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残の海人(のこのかいじん)6章

決行の夜

 大和家の蔵であの九枚の染付小皿が見つかってからというもの、毛利は何か閃くたびに、ひっきりなしに慎治に電話をかけてくるようになった。

 早く会って今後の作戦会議をしたい、と毛利から申し出があったが、途中、例の親の顔合わせ的な宴会が入ったことなどにより延び延びとなり、ようやく七月の初旬に與座家の客間を借り、その場で打ち合わせをすることが決定した。

 今回の調査は二人では到底無理と毛利は判断しているらしく、時を同じくして元寇船の調査を続けているネルグイにも協力を仰ぐことになった。


 土曜日の午後に與座家を訪ねると、與座氏や大貴は出払っており、真矢も、少し距離を置きたい、とその日は不在で、礼子だけが三人を出迎えた。


「来るまで汗ばむくらい暑かったでしょう? 今日は一日こんな感じなんでしょうかね?」

  礼子は座卓に麦茶が注がれたグラスを置きながら皆をねぎらった。

「いゃあ、いつもすみません。片付けなどは我々でやりますので、どうか、お構いなく」

 毛利が愛想よく答えると、礼子も調査の邪魔をしては、と、世間話しもそこそこに笑顔で部屋を退出した。


 昼下がりの夏の陽光が障子越しに柔らかな光を室内に落とし、油蝉の鳴く声が盛大に庭先から響いてくる。

 毛利はクーラーの風を天国だ、と愉悦しながらネクタイを緩め、これまでの経緯をネルグイに説明し終えると、グラスに入った麦茶をさも美味しそうに飲み干した。


「なるほど。では、十枚組の小皿のうち、一枚が象瀬に隠されているのではないか、と毛利さんは踏んでいるのですね」

 毛利はネルグイの言を聞き、にやりと笑った。

「はい。そのとおりです」

 

 大和家の謎解きがいよいよ最終局面にあるのだな。

 傍目から見て、ネルグイもそう直感した。


 自らの調査はまだ道半ばというのに、慎治たちは独力で道を切り開いている。

 ネルグイは、ある種、羨望の目で見ていた。

 しかし、一方で、期せずして同時期に調査を開始した友人として、彼らの成功が嬉しくもあった。


「実は、私もこの前、象瀬に渡ってみたんですよ。玄武岩と花崗岩で組成された珍しい小島でしてね…亡くなられたお小夜さんを弔うための観音菩薩も祀られていました」

 ネルグイの言を聞き一瞬驚いた毛利だったが、その目は途端に輝いた。

「ほほう。それは話しが早い。さよ島にすでに渡られたんですね」

「はい。しかし、島といっても何かを埋められるようなやわな岩盤ではないですし、露出している平らな地面も満潮時にはあらかた水没してしまいますんで。どこにもそのような余地はないように思いますが。…まさか」

「まさか?」

 毛利は意味有りげに笑いながらネルグイの言葉をオウム返しした。


 ネルグイは直感が当たった、とばかりに目を見開き、首を二度ほど強く振った。

「毛利さん! それは無理ですよ! だって、あの島は小さいとはいえ、高さが十八米もあるんです。それに、硬い岩盤で覆われ、もちろん足場なんてない! どうするおつもりですか?」

 呆れたようにネルグイは毛利の眼を見た。


 毛利はネルグイの質問には正面から答えずに、能古島全図を取り出すと、まるでどこ吹く風といった調子で語り始めた。


「この小島は海岸から約二百米。ここまでは小型ボートを借りて渡る。慎治君はボート、漕げるかい?」

 唐突な質問に慎治は慌てた。

「い、いゃあ、僕は大濠公園の白鳥ボートくらいです」

「そうか。では、ネルグイさんは如何ですか?」

「…はぁ。こんな質問をこの日本でされるとは思いませんでしたが…実は、親戚がモンゴルで観光川下りをしてましてね。夏季の繁忙期に人手が足りないから、とアルバイトした経験はあります。出来なくは、ありませんが」

「よし! 十分です」


 声を上ずらせてネルグイは反ばくした。

「毛利さん、船が準備出来たって、岩山には誰が登るんですか? 僕はそんなロッククライミングのような芸当は出来ませんよ。慎治さんは? 経験ない? じゃあいったいどうやって?」

 毛利は困ったように眉根を寄せて腕を組み替えた。


「そう。それが問題、なのだが」


 毛利の言にため息をつき天を見上げたネルグイを見て、慎治は先程から考えを巡らせていた。

 しばらく座を沈黙が支配する中、口をつぐんでいた慎治は、やがてためらいながらも唇をゆっくりと開いた。

「あてが、ないこともありません」


 毛利とネルグイはほぼ同時に慎治の顔を見た。


「いったい、誰が?」

 二人は声をそろえた。

 いよいよ自信なさげな表情で、慎治は、おずおずと答えた。

「とにかく、一か八かで電話してみますか?」


 慎治はそそくさと自らのリュックのボケットから携帯電話を取り出すと、電話帳をロールし、番号を探した。

「ええっと、あった! …瀬古逸太。高校時代からの友人で、同じ大学なんです。ちょっと、かけてみますね」


 毛利とネルグイを交互に見やると、慎治は皆とは逆の方向を向きながら耳に携帯を当てた。

 数回コールすると、携帯のスピーカーから、何だ、と答える落ち着いた声が毛利やネルグイにも漏れ聞こえた。

 瀬古の出方を伺うように、慎治は、慎重に話し始めた。

「…あのさぁ、ちょっと前に、何か困ったことがあったら力になるから、って言ってくれてたよね? その何かが、今、来ちゃったみたいなんだけど…」

 スマホを手に、慎治がさり気なく毛利の顔を見ると、毛利は固唾をのんでこちらを見守っている。

「瀬古って、確か大学でワンダーフォーゲル部入ってただろ? 実は、折り入って頼みたいことがあって」

 大まかな趣旨を説明すると、何考えてるんだお前? と呆れた瀬古の大きな声がスピーカーを通じて客間に響いた。

「冗談じゃなく、こっちは至って本気なんだよ。居酒屋三食分。な? 頼むっ」

 慎治は、しばらく黙って瀬古の非難の声を受け留めていたが、やがて、瀬古が折れたのか、慎治は晴れやかな顔をして携帯を切り、二人に向き直った。


「やってくれそうです!」

 毛利はとたんに相好を崩した。

「そうか! 土台無理な相談だと思っていたけど、電話一本で受けてくれるとはなぁ…持つべきものは友だ!」


 調査の前途が開けたことに、三人は、しばらく感激しきりであったが、ネルグイはすぐに真顔に戻った。

「しかし…あの島に勝手に上陸し、そのてっぺんに登ろうとするなんて…どう考えたって目立ちすぎやしませんか? 途中で漁協や地元の人に止められると、元も子もなくなりますよ」


