものを今日の夜にでも君にメールで送っておくよ。ただし、決して無理はしないでくれ。短期間に解けるような謎じゃない、と僕もみてるんでね」


 慎治が怖いほどの決意を秘めた目で毛利を見返した時、庭園の遠くから呼ばわる声が聞こえてきた。


 毛利と慎治がほぼ同時に振り向くと、そこには、遊歩道の向こうからこちらに手を振る、一組のスクラブシャツを着た男女がいた。


「飯田先生と織田看護師?!」

 驚いて慎治が立ち上がった。

「よう、プロフェッサー! また慎治君を巻き込んで、世紀の大発見の話しでもしてるんじゃないの? 生きがいもいいけど、命あってのものだぜ?」

 飯田は満面の笑みで毛利に近づくと、その肩をポンポン、と軽く労るように叩いた。

 突然の飯田の登場に毛利は当初しどろもどろだった。

「…いゃあ、先生には叶いませんなぁ…でも、これは下手したら、我が国の歴史に関わるような大発見でして…」

 看護師の織田は眉をしかめて脅した。

「あらぁ、毛利さん、聞いてるわよ~。看護師さんの目を盗んで好き放題やってるんですって? たまには言う事聞かないと、病状が悪化するかもよ?」

 頬をぽっ、と赤らめた毛利は、恐縮しきり、といった体である。

「今回ばかりは我ながら駄目かと思いましたからね。僕は運が良かった。先生や織田さんがいてくれて。ただね…自分の命にかけても、って思えるほどの仕事には、この歳でそうそう出会えませんよ」

 飯田は笑った。

「まあ、気持ちは分かるよ。羨ましいなぁ。生き甲斐あっての人生だから」

 織田は頬を膨らませた。

「まあ、飯田先生! 注意すべきところをフォローするなんて。いくつになっても男ってのは変わらないんだから」

 呆れた織田を見て、飯田は笑って毛利の肩を抱き寄せた。

「確かに。まぁ、俺は応援してるよ。それに、万一、万一病気が再発でもしたら」

「したら?」

 毛利がオウム返しした。

 飯田はにやりと笑って半袖から覗く力こぶを片手でぽんっと叩いた。


「俺が何度でも救ってやるよ!」

 毛利は首に手をやりながら一本取られた、とでも言いたげだった。


 救命救急の場を共有したスタッフと患者との関係とは不思議なものだ。

 まるで戦友とでも再会したような雰囲気の中、わずかな時間であったが、慎治は自らの重荷を降ろして久しぶりに素のままの自分でいられる気がした。






 九月の末ともなると、まだ夏の名残りがあるとは言え、天も高く、能古島の波止場に繋留された海上タクシーの甲板には心地よい風が吹き渡っていた。

 浮桟橋に接岸されたレジャーボートはわずかに揺れて漂い、いくつかの船の上では半裸の男たちがデッキチェアに身を任せ、思い思いに日光浴を楽しんでいる。

 のどかな午後の白い陽光の下、自然公園行きのバスの停留所からは家族連れの子供たちのはしゃぎ声が時おり聞こえてくる。


 操舵室で予約状況表とにらめっこしていた海上タクシーの船長は、能古島の渡船場から港に向かって歩いてくるネルグイの姿に気づくと、風防ガラスから半身を出して大きく手を振った。

 Tシャツに洗いざらしの麻の長袖シャツを羽織ったバミューダー姿のネルグイは、日に焼けた顔から真っ白な歯を覗かせ、手を振り返した。


「よぉう、どうしたの?」

 近づいてくるネルグイに船長は不思議そうに声をかけた。

 もう一度愛想よく手を挙げるとネルグイは眩しげに目を細めて答えた。

「コリンさんを探しててね。ここに来たらいるだろうと思ったんだ」

 あぁ、なるほど、と船長は首肯いた。

「…コリンさんはねぇ、この船じゃちょっと小さい、ってことで、姪浜のヨットハーバーからもう少し大きめのプレジャーボートをチャーターして、今、象瀬にいるよ」

「そうですか。今回、二回目の調査ってことになりますね」

「うん。前回はさぁ、なんか、学生さん引き連れて来てたじゃない。潜水して突き棒で泥を突き刺して遺跡があるかどうか確かめたらしいんだけど、何も出て来なかったらしいな。まぁ、俺から言わせれば、毎日この海域を行き来している漁協の人間さえ遺跡なんて何も見たことないんだから、出るわけないって」


 船長はまるで無駄骨だ、と言わんばかりだった。

「けど、本格的に二回目を行うってことは何かコリンさんに引っかかるものがあるんでしょうね?」

「分からんねぇ。ただ、今回は機械がすごいらしいぜ。マルチビームソナーとか、GPSなんたらとか、詳しくは覚えてないけど、かなり高精度で水中の地形が把握できるんだってさ。コリンさん、自慢げだったし」

