←前へホーム




残の海人(のこのかいじん)8章

終章

 慎治が毛利の見舞いに訪れてからわずか二日後。彼から、古文書の解読結果がメールで届いた。

 覚悟はしていたものの、それは明らかに慎治の手に余るものだった。


「当家花瀬の百姓たりといへども そもそも弓馬の道を守る武家にして宗像大宮司家に累代仕へたる旧臣なり 

 ゆえありて刀を捨て ご国恩によりて庄屋を努めたるは八幡神のお慈しみとかたじけなみて 祖先のご威徳によるものとあおぎ尊し奉る 

 古来大和家 弱きを助け悪を好まず 代々受け継ぎし性は伝来の宝刀にも勝るべき宝なり 

 また大和家累代の宿縁に隠れたる秘密を解く鍵はまさに『おのごろ』にあり 

 子々孫々よろしく相伝し 末代に至るまで四郎左衛門の心根に抽すべき条、よってくだんの如し


 奥国鳥鴨産云船故之還地来者正也良二乃崎筑守早前告許也會」


 お手上げである。

 前文は何度も読み込むうちに少しずつ理解出来た。


 大和家が受け継いでいくべきものは宝ではなく、その性質そのもので、一族の秘密を解く鍵は「おのごろ」にある、と書かれている。


 特に、慎治は、「宿縁」という単語が引っかかった。

 それは、真矢の祖母・伊乃が語った「宿世の縁」という言葉と符号するものだったからだ。

 ただ、その後に記された暗号のような一文については糸口さえも掴めなかった。


 奥、国、鳥、鴨… いったい、先祖はこの文章に何を込めようとしたのだろうか。全く意味のつかめない漢字の羅列に彼は頭を抱えた。


 慎治の解読への執念は次第にエスカレートし、ついには研修先の不動産会社に体調不良のため数週間の休みを申し出るまでに至った。 

 彼にとってはこの古文書の解読が、真矢との関係、父の病い、事業の継承という目前の辛い現実から逃れる唯一の術だったのだ。


 会社を休んで家のカーテンを締め切り、図書館で借りた山積みの文献を首っ引きで夜昼なく読み続ける慎治の姿は一種異様な姿に見えた。

 程なくして研修先の社長から連絡を受けた慎治の母が心配のあまり、未來を連れてマンションを訪ねてきた。


 室内に入ってそのあまりの惨状に玉枝はショックを隠しきれなかった。

 部屋にはカップラーメンの臭いが充満し、シンクにはその容器が山のように無造作に積まれている。

 髭も満足に剃らずヨレヨレのジャージを着た慎治の姿を見て、彼女はしばらく絶句したまま立ちすくんだ。


「いったい…どういうつもりなの?」

  責めても無駄だから、と取りなす未來の言葉も玉枝にはまるで届かなかった。

 二人がかりで室内をざっと掃除してようやく落ち着けるスペースを確保すると、玉枝はダイニングテーブルにコンビニで買ったサンドイッチやおにぎり、惣菜などを並べて、昼食を、と促した。

 無言のままサンドイッチのフイルムを剥がしてその一切れを頬張る慎治に玉枝は痛々しげに声をかけた。


「もう…どう言ったらいいか…真矢ちゃんとは、駄目なんでしょう?

 そりゃぁ、あなた、辛いでしょうけど、まだ結婚していたわけじゃないんだし。人生長いんだから…」

 慎治はちら、と玉枝を見ると、すぐに視線を外してハムパンを面倒くさそうに食べ続けた。

 未來はしばらく隣で耳を傾けていたが、急に、変に大人びた態度で玉枝に告げた。

「お母さん、お兄ちゃんはね、真矢さんのことはショックだろうけど、それだけじゃないと思う。でしょ?」

 それまで無言を貫いていた慎治だったが、ようやくぽつりと一言呟いた。

「古文書の解読に集中したいんだよ。父さんから頼まれた」


 眉間に皺を寄せて泣きそうな顔で玉枝は言った。

「お父さん、もう、聞いても分からないかもしれないのに…」

 急に慎治は声を荒らげた。

「分かってるって!」

 