 毛利はよく気づいた、とばかりに強く頷いた。

「そのとおり! それは僕も気になってました。今津湾は博多湾と違って、大型の客船や貨物船は通らない。しかし、確かに昼だと漁船の往来はあるし、場合によってはヨットでセーリングを楽しんでいる人たちだっている。

 だから、考えられるのは…やはり日没前の一時間くらい…午後五時くらいに決行、といったところでしょうか?」


 ネルグイは毛利の言を聞き、ようやく納得した。

 慎治は俄然やる気を見せ、今後の段取りについて矢継ぎ早に語った。

「七月中にやるならば、月間天気予報で晴れの日を調べなきゃ…。あと、当然、波も静かじゃなきゃいけませんよね? とにかく、友人の瀬古の都合も聞いたうえで二、三日、候補日を挙げてみます」


 妙な連帯感とでも言うのだろうか。

 彼らは、何か若い学生たちが前人未踏の冬山登山に挑戦するかのような、そんなスリルを味わっているかのようだった。

 與座家の客間からは、しばらく彼らの弾む声が、障子を隔てた黒光りする廊下まで響き渡った。






 あの食事会の後、しばらくぎくしゃくした関係が続いていた慎治と真矢だったが、真矢から突然、ゆっくり話せる? とLINEで慎治の携帯にメッセージが届いたのは、與座家の客間での打ち合わせが終わって一週間ほどたってからだった。

 親の顔合わせの場を早い段階に設けてしまったことを後悔していた慎治は、関係修復の兆しか、と胸が踊ったが、電話から聞こえてきたのは、意外にも真矢の明らかに落ち込んだ声だった。


「どうしたの? なんだか、いつもと声が違うみたいだけど?」

 驚いた慎治は真矢に尋ねた。

「…分かる?」

「そりゃあ、分かるよ。何かあったの?」

「うぅん…自分でもどうしたらいいの?っていう感じなんだけど…」

「言ってみてよ、遠慮しないで。人に話して気持ちが楽になることだってあるからさ」


 慎治に促された真矢はぽつりぽつりと語り始めた。

「実はね…この前、会社の定期検診でマンモグラフィーを受けたんだけど、ひっかかっちゃって…」

「ああ、マンモグラフィーって、女性が受ける、あれだよね。で? なんて言われたの?」

「文書が送られてきたんだけど、要精密検査って書いてある…。最寄りの医療機関を受診して下さいって」


 事の重大さを理解した慎治は、一瞬どのように返答して良いのか迷った。軽はずみに励ますわけにもいかず、解決策が提示できるわけでもない。ここは真矢の気持ちをまず受け止めねば、と用心して言い回しを考えた。

「…そうだったの…でも、要精密検査ってよくあることじゃない? 最近、検査する機械の精度も上がってきてて、普通は問題のない人でもひっかかることが良くある、って聞くよ? 真矢ちゃんも、その一つじゃないかな?」

「そうねぇ。そうであればいいんだけど…なんだか、急にど~ん、って気が重くなっちゃって…」


 真矢は明るく装ってはいたが、不安なのか、検査の話しが終わったかと思うと、しばらくするとまた同じ話題に戻る、という繰り返しだった。

 ループし続ける真矢の話しを、慎治は、しばらくの間ただ我慢強く聞いていた。が、彼女から専門機関ってどこに行ったらいいのだろう?と改めて問われると、会話しながら頭の中で過去の人脈を総ざらいし、存外、身近に格好の友人がいることに気づいた。

「いたいた! そう言えば、頼りになる友達がいたよ!」


「…どんな人?」

 怪訝な声で真矢は尋ねた。

「僕、小学校は私立のカトリック系だったんだけど、同級生のお父さんが大きな病院の理事長でね。乳腺外来も最近始めた、ってこの前、同窓会で近況報告してた。…真矢ちゃんさえよかったら、僕から彼に連絡してみてもいいけど?」

「本当?」

 電話の向こうから、真矢の弾む声が聞こえた。


「日程さえ言ってくれれば僕が電話してみるよ。一緒に付き添ってもいいし」

「そう? 助かる~! …なんだか行く先が決まっただけでも少し楽になった気がする…ありがとう!」


 象瀬の件といい、この病院の件といい、自分の顔が思わぬところで役にたったことで慎治は一人悦に入った。

 そして、この出来事が二人の仲をきっと修復してくれるに違いない、と確信し、彼は真矢からの電話を切った。




「お前なぁ…」

 能古島の渡船乗り場ターミナルの入り口で瀬古が慎治を見つけた途端、開口一番、顔をしかめてこう言い放った。


 瀬古は、今回のためにバックパックを背負い、衣服こそ長袖シャツにトレッキングパンツを履いた軽装であるものの、本格的な登山靴を履き、準備は万端といった体である。どこから見ても夏山の登山者、といった風采で、とても離島にやってくる服装ではない。


「ごめんごめん、無理言って済まないね」

 慎治は顔の前で手を合わせた。

「居酒屋三軒ではすまんぞ」

 慎治の前を通り過ぎながら横目でぎろりと睨みつけた瀬古だったが、次の瞬間にはけろりとして、で、どうするつもりだ、と、早々に問いただした。

「今、二時だけど、三時になったら、協力者の與座大貴さんという方に車で島の山頂に近い場所まで送ってくれることになってる。

 そこからは島の西側の斜面を徒歩で下って邯鄲という海岸まで出るんだけど、そこでゴムボートに空気を入れて膨らませ、二百米ほど人力で漕いで象瀬という小島に渡る。そこからが瀬古の出番だよ」

「ゴムボート? おいおい、大丈夫かよ? 本当に…」

 瀬古は顔をしかめた。

「木製のボートを借りようとも思ったんだけど、港から象瀬まで手漕ぎっていうのは距離的に無理だもんね。ゴムボートって馬鹿にするけど、今は釣り人用でなかなかいいのがあるんだよ」