「ふぅん。見たくなってきたな」

 興味あり気なネルグイの顔を見て船長が言った。

「行きたいかい?」

「は、はぁ…」

「連れてってあげようか」

「いゃあ、僕、お金ないですよ」

 船長はかぶりをふって笑った。

「あんたからお金もらおうなんて思ってないよ。ちょうど今、予約入ってないからさ」

「ほんとに? いいんですか?」


 それには答えずに船長はネルグイに乗船するように手まねきした。


 軽やかなエンジン音をたてながら船が白い水しぶきをあげて動き、加速すると、ネルグイの髪はすぐに風を目一杯受けて後ろになびき始め、微風で麻のシャツの懐がはためき出した。

 澄み切った大気の中、今日の波静かな今津湾の先には玄界島や志賀島の輪郭がまるで細い絵筆で描いたようにくっきりと空に浮かび上がっている。

 やがて象瀬の小さな姿がみえると、その左側には船長の指摘通り、海上タクシーの一・五倍ほどのボートが浮かんでおり、デッキではダイビングスーツにボンベを背負い、水中メガネにレギュレーターを咥えた二人の男性に指示をしているらしき男が見えた。


 コリンだ。

 ウエットスーツにその筋肉質で頑丈な身をすでに包んでいるものの、コリンの潜水の順番は後らしく、海図を指差しながらそれぞれの作業範囲を確定しているようだった。

 

 ものの二百メーターくらいの距離に近づいたところで、ネルグイは大声を挙げた。

「コリンさぁん!」

 気付いたコリンは親指を立ててにんまりと笑った。


 船長は一気に船を減速させると、大型ボートの舷側にゆっくりと近づき、ゴム製のバンパーで衝撃を吸収し、じんわりと船を並ばせ、優しく停止させた。

 海上タクシーからプレジャーボートにネルグイが軽々と乗り移ると、コリンはウエットスーツを着込んだ大柄で痩せた男二人に目配せし、高々と宣言した。

「語学の天才、ご来船!」

 コリンの突然の声に意表を付かれた二人だったが、やがて代わる代わるネルグイに手を差し出して握手を求めた。

「はじめまして。ネルグイと言います」


 隣でにこやかに見つめていたコリンが補足した。

「この二人は前回の学生さんと違って、本格的な研究者でね。大学の講師を勤めてる。俺がそれとなく能古島の元寇遺跡調査の話しをしたところ、興味を示してくれて急遽参加してくれることになったんだ。今日は始めてのサンプル潜水さ」


「今回は三人だけなんですか?」

 コリンは首を振った。

「いや、あと五人いる。なにしろ世界各地からプロジェクト掛け持ちで来てるんでね。明日には勢ぞろいする予定さ」


 コリンは今回の調査には相当の自信があるらしく、誇らしげにスタッフの経歴や使用する機材についての解説を滔滔と始めた。


 いつものことだが、やけに力が入っているな。


 ネルグイはそう思いながら、コリンを遮ることもなく、微笑してその蘊蓄に静かに耳を傾けた。

 コリンはコリンで普段なら数十分も切れ目もなく語り続けるところだったが、ふと待てよ、という怪訝そうな顔をしてネルグイの目を覗き込んだ。


「ん? 何か先に話したいことでもあったんじゃないのか?」

 悪戯っぽくネルグイが答えた。

「分かります?」

 コリンは当たり前だろ、と言わんばかりだった。

「分かるさ。何ヶ月一緒にいると思ってんだ。話しにくいことなのか?」

 ネルグイが首肯くとコリンは顎をシャクった。

「キャビンで話そう」


 二人がキャビンの中に入ると、室内はベージュ色で統一され、とても船の中とは思えないようなサロンソファーが配され、その前のカウンターテーブルには軽いオードブルが、そして中央にはでん、とシャンパンクーラーが鎮座していた。潜水後の打ち上げ用だ、とバツが悪そうにコリンは片目をつぶった。