 玉枝は一度はびくっとして語るのを止めたが、しばらくするとまた自らの不安を吐露し始めた。


「今はねぇ、ベテラン事務員の和田さんが頑張ってくれてるし、私もいるから、アパートの管理業務は何とか回ってるけど、いつまでも、っていうわけにはいかないよ。家に閉じこもりたい気持ちは分かるけど、いずれは立ち直って、」

 未來が、もういいでしょ、と口を挟んでも玉枝はまだ収まらないらしく、ぶつぶつと独言を続けた。慎治はテーブルの上に目線を落とし、髭にパンのくずを付けたまま、もしゃもしゃとただ口を動かした。


「それにしても…家の建て替え、どうしようかねぇ。真矢ちゃんに関係者割引も含めて相談してたんだけど、こんなことになったからには断らなきゃ、ねぇ? 一生、ケチの付いた家になんか住みたくないでしょう?」


 未來は間髪を入れず答えた。

「私が断る。今はさ、ほんと、大和家にとって正念場でしょう? だから、一丸とならなきゃ。ご先祖様に申し訳がたたないもん」

 強い口調で語る未來の言葉に玉枝の心配もわずかに緩んだようだった。

 慎治も、未來の声を聞き、戦っているのは自分だけと思い込んでいたことを少し恥じた。


 未來の発言で、慎治も、長男として家を団結させる大切さに気付いたのか、二人が去る頃には、解読が一段落したら必ず研修に戻る、と約すると、玉枝もようやく安堵の表情を見せた。



 それから数日経つと今度は村田が慎治に電話をかけてきた。


 なんだかだと理由を付けて断ろうとするものの、村田は強引で、とにかく出て来い、とマンションの近くの川沿いの焼き鳥屋で落ち合うことになった。

 店に出向くと、飴色に輝く板張りの座敷席にはすでに村田と小松が紺色の薄い座布団に座って杯を上げていた。

 店の戸口に立つ慎治に気づくと、注文する客とそれに威勢よく応ずる店員の声が飛び交う中、村田はこっちに来い、と手招きをしている。


「来たか~、慎治ぃ」

 小松が如何にも久しぶりという調子で陽気に慎治に声をかけた。

「なんじゃぁ、髭でも生やしてからに」

 慎治の姿を見て小松はからかった。


 乾杯もそこそこに村田はいきなり素知らぬ振りで本題に切り込んできた。

「駄目だったんだって? 真矢ちゃんとは?」


 他人事のような発言に、慎治はもう少し言い方があるだろう、と思いながらも仕方なく頷いた。


「誰から聞いた?」

「與座さんとうちの親父が話したらしい。與座さんも、良縁だっただけにすごく残念がってるって」


 慎治はまるで敗れた高校球児のようにうつむいた。

「どこでボタンかけちがっちゃったのかなぁ? 電話で話したときは、慎治君を紹介してくれて本当にありがとうって、心から感謝してくれてる風だったけど…」

 次々と敗戦の分析をするかのような村田の言が、いちいち慎治の心に刺さった。


「彼女、なんで別れるって?」

 ぶしつけな小松の質問だったが、彼も自分を激励するために来たのだと思うと無下にも出来なかった。


 仕方なく慎治は重い口を開いた。

「最後の方は、電話も何も通じなくて、さ。実は、恥を偲んで会社に会いに行ったんだ」

「で?」

「接客の途中だったから、余計嫌そうな顔をされちゃって…ショックだったよ…もう私は貴方から必要とされてない、って…そう言ってた」

 ふぅん、と眉を寄せて小松は宙を見つめた。


 しばらく場を沈黙が支配したが、小松はそれを打ち消すように妙に陽気な口調で続けた。

「まぁ、な。女と付き合ったことがないお前が、始めて付き合えたんだ。それだけでもありがたいと思わなきゃ」

 慰めとも冗談ともつかない小松の言葉に、慎治はなおさら自分が惨めに思えた。

 慎治がグラスの底に残ったぬるいビールを飲み干すと、村田は言った。

「今日は俺たちのおごりだから」


 もくもくと煙が吐き出される焼き鳥屋の玄関の障子戸をピシャリと閉めて一同が路上に出ると、村田は手を挙げて、あんまり気にしすぎるなよ、とにかくたまには外の空気を吸え、と念を押した。