 渋々といった様子だったが、瀬古は最後に頷いた。

「まぁ…いろいろ心配しててもしゃーないな。でも、こんなこと、一生に何度もあるわけじゃなし。こう言っては何だが、なぜか、な…燃えるものがなくは、ないぜ」

 與座家に着くと、すでに毛利とネルグイは到着していた。互いに簡単な挨拶を済ませると、改めて毛利から、これまでの大和家の歴史調査の進展と今回の調査の趣旨が瀬古に詳しく伝えられた。


「なるほど…では、この象瀬という小島のてっぺんに何かが隠されているはず、というのが毛利さんの見立てなんですね。しかし、登るのは出来るにしても、そのあと、何があるのかを一人で掘り当てるのは… なにしろこれだけの広さです。難しいのでは? やはり、最低もうひとりは登攀して手伝ってもらわなきゃあ無理だと思いますよ。それに、経験がないと岩場なんて登れっこない。ましてや、頂上からロープを垂らしてそれを伝って登れたとしても、滑落防止のためにもうひとり、下で安全確保してくれないと、とてもじゃないが危なっかしい」


 毛利は瀬古の言を聞き、しばらく腕組みをしていたが、何かの解を見つけたのか、すぐに自信ありげに語り出した。


「私が思うに、ですね。誰も登ったことがないわけではなく、必ず足場と取っ手は何らかの形で残されているのでは、と踏んでいます。ガイドがあればひょっとしたら素人でも登れるかもしれない。

 何かある。必ず、何か出てくるはずです。

 それに、不肖、遠い過去ですが、私も学生時代に登山経験がないわけではない。体力的に今は登るのは無理にしても、崖下で見守りくらいは出来る」

 毛利は自ら頷き、断言した。


「毛利さんがそこまで言われるんだったら、仕方ない…やるだけやってみましょうか」

 瀬古は、先程まで毛利の真意を問うかのようにその目を凝視していたが、ふいに視線を外すと、間を置かずに低い声でぼそりと答えた。

 その言葉に、毛利も頬を紅潮させて、こくりと頭を下げた。


 ほどなくして客間に大貴が顔を出し、そろそろ行きましょうか、と声をかけると、彼らは車に同乗してまず能古島の東岸から山道を登り、島の北端の大泊にある自然公園へと向かった。

 夏のこの時期は行楽客で賑わうシーズンだが、四時を過ぎると小さな子供連れの家族は早々と帰路に着く時間帯でもある。

 車から降りた一行は、正門で大勢の客が、がやがやとバスに乗車していくのを横目で見ながら、公園を通り過ぎ、島の西岸へとつながる小道へと急いだ。


「くれぐれも気をつけて下さいね。終わったら迎えに来ますから、電話下さい」

 足早に去っていく皆の後ろ姿に向けて大貴が声をかけると、ゴムボート入りの大きなショルダーを肩にした慎治が振り向き、大丈夫、とでも言いたげに笑って手を振った。


 砂利道を通り過ぎ、急勾配の崖の道を木々や竹に掴まりながら皆がしばらく下山すると、突然視界が開けた。

 彼らの目には、黄昏前の黄色い陽光を浴びた、一面金色に煌めく今津湾が拡がっていた。その先には、糸島半島のなだらかに続く群青色の山々が遠く霞んで見える。

 象瀬は、一枚の絵画のようなこの景色の中で、今日も背中を丸め、一匹だけ取り残された子象のように浮かんでいた。


 邯鄲の磯浜に降り立つと、慎治は荷を降ろし、腕時計ですぐさま時間を確認した。

「日没前に目処をつけないと暗闇の中での作業になっちゃうからね。幸いなことに、五時ごろが干潮のピークだから、足場は心配ないと思うけど」

 電動空気入れで慎治がボートを一気にパンパンにふくらませると、ネルグイは結構大きいのですね、と感心した。


「あまり残された時間はなさそうです。ご苦労だけど、ひとつ、漕ぎ手役、お願いします」

 毛利は手をかざして眩しそうに象瀬の方向に顔を向けながらネルグイに声をかけた。

「象瀬まで二百米? 楽勝ですよ。こう見えても体は鍛えてますんで」

 四人全員がボートに乗り込むと、ネルグイは力強く後ろ向きにオールを漕ぎ始めた。


 静かな鏡のような海を、櫂で波を切る音だけが皆の耳に繰り返し聞こえる。

 ときおり漕ぎ手のネルグイの力む声が響く以外は、誰一人として語ろうとせず、押し黙ったままだ。

 オールを波に差し込んで腕づくで押し出しながら、ネルグイは、「自分は日本くんだりまで来て何をやってるんだろう」とふと可笑しくなった。


 象瀬は、遠くから見れば頼りないほどに小さく見えたものの、近づくに連れ、その岩肌の荒々しさから、寄る者を拒むような威厳を感じさせた。


 横から見ると人が叫ぶ顔に見えるんだよ


 水上タクシーの船長の言葉をネルグイはふと思い出した。

 確かに逆光で黒々した岩礁は人が苦しんで喚いている横顔に見えなくもない。そう考えると余計に不気味さは増してくる。


 瀬古は、山のように迫る島を見上げ、厳しい表情を少し緩めた。

「う~ん…近くで見ると、かなり凸凹があるなぁ。滑るようなツルツルとした表面じゃない…思ったより足がかりもありそうだ」


 折からの引き潮で島の手前には平らな岩場が露出している。

 ネルグイは、ゴムボートの底を傷めないように浅瀬をゆっくりと進み、都合よくU字に侵食された岩場に着岸した。

 すると、のんびりと羽を休めていたウミネコが数羽、ミャアミャアと鳴きながら一斉に飛び立った。


 上陸するなり、皆は、示し合わせたかのようにまたもや無言となり、誰ともなく手分けして島の岩肌を確認し始めた。


 岩礁の足元には、赤茶けたフジツボが張り付き、帯になって島を取り巻いている。上に目を移すと、そこにはまるで象の皮を思わせる規則的な柱状の節理が表面を覆い、ところどころわずかに草が生い茂っている。見上げても岩がせり出しているばかりで、頂上は確認出来ない。