「今日は、ま、本格的な調査の前祝いのようなもんでね。まあ、座れよ」

 ネルグイにシートを勧めると、ソファーの縁に両手を巡らせてコリンは深々と身を沈めた。


「で、どうしたんだ」

 左の眉を上げてコリンは次の言葉を促した。

 その言を受けて、ネルグイはためらいもなく、吹っ切れたようなさばざばとした表情で口を開いた。


「このプロジェクトから抜けさせてほしいんです」

 ぎろりとコリンが目を光らせると、挑発するかのようにネルグイを見据えた。数秒コリンはネルグイを凝視していたが、やがて破顔して声をたてて笑い出した。


「どうせそんなこったろうと思った。お前のことだから、どうせ引き留めても無駄なんだろ?」

 それには正面から答えずに、ネルグイはただにんまりとコリンの顔を見つめた。


「そうかぁ」

 脱力してコリンはシートに背中を押し当てて伸びをした。

「このプロジェクトにとっては痛手だな」

 とぼけてネルグイが尋ねた。

「そうですか? 僕の穴ごとき、すぐに見つかるでしょ」

 コリンがたしなめるように舌打ちした。

「お前が言うことじゃないだろ」


 如何にもだるそうに組んだ両手を頭の上に載せていたコリンだったが、しばらくすると薄目でネルグイを見据えた。

「一応、理由を聞こう」

 コリンの質問に一瞬、ネルグイは驚いたようだったが、すぐに迷うことなく、断固とした調子で答えた。

「すべてに優先して守らねばならないことが出来たんです」

 ネルグイの言を聞いたコリンは、はは~ん、と思い当たったように一人何度も首肯いた。


「女だな」

 ネルグイは答えなかった。

「真矢か?」

 またもやネルグイは答えなかった。

 ふぅん、と一人納得したコリンは続けた。

「こう見えてもな。俺は直感が鋭いんだ。お前、いい趣味してるよ。俺が独身だったら…間違いなく、行ってる」


 図星だったのがよっぽど嬉しかったのか、はたまた、ネルグイが自らもお気に入りの女性を射止めようとしているのが嬉しかったのか、しばらくコリンは悦に入った様子だったが、やがて思い出したように心配げに問いかけた。

「で、これからどうするつもりだ? お金は?」

 ネルグイはその強い意思を見せつけるかのように一度口角をぐっと引き挙げたが、すぐに顔をほころばせた。

「あの娘のために生きてみたいんです。特に蓄えがあるわけじゃないですが…他には、何もいりません」


 やっちゃったなぁとでも言いたげにコリンは苦笑した。

「そんな時、あったよ。俺もそうだった。まぁ、若いってのはいいもんだ」

 しばらく沈黙がその場を支配した。


「ただ」

 静寂を打ち消してネルグイが再び語り始めた。


「ただ、心残りなのは、あなたのプロジェクトにまだしかるべき成果も出てないときに私の身勝手で去ってしまうところです。その点は…あなたにお詫びをしなければいけない」


 肩をすくめたコリンは、で、俺にどうしろと?とでも言うように目をくるくると回した。


「お詫びなんて必要ないな。俺は君の手助けがあって今の位置に到達した。これからは別の方策を探していく。それだけさ」


 再び余韻に浸るがごとき沈黙が続いた。が、やがて心地よい追憶から逃れるかのようにコリンがビジネスライクに切り出した。


「話しはそれだけか?」

 ネルグイは名残惜しそうに目の縁を白く輝かせて頷いた。 


 立ち上がったコリンは、ウエットスーツの小物を入れるサイドポケットに手を差し込み、眉間にシワを寄せてゴソゴソと漁っていたが、目当ての物が見つかったのか、何かを取り出してネルグイの頭上に向けそれをぽぉんと器用に放り投げた。

 丸く小さな物体はくるくると空中を回転し、弧を描きながら、驚いたネルグイが広げた両手のひらにタイミングよく収まった。

 掌に載った物体を覗いたネルグイは目を見張った。


「これは!」


 ネルグイの唇はわなわなと震え、その目元の縁にはみるみるうちに涙が溜まっていった。

「あった! あったんですね! 見つかっていたんですね!」


 満足気にニヤニヤとコリンは頷いた。

「餞別だ。持っていけ」


 ネルグイの手には、中央に四角い穴が開いた鈍い光を放つ古銭が置かれていた。

「厭勝銭といってな。君らの先祖が縁起物や護符として身につけていたものだ。福禄壽昌と刻まれてる」


 磨かれた銅銭の文字の一部は未だ石灰で覆われ、判然としない。

 それは数百年の間、海底で誰からも知られずにこのお守りが主の手を離れ、水中深く埋もれていたことを示していた。


 ネルグイの頬にはいつの間にか熱い涙が頬を伝い、手のひらの銅銭の上をはらはらと湿らせていった。


「あったんだ! ほんとうにあったんだ!」

 感極まって銅銭を握りしめ、立ち尽くすネルグイを見て、コリンはこれ以上満ち足りた顔はないだろうと思えるほどに静かな微笑みを湛えた。


「お~い、ネルグイさぁん。そろそろ、次の予定が入っているからぁ、戻ってきてぇ」


 突然、キャビンの外からはネルグイを呼ばわる海上タクシーの船長の声が響いた。


 二つの船の上には、彼の声に驚いたウミネコの群れが数十羽、ミャアミャアと鳴きながら上空を高く行き過ぎていく。


 待ちくたびれたのか、一度水中ボンベを置いて座り込んだ二人のダイビングスーツ姿の男たちは、ただぼうっと鏡のように静かな今津湾の海面をのんびりと見つめていた。




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