 小松も、次のコンパ、待ってるからな、と振り向いて言い置くと、二人は次の店に向かうつもりなのか、大通りのタクシー乗り場の方向へと川伝いにふらぶらと歩いていき、橋の上からしばらく軽く手を振っていたが、やがて見えなくなった。


 二人を見送る形となった慎治の胸にはただ、空虚感だけが残った。


 この飲み会を通じて彼が悟ったことは、この失恋からはそう簡単には立ち直れない、ということだった。

 勢い、慎治は古文書の解読に没頭することだけが現実から逃れられる唯一の術となった。



 村田たちとの飲み会から五日ほど経っただろうか。

 慎治の顎髭はいよいよ伸び、綿入れの半てんにジャージを履いた姿はまるで何浪かした受験生が最後の追い込みをしているさまを彷彿とさせた。が、一向に手がかりはつかめない。

 能古島の地理、風俗、歴史、自然、文化、島を題材とした文学、果ては、古代、島に朝鮮半島からの外敵から国を守る防人がいたころの万葉集に詠まれた和歌にまでも目を通したが、例の暗号を解く糸口はまったくと言っていいほど見あたらなかった。


 夕食のカップラーメンをろくに味わいもせずにかき込んで食べ終えた慎治は、自暴自棄になったかのようにダイニングテーブルの上に足を投げ出し、座った椅子の前脚を宙に浮かせて奇術師のようにぎいぎいとバランスを取った。


 ああ、いったい俺は、何をやっているんだろう…


 慎治は、最後に真矢と会った際、彼女が仕事に打ち込む活き活きとした姿が目に焼き付いて離れなかった。それに引き換え、自分はまだ研修先の職場に行くことさえ拒否して古文書をひたすら読み込んでいる。

 考えれば考えるほど惨めだった。しかし、それしかすることが思い浮かばないのだ。

 だが、既に解読に取り組んで二週間近く。自らでこの問題を解決するにはやはり荷が重すぎたのではなかろうか。


 毛利に再度、泣きつくか? それとも専門家に有償で謎を解いてもらうか?

 考えがまとまらないまま、ぼうっとした頭で、慎治は何気なくテレビのリモコンを手にして電源を入れた。


 四十インチほどの液晶テレビには、与野党が紛糾して議員が集団で議長席に迫り、人の頭ごしに身を投げ出して採決を阻止しようとする姿がいきなり映し出された。

 慎治はいまいましげにチャンネルを変えると、コントや騒々しいバラエティ番組ばかりで、心を癒やすような映像にはなかなか行き当たらず、彼はますます苛立った。

 しばらくチャンネルを探したが、慎治はやがて諦め、地元のローカル局で旬の情報を流している番組で手を止めて、取り留めもなく放心したまま見入っていた。


「秋の能古島特集。花いっぱい、文学と歴史がいっぱい。近くて遠い能古島の魅力を一挙ご紹介!」


 そんなとき、突然、派手なテロップと女性レポーターの声とともに、フェリーから見える能古島の姿がテレビ画面いっぱいに広がった。


 おっ? とした様子で慎治は無意識に画面を見つめ直した。

「スタジオの斎藤さぁん? 今、私は能古島に来ていまぁす。見て下さい! ここ能古島自然公園の大広場では、これからまさにコスモス畑が満開になろうとしています! 今は七分咲きということで、これから十日間くらいは旬のお花畑が見られるとのことです。どうですか? この絶景!」

 ワイプで抜かれたスタジオのアナウンサーとタレントの顔は玄界灘の紺碧の海を背景にして広がるコスモス畑に一様に驚きの笑顔を見せている。


 慎治にとっては痛い映像だ。

 いつか趣味のカメラで、自然公園の花畑の中で真矢を写真におさめるのが彼のひとつの夢だったからだ。しかし、地元の噂になるのは嫌だと真矢に拒まれ、ついに実現しなかった。

 

 今の彼にとっては何より見たくない絵のはずだ。

 だが、慎治はなぜかチャンネルを変える気になれなかった。


「斎藤さぁん! 実は、能古島といったら満開の花、というイメージがあるでしょうが、それ以外にたくさんのミステリースポットがあるのをご存知ですかぁ?」

 スタジオのデスクに座る面々は一様に首を傾げて、レポーターに次を促した。

「さぁ、では、能古島の知られざるミステリースポットをご紹介します! まずは能古島から見えるこの象瀬です!」


 レポーターの口からは、象瀬のおさよ伝説がまず語られ、次に朝鮮半島からの脅威を防ぐためにここ能古島の北端の也良岬に防人が置かれ、万葉集でもこの地が好んで詠まれてきたことが紹介された。