 毛利は、ごつごつとした岩壁を両手で慎重に触れながら、ずれ落ちる眼鏡を直しつつ、目を皿のようにして何かの痕跡を探した。


 しばらく皆は場所を変え、思い思いに岩壁を観察していたが、やがて慎治が皆に向き直り、不安げに問いかけた。

「どうです? 何かそれらしい跡は見つかりそうですか? 私がざっと見た感じでは見当たらないんですが…」

 毛利も瀬古もネルグイも、それには答えずに、ただ黙して首を振るだけだった。


 湾のはるか向こう岸に連なる山々の頭上には、陽光が雲間から幾筋もの天使の梯子を降ろし、ふり注ぐ光線が海面を金の鱗のように明滅させていた。

 象瀬の頭を覆う草の茂みは、朱に染まり、穏やかな海風によってさわさわと優しくざわめいている。


 刻々と時間が経つ中で、日没の時間が目の前に迫った。

 誰もが焦りを感じ始めていると、何の前触れもなく、瀬古があっ、と

 何かを見つけたように声を挙げた。


「どうしました?」

 その声に反応して毛利は振り返った。

「あった! やはり! 足場はあったよ! ここ、ここ見てくれ!」


 一同は駆け寄り、瀬古が手で指さしている岸壁を射るような目で見つめた。

 そこには、足がかりとなりそうな、苔むした無造作な穴が数センチほどの深さで硬い岩盤に穿たれ、それが互い違いに頂上へと繋がつているのがはっきりと見て取れた。


「おぉう。これは間違いない。これは明らかに侵食によって出来たものじゃなく、人が開けたものだ! どうだい、私が言った通りだったろう?」

 毛利は鼻高々である。


 瀬古は得意げな毛利をよそに、時計をちらりと見ると、ぶっきらぼうに言い放った。

「で、誰が一緒に登ってくれるんだい?」

 残されるのは毛利を除くと、慎治とネルグイしかいない。二人は思わず顔を見合わせた。


「慎治くん、君、経験はないんだったよね?」

 ネルグイは問い掛けた。

 慎治は生唾を飲み込むと、青ざめた顔で小さく頷いた。

 それを見たネルグイは、彼を傷つけないよう、慎重に言葉を選びながら尋ねた。

「僕はある程度腕力には自信があるけど、実際のところ、何の訓練も受けていない人にこれをやらせるのは非常に危険だと思う。もし任せてもらえるんだったら、僕なりに自信はあるけど…どうだい?」

 慎治は、ネルグイに甘えることに一瞬ためらったが、彼の提案を素直に受け入れ、頭を下げた。


「申し訳ないけど…ぜひ、お願いします」

「了解っ! まあ、見といてくれ」


 ネルグイはきっぱりとそう言い放つと、岸壁を下から見上げた。


 瀬古が取り出したヘルメットとヘッドランプ、腰にハーネスを装着すると、その顔にはみるみるうちに緊張感が漂った。

 彼は、ネルグイや下で命綱を持つ毛利の腰にもハーネスを巻きつけると、一通りの使い方と簡単な注意を与えた。


 いよいよ登攀開始だ。


 瀬古はいょおっし、と自らに気合を入れるが如く両手で腰をパンパン、と二度叩くと、左手で頭上の突き出た岩の突起を掴み、右の太腿を高く持ち上げて穿たれた穴の一段目に足先を引っ掛けた。

 全体重を穴に載せ、這って手頃な岩を右手で掴み、左足を次の足場に移すと、身体は軽々と持ち上がった。


「オッケー。足場の硬さは悪くない」

 瀬古が少し頬を緩めた。

 二米ほどよじ登ったところで彼はすぐさま喜びの声を挙げた。

「おっ! こりゃ…穿たれた穴以外に、掴みやすい、ガイドになるような岩もちゃんとある。いけるよ!」


 下から見上げる三人が安堵の表情を浮かべていると、瀬古の踏みしめた足から小石がパラパラと落ち、最前列にいたネルグイの顔に降り掛かった。

「あ、あぶな…」

 落石に気づいた瀬古が一旦手を休めて下を向いた。


「真下に入るな! 俺のバックパックの中に予備のヘルメットが二つ入ってるから、すぐに付けて!」


 慎治は急いでリュックの中をまさぐり、ヘルメットを取ると、迷いなく毛利とネルグイに手渡した。

「気にしないで、お二人で遠慮なく使って下さい」

 毛利は軽く頭を下げてそれを受け取ると、自嘲の笑みを浮かべた。

「経験とは馬鹿にならないもんだ。まさか大学時代の登山が役に立つとはねぇ…」


 ネルグイが瀬古の姿を食い入るように見上げると、すでに彼は岸壁の中間地点ほどに到達していた。瀬古が腰のポーチからロックハンマーを取り出し、頭上の岸壁の隙間にハーケンを打ち込むたびに、辺りには小気味よい金属音が響いた。


 打ち込んだ杭にロープを通すと、瀬古は自らを励ますように声を挙げ、次の岩へと手を伸ばした。

「これくらいの岩場なら…命綱がなくとも…フリーで…登れるはず!」

 瀬古はひとり、叫びながら、次々と指先を岩のわずかな窪みに差し込み、蜘蛛のように壁面をよじ登っていく。


 頂上まで残すところ二、三米。


 彼は、まるでしゃくとり虫のように右に左に身体をいなしながら、いよいよ頂上の岸壁の縁まであと僅かとなった。


 最後の一手。

 彼の手のその先に薄暮の澄んだ空が広がるのが見えた。

 ガシッ、と岩の砂利を強く踏みしめたような音が辺りに響き渡ると、瀬古の身体がふと、視界から消えた。


「クリア!」

 瀬古はその身を岸壁の頂上へと力強く一気に投げ出すように押し上げると、ひときわ大きな声で絶叫した。


 固唾を呑んで見守っていた毛利と慎治とネルグイから一斉に歓声が挙がった。


「グッジョブ! 瀬古!」

 慎治は思わず叫んだ。


「まあ、こんなもんでしょう」

 涼しい顔で瀬古が上から見下ろすと、毛利も声を挙げた。

「瀬古さん! ありがとう! でも、もう時間はないよ~」

 心得た、とばかりに彼が適当な岩場を見つけると、すぐさま金属音を響き渡らせながら、ハンマーで命綱用の楔を岩盤に打ち込んだ。


「ザイルダウン! 下、ロープ降ろすよ! 毛利さん、バックパックの中のグローブ着けて!」

「ありがたい! 了解です」

 毛利が答えると、ロープの束がドサリと上から落ちてきた。

 次はネルグイが登る番である。

 

「やっぱり、大変なこと、引き受けちゃった、かなぁ…?」

 ネルグイは苦笑し、首を振りながらロープが垂れる崖の下に立った。

 彼は数秒間、崖の頂上を見上げていたが、やがて覚悟を決めたのか、全身に力を籠めて言い放った。


「登ります!」


 瀬古は崖の上から指でOKサインを作った。

「手がかり、足がかりがあるから、大丈夫! 自信持って!」

「はいっ!」

 ネルグイは瀬古に大声で答えながら左手で岩の突起を握ると、ほぼ片腕だけで全身を力ませにその体を持ち上げ、右足を振り上げて穿たれた穴に差し込んだ。

「うっ…」

 一段上がって両手両足の位置を確保すると、ネルグイは休みもせずに次の一手を頭上に差し出して新しい岩を探した。


「おぉう。なかなかやるねぇ。俺よりいいんじゃないの?」

 瀬古は感嘆してネルグイを持ち上げた。

「そう言って…くださるのは…ありがたいのですが…もっと、おだててもらっていいですか?」

 額に玉のような汗を浮かべ、ネルグイは荒い息を吐きながら声をあげた。


 彼の登る様を見て、その速さに皆は驚き、口を開けて見つめている。

 ネルグイ自身も存外、楽勝と思ったのか、半分ほど登攀を終えると、岸壁をよじ登る速度をますます早めていった。


 八分通り登ったところで、ネルグイは軽口を叩いた。

「次回、皆に会ったときは、僕、多分、これ、趣味にしてい…」

 その言葉を発しつつ、次の岩をつかもうとしたその瞬間、苔むした石をつかみそこねたのか、ネルグイの身体は一気にバランスを崩し、あろうことか数メートル下の壁にガツガツと数回接触しながら落下した。


「ああっ!」


 皆が叫んだと同時に瀬古は毛利に向けて絶叫した。

「確保っ!」


 ロープを伝ってネルグイの全体重がかかった毛利の身体は、ボワン、と一瞬宙に浮き上がり、腰のハーネスが股に食い込んだ。


「ぐぅぅぅっ」

 うめきながら滑るロープを毛利がグローブで必死で食い止めると、ネルグイの身体はまるで無重力空間を泳ぐ宇宙飛行士のように空中に浮かび、わずかに上下に跳ねて止まった。


 ネルグイはしばし呆然とした表情で下の岩場を見つめていたが、正気に戻ると、額の汗をぬぐいながらほっと胸をなでおろした。


「油断は禁物だろ! 頼むぞ、ほんとに!」

 瀬古が厳しい顔をして咎めた。

「調子に乗りすぎちゃいましたね…」


 反省しきりといった風であったが、ネルグイは気を取り直してもう一度岩盤に取り付くと、改めて岩の割れ目に左手を伸ばし、登攀を再開した。




 ネルグイは登るうちに、いつしか、無我の境に達していた。

 それはこれまで感じたことのない、静謐な時間だった。

 やがて、その脳裏には、なぜか亡くなった父や母、そして祖母や姉までもが浮かんだ。

 彼らは何も言葉を発することなく、ただネルグイを見て微笑んでいる。


 父や母を亡くしてからというもの、これほど心の安らぎを感じたことがあっただろうか。 


 次の岩に手を伸ばしながら、彼はこの瞬間が永遠に続いてくれたら、と願った。



 ガシッ!


 最後の足場を踏みしめる音が彼の耳に聞こえた。


「上出来だ! 新世界にようこそ!」

 頂上から手を差し伸べる瀬古の喜ぶ顔を眼前に見た時、ネルグイはふと我に返り、始めて自分が登攀に成功したことを悟った。


 瀬古の手を取り、最後のひと押しで岸壁の草むらの上に全身を投げ出すと、ネルグイは大の字になって歓喜の声を挙げた。


「見上げたもんだ。おめでとう!」

 瀬古が如何にも素っ気ない態度で祝福の声をかけると、ネルグイは照れくさそうに笑った。

「これだけ人に喜んでもらえたのは、小さい頃、作文を褒められて以来ですかね」

 二人は互いに見交わし、満足げに笑った。


 すると、それに水を差すかのように毛利の声が下から響いてきた。

「ネルグイさん、さすがです! しかし、ねぎらいは後にして、急いで探してもらわないと日が沈んでしまう! 自分が登れないのがもどかしいですが、どうか、是非よろしくお願いします」


 何度も来て同じことが出来るような場所ではない。

 たまたま今日は人目につかなかっただけで、明日もそうであるという保証はどこにもないのだ。

 それは来た誰もが感じていた。それが分かるからこそ毛利も必死であった。


「分かりました! 今更ですが…何か目印になるようなものは、ないんでしょうか?」

 頭上から叫ぶネルグイに、毛利は一瞬言葉を失った。


「…残念ですが、そんなものはありません! しかし、常識的に考えて、隠した本人が分からなくなるような埋め方は少なくともしないはずです!

 何らかの痕跡が、あるのかどうか?」


 西の空の落陽は、うねうねと続く糸島半島の山々の輪郭を橙色のグラデーションに染めながら、今津湾全体をセピア色の世界に変えていく。

 まだ、しばらく残照があるにしても、暗くなっては、ヘッドランプだけではどうにも心もとない。毛利は不安げに手をかざして夕日を見つめた。


「じゃあ、ここから東側はネルグイさん、西側は俺。それでいいね?」

 瀬古の言に頷くと、ネルグイはさっそく跪き、足元の草むらや岩の隙間を手で触りながら確認し始めた。


 象瀬の頂上は平坦な部分はごく僅かで、ほとんどは弧を描いたような形をしている。一歩間違えれば滑落の危険とも隣合わせだ。瀬古とネルグイは、足元の地盤を慎重に確かめながら作業を続けた。


 


 それから何分経っただろうか。しびれを切らした慎治が崖下から叫んだ。

「何か、何か手がかりでも見つかりましたかぁ?」

 その声に答えるでもなく、瀬古は屈んだまま暗い表情でネルグイを見た。

「どうだい、ネルグイさん。何かそれらしきものは?」

「いや、まだ、何も…」


 そもそも毛利の推理は正しいのだろうか。

 そんな疑念がネルグイの心に湧いた。確かに染付小皿の十枚のうち一枚はなかったとのことだが、たとえその図柄が象の瀬に乗った牧人であったとしても、それをわざわざ何かを知らせるためにこんな危険な場所に埋めるだろうか。

 偶然、その一枚は割れて紛失しただけではないのか。

 ネガティブな言葉が次々と彼の心に湧いた。


 いよいよ滴るようなオレンジ色をした夕陽が山並みの向こうへとゆっくりと溶けてゆき、一瞬、その裾野をきらりと染めたかと思うと、海の色はたちまち朱から紺へと豹変した。


 ヘッドランプのつまみをひねり、灯りをともした瀬古は、やや諦め気味にネルグイに声をかけた。

「もう一度。じゃあ、今度はネルグイさん、西側を。場所を反対に変えてみようか」

「そうですね。やってみます」


 岸壁の西側の雑草は、落日の下、赤く染まり、風にざわめいている。海面を吹き渡る潮風は、幾万もの金の波を東から西へと、まるでちりめんの襞のように作っては消えていく。

 彼らの焦りをよそに、象瀬は、その姿を、雄大な夕闇の今津湾に影絵のように浮かび上がらせていた。


 もう、無理かもしれない。


 諦めの境地に達し、終了、と、誰かが声をかけるのを待つような気持ちに皆がなりかけた頃、ネルグイは西側の断崖の手前の茂みに光る何かを見た。


「あれは?」

 慎重ににじり寄り、今一度しげしげと見つめると、そこには小さな、網飾りのような花弁を持つ薄紫色の花が十数本、身を寄せるように健気に咲いていた。

 

ネルグイは目を疑った。


これは故郷の香草?

いや、そんなはずはない!

 が、似ている!

 しかし、高山植物であるあの花が、ここにあるはずもないのだ。

 なぜだ?

 なぜなんだ?


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あれは冬営地から夏営地へと家族で移動する途中、全員が馬から降りて小休止を取ったときのことである。


 妹のツェツェグがはるかな地平線に果てしなく広がる、大地を覆う草原の一角を指さして叫んだ。


「あそこ!」

 彼女が指さした先を見ると、まるで薄い紫の雲のような花が競うように咲いていた。


 母のドルマーは言った。

「お父さん、あそこで休みません?」

「ん? そうだな。ここで一旦休憩しようか?」


 ドルマーが懐から取り出した凝乳と干し肉を皆で分けると、ツェツェグは地面に咲く一本の花の花弁をじっと見つめながら尋ねた。


「お母さん、この花、なんていうの?」

「ああ、これはね、マツムシソウだよ」 

 今更、といった感じでドルマーは答えた。


「私ねぇ。この花が一番好きなの。何か優しそうでしょ。雰囲気が」

 ツェツェグは海のように地面に広がる、そよ風に波打つ花を愛おしげに見つめた。


「そうなのかい?…ただね、この花には、良い花言葉もあるけど悪い花言葉もある」

 ツェツェグが間髪入れず尋ねた。

「悪い方は?」


 ドルマーは笑った。


「そっちを聞くと思った。それはね、一つは不幸な愛。もうひとつは、私はすべてを失った」

「ふぅん。何か、物語にでも出来そうだね。余計、綺麗に見えてくる」


 父は二人の会話に口を挟んだ。

「モー ヨル、モー ヨル。不吉なこと言うもんじゃないよ。しかし、ツェツェグは夢見る乙女だなぁ」


「どう言われたっていいんだもん」

 ふん、といった様子でツェツェグは立ち上がると、群れなすマツムシソウの中に分け入り、ぐるぐると手を広げて回りだした。

ドルマーも、あぁら、まるでお姫様みたいね、と笑って立ち上がると、ツェツェグの手をとり、互いに繋げた腕の下を器用にくぐりながら踊った。

すると、父も興に乗ったのか、朗々とした声を響かせ、遠い目で民謡を歌い始めた。


 果てなく深い海さえも 湛えた水が溢れるように

この世の生きとし生けるもの すべてに幸が来ますよう


 やがてドルマーは足で調子を取り出し、指の先を器用に動かして両腕を波打つようにくねらせた。

 そして、彼女は、歌の拍子に合わせ、まるで女神のように紫の絨毯の中を舞い、踊った。


 ネルグイは踊りの輪に加わることもなく、ただ、それを、笑みを浮かべて見ていた。


あの日。

 家族が最も幸せだった夏の一日。


 それは、彼の心の中にいまだ原風景のように焼き付いている。


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まさかっ!


すぐに駆け寄ってネルグイはその花びらをそっと手に取った。

すると、何かに気づいたのか、彼は花が咲く地面に額を近づけ、息を荒らげながら凝視した。

花の生えた地面は、わずかに饅頭のように盛り上がり、周囲の色と明らかに違う土で埋められているのをネルグイは見逃さなかった。


「ここだ! ここに違いない! 瀬古さん、見つけましたよ!」


 瀬古は振り向きざま、ネルグイをぎろりと睨むように見据えると、急いで歩み寄った。


「なぜここだと思うんだい?」

瀬古は怪訝な顔をした。

「それは…。一口では表現出来ません。しかし、直感なんです。間違いなくここにあるはずです。いや、ここしかありえない」

 わかって欲しい、と、頼み込む目でネルグイは瀬古を見た。

 首を傾げながらも瀬古は渋々頷いた。


「まあ、とりあえず、掘ろうか。時間もないことだし」

 腰のポーチの中からスコップを取り出すと、瀬古は丁寧に薄紫色の花を数本、地面からまるごとすくい出し、その下の土にスコップの尖った先をあてがってひっかき始めた。

「ああ、これはスコップじゃーだめだなぁ。地盤が硬すぎる」


 ネルグイは瀬古に尋ねた。

「サバイバルナイフのようなものはありませんか? あれば、私、こちらから半分、掘ってみます」

「あるよ。だけど、気をつけて。怪我したら洒落になんないから」

 腰をまさぐって瀬古はポイ、とネルグイにナイフを軽く投げて手渡した。


 折りたたみ式のナイフを広げると、ネルグイは力を込めて岩盤のように硬い土に向けて突き立てた。

 しばらく全力で掘り進めようとした二人だったが、表面の土が薄く削れるだけで下の地盤はびくともしない。


「下に通りませんね」

 絶望したようにネルグイはつぶやいた。

 口元に笑みを浮かべながら瀬古は腰のポーチに手を当てた。

「こうなりゃ、岩盤と一緒だな。ハーケン打ってみよう」


 黒々として尖った楔を一枚取り出すと、おもむろに瀬古は地面の真ん中を軽く叩いて当たりを付け、今度は、振りかぶって楔頭めがけて力任せにハンマーを振り降ろした。


キーン、キーン

二回ほど瀬古が高い金属音を歌わせてハーケンを打ち込むと、周囲に響き渡るほど潔く岩が砕け散る音が聞こえた。

見ると、食い込んだ鋼身の下の地面は、面白いほど綺麗に真っ二つに割れている。


 瀬古は目を見張った。

「割れたよ、おい!」

 安堵に満ちた表情で瀬古とネルグイが互いに頷くと、割れた岩を慎重に退かし、その下の土を少しずつ掘り起こした。


 数センチも軽く掘っただろうか。ネルグイのスコップの先端が何か柔らかいものに突き当たった。

 すぐにスコップの手を止め、慌てて彼らが両手で土を掻き出すと、そこには泥にまみれ、茶黒く変色した何かの物体の一部分が露出していた。


「瀬古さん、ありましたよ!」

 ネルグイは歓喜に満ちた声を挙げた。

「どれどれ」

 手にした鉄製のペグの先端で土を払い、下に埋まっている何かを瀬古が軽く小突くと、確かに、表面を弾力性のある素材で覆った箱らしきものがある。


「ビンゴ! ネルグイさん、今日は冴えてるねぇ。九回裏の逆転満塁ホームランだな、これは」


 二人がかりで表面を傷つけないように四隅を掘り起こし、周囲にこびりついた泥や土をこそぎ落とすと、やがて、三十センチ四方ほどの麻縄で堅く結ばれた竹行李が姿を現した。


「出て来た!」

感激からか、二人はしばし、膝を付いて目の前に置かれた飴色に光る行李を見つめていた。

が、しかし、瀬古は、すぐに気を取り直した。

「いかん! これ以上の長居は無用だ! これを持って、とりあえず下に降りよう! 暗くなると足元が覚束なくなる。俺がしんがりを務めるから、先に降りてくれ」

 掘り起こした土を無造作に足で埋め戻しながら、瀬古はネルグイを急かした。

「はい! じゃあ、お言葉に甘えて」

「戻りは楽だよ。ロープを伝って降りればいい。ただ、一気に降りるのは危険だから、ゆっくり、ね。この行李は俺があとで降ろす」


 下を覗いた瀬古は大声で毛利に声をかけた。

「毛利さん、ネルグイさんが降ります! ロープを張ってもらって良いですか?」

「お安い御用です! いつでもいいですよ!」


 瀬古の指摘どおり、ネルグイはいとも簡単に、後ろ向きに宙を歩くように降下した。登りの深刻さが嘘だったかのように、彼はあっというまに地面に着地した。


慎治は、達成感で高揚した面持ちのネルグイをまぶしげに見ていたが、やがておずおずと話しかけた。

「ネルグイさん、本当は私が登らないといけないところを、身代わりのようになってもらって、すみませんでした」

 慎治は恐縮そうに何度も頭を下げた。

「いゃあ、気にしないで下さい。こんな体験、一生に一度でしょうからね」

登ったのが自分で良かった。ネルグイは心底そう思った。

元寇船の調査といい、あの、マツムシソウに似た花といい、彼は自分が今日、この役回りを得たことがとても偶然とは思えなかった。


「じゃあ、荷物降ろすよ!」


もう、すでに辺りは燃えるような残照も消え、濃紺の空と黒々とした静寂の海が象瀬の周りを囲んでいる。

対岸の能古島には一つの灯りもなく、折しも、その漆黒の島影は、福岡の街の夜景の反照を受け、夜空に浮き上がっているかのように見えた。


 毛利は上から徐々に降りてくる行李を待ちきれず、目を見開き、背伸びして手繰り寄せようとしている。

彼の指先がようやくそれに届くと、背の高いネルグイは気を利かせて揺れる行李を先に受け止めた。

割れ物を扱うように二人が静かに行李を地面に置くと、毛利はすぐさま取り付き、ロープの結び目を解こうとした。

 慎治は、そんな毛利をのぞきこみ、隣から心配そうに声をかけた。


「どうします? もう辺りは真っ暗ですよ。開けるのは岸に戻ってからの方が良くないですか?」

「いや、ここで、ここで開けましょう!」


 いつもの慎重な毛利の姿は鳴りを潜め、興奮したように声を上ずらせる姿を見た慎治は、今は何を語っても無駄だと悟った。


 麻紐で堅く結びつけられた行李を前に、毛利は座り込み、暗闇の中の僅かな光で結び目を解こうと必死である。

 興奮と緊張からか、ぷるぷると震える指はますます縄目をほどくのを困難にした。ましてや、何百年も前の結束である。暗がりの中で必死に作業を続ける毛利を、ネルグイと慎治は半ば呆れたように見つめた。


 瀬古がロープやハーケンの撤収を終えて自力で地面に降り着いたころ、未だ毛利は結び目と格闘していた。


「…気が急くのは分かるけど。毛利さん、ここはひとまず撤収しましょうよ」

 瀬古は状況を察してか、彼としては珍しく遠慮勝ちに切り出したつもりだったが、毛利はその言を気にも止めず、額を結び目に付けるかのように近づけて必死の形相で指を動かしている。


 苦々しそうに瀬古は頭を振りながらも、仕方がない、といった体で、毛利の手元をヘッドランプで照らした。

「あ、あぁ…ありがとう…これで何とか」

「これも使ったら?」

 クロモリ鋼製の鈍く光るハーケンを一本取り出すと、瀬古は毛利に手渡した。

「いゃあ、こりゃ助かります…」

 毛利は眼鏡の山を人差し指で押し上げ、これまで以上に身を乗り出すと、尖ったハーケンの先を麻紐の結び目に差し込んだ。


 彼が不器用にも紐と格闘している姿を見るに見かね、慎治は切り出した。

「僕、やりますよ。普段は針の穴も難なく通せるぐらいですから…」

 慎治の言に、毛利は始めて正気を取り戻したかのようだった。

 彼は額の脂汗を拭いながら、ようやく行李の紐から手を離した。

「そうか…僕も馬鹿だねぇ、年甲斐もなく…」


 代わりに座り込んだ慎治も、しばらく苦戦していたものの、結び目にハーケンの剣先がひとたび通ると、紐は嘘のようにするすると解けた。

「ほっ、ほら! 解けましたよ?」

 慎治は喜色に満ちた表情で声を挙げたが、いよいよ竹行李の蓋を開ける段になると、そばに立つ毛利をいったん見上げ、自信なさげに切り出した。


「良いんですか?」

 毛利は緊張した頬を強張らせながら、生唾を飲み込み、ただ静かに頷いている。


 慎治が行李の蓋をゆっくりと持ち上げると、その中には二センチ厚ほどの、白茶色に紙焼けし綴じ糸が切れた料紙の束が一冊と、光沢のある絹に包まれた、ずっしりと重い六センチほどの赤銅製の印章が一つ、白地に青で染付けられた伊万里焼の小皿が一枚、それぞれが、まるでこれらを収めた人物の人柄でも分かるかのようにきちんと整えられ籠の中に納められていた。


「…わ、我、成就せり…」


 唇をわなわなと震わせ、時が止まったかのように毛利はただ目を見開いて立ちすくんでいる。


 次の瞬間、慎治とネルグイは、周囲が驚くほどの大きな歓声を挙げて飛び上がり、互いに握手して肩を抱いた。

 瀬古も、自らの感情を押し殺すかのように、眉間に皺を寄せ、手ぐしでわしゃわしゃと頭を掻き、他人事のようにぽつりと言った。

「やったね…良かったじゃないか」


 毛利は、今だ信じられない、といった様子でしゃがみ込むと、放心したまま、籠の中の料紙の束を、始めて赤ん坊を抱く父親のようなぎこちなさで取り出した。

 見ると、古文書は表紙さえないものの、下綴じが為されたしっかりとした作りである。

 料紙の縁は擦れ、変色はあるものの、流れるようにびっしりと書き留められた崩し字は、小さな白色灯の下でもはっきりと読み取れる。


「間違いない…大和四郎左衛門の筆跡…」

 未だ震えの止まらない指先で湿った料紙をめくると、速読者がするように彼の瞼は小刻みに上下し、本当に読めているのか傍から見て疑わしいくらいの速度で日記を読み進めている。


 目的は達成した。

 ここに長居は無用と誰もが分かってはいた。

 しかし、毛利の無我夢中な姿に圧倒され、周囲は声をかけることさえ出来ずに、ただ時間だけが刻々と経過していった。


 いずれ彼の興奮も納まり、きりのいいところで口を挟めるだろう。

 そう皆は踏んでいたが、意に反して、ページを捲るたびに彼の高揚はいや増し、やがて肩で大きく息をし始めた。

 五分ぐらい経っただろうか。

 そろそろ最後のページだ。慎治はネルグイと瀬古に目配せしながら、角を立てずにどう断りの言葉をかけるかを心の中で考えた。


 その時。

 これまで忙しなく動いていた毛利の目線がある一点で固まると、にわかに息は荒くなり、額に脂汗を浮かべ、苦しげに背中を丸めながら胸を掴んだ。


「おっ、ぉっ、おのごろぉ!」


 彼が何かを叫ぶと、肩を大きく上下させ、やがて言葉にならない呻き声を挙げ、突然、糸の切れた操り人形のように頭からばったりと地面に倒れ込んだ。


「ど、どうしたんですか?」

 血相を変えて慎治が近寄ると、毛利の意識は既にない。

 そのうえ、受け身も取らずに顔を岩場にしこたま打ち付けたせいで、皮膚は裂け、額からもかなりの血が流れている。

 なおも毛利の身体を揺すって助け起こそうとすると、瀬古が声を荒らげて止めに入った。

「駄目だ! 身体を揺らしちゃ! 俺に任せろ!」

 二人の間に割って入り、瀬古が大声で毛利に声をかけるも、全く反応は見られない。

 彼は諦めて次に毛利の腰のあたりを凝視し、呼吸の有無を確かめた。


「う~ん。こりゃ、一番起きてほしくないことが…しかもこんな場所で…参ったな…」

 瀬古は息をしている気配のない毛利の身体からいったん目線をはずすと、彼らしくない苛立ちを見せ、深いため息をついた。


「ど、どうしたらいい? 電話で助けを呼ぶ?!」

 慎治は半分泣きそうな顔をして切羽詰まった声で瀬古に問いただした。

「…もちろんそれしかない。それしかないんだが…」

 厄介な場所で厄介なことになったもんだ。瀬古は舌打ちした。

「とにかく…慎治は携帯で一一九番に電話してくれ。お前が説明している間、俺とネルグイさんで心肺蘇生するしかない…ネルグイさん、救命処置の講習かなんか受けたこと、ない?」

 先程からその場に立ち尽くして呆然としていたネルグイだったが、我に返ると、申し訳無さそうに返事をした。

「いゃあ、残念ながら…」

「そうか、分かった。じゃあ、俺が指示するからその通りにやってくれ。まず、本当は動かしたくないんだが、こんな場所に消防が来るには時間がかかる。仰向けにしたいんで手を貸して!」

「わかりました!」


 瀬古とネルグイは二人がかりで毛利の身体がねじれないようにゆっくりと抱き起こすと、彼の顔は眼鏡が割れ、顔中が血だらけで、見るも無惨な状態である。

 慎治は痛々しいその姿を見て思わず顔をしかめたが、躊躇したのか、念のためもう一度瀬古に声をかけた。

「じゃあ、僕から電話、かけていいんだよね?」

 瀬古は毛利の下顎をくいと上げて気道を確保しながら振り返って絶叫した。

「俺にいちいち聞くな! いい大人だろ、お前! 何やってんだ!」


 怒声で目が覚めたのか、慎治は、ハッと気を取り直してリュックの脇ポケットから急ぎ携帯を取り出し、今度は慌てて緊急通報のボタンをプッシュした。

 ワンコールを待つことなく、次の瞬間、慎治の携帯のスピーカーには落ち着いた穏やかな通信指令員の声が響いた。 

「はい、一一九番消防です。火事ですか?救急ですか?」


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