 慎治が今まさに学んでいる島の歴史である。

 続いて、テレビ画面には、一抱えほどもある、凹面鏡と凸面鏡が向かい合った、古びた石積みのオブジェが映し出された。


「みなさん! 次に、これは何に見えますか? 実は、これは島の頂上付近の思索の森にこつ然と現れる、いざなぎ石、いざなみ石なんです!

 信じるか信じないかは貴方次第、ですが…皆さんもご存知の古事記の国産み伝説。そうです! 伊邪那岐と伊邪那美が最初につくったオノコロ島に降り立ち、そこからこの国がつくられていったという日本神話。

 その始まりの地がここ、能古島だった、という説があるんですよ」


 スタジオからは驚きの声が挙がった。


 鼻息も荒くレポーターは続けた。

「そして、このオノコロ島についてですが、斎藤さん、もうお気づきですか? このオノコロ、という言葉を分解してみて下さい」


 司会者は、オノ? コロ? と思いつきを口にした。

 笑ってレポーターは返した。

「違います。良いですか? ここは能古島。ノコ、でしょう? そして、ここ能古島から北に玄界島を通って一直線に指した先に何の島があるかご存知ですか?」


 スタジオのタレントが叫んだ。

「小呂島!」

 レポーターは、その通り、とばかりに目を見開いた。


「そうなんです! オノコロ島を中抜きして分解すると…オロの島、ノコの島、になるんですよぉ!」

 ほぉっ、とテーブルに並んだ司会とゲストの、パズルを解いた時のような満たされた笑顔が映し出された。


 慎治の体の中に、一瞬で電撃が走った。


 彼はダイニングテーブルから足を外して椅子から降り立つと、急ぎ、書籍を山積みにしたデスクへと向かった。


 逸る気持ちを抑えきれず、自らの動悸を感じながら、慎治はすでにしわくちゃになった毛利が解読した文書を机の上に広げると、その皺を手で引っ張っては広げながら、暗号の一文を、改めて穴が空くかのように見つめた。


奥国鳥鴨産云船故之還地来者正也良二乃崎筑守早前告許也會


 そうだ! 能古島のノコは、古くは残と言われていたはずだ。ひょっとして、これはオノコロ、と同様、中の文字を残せ、という意味に解すべきではないのか?


 まずこの一文を三文字ずつに分割してみよう。


奥国鳥 鴨産云 船故之 還地来 者正也 良二乃 崎筑守 早前告 許也會


 そして、その中の文字を抜いてみると?


奥鳥 鴨云船之 還来者 也良乃崎守 早告許會

 沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば 也良の崎守 早く告げこそ


 やはり!

 これは能古島の北端、也良崎を万葉集の山上憶良が詠んだ一句だ!

 間違いない!

 では、今度は残された文字を繋いでみたら、どうだ!?


国産故地正二筑前也


 国産みの故地は正に筑前なり



 

 慎治は両拳を握りしめ、机の天板を何度も叩き、天井を見上げ、いつの間にか我を忘れ絶叫していた。

 獣の遠吠えのような叫び声は夕食どきのマンションの窓を貫いて外にまで突き刺すように鳴り響き、その声はやがてむせび泣きに変わり、がらんとした生活感のないマンションの室内に空虚にこだました。

 

 慎治は机に突っ伏したまま嗚咽し、暗号を記したコピー用紙にはぽたぽたと涙が落ち、見る間に湿っていった。


 つけっぱなしのテレビは、賑やかな男女のМCの掛け合いをはさみながら、今年流行った楽曲のランキングを発表し続けている。


 画面には、煌々と光るスポットライトに当たりながら、恋人への思いを切なげに弾き語りするシンガーソングライターの汗ばんだ額が大写しになった。






 日ならずして解読に成功した旨を報告するため、慎治が病院を再訪すると、毛利の喜びようは一通りではなかった。

 が、一時は心臓発作で生死の境まで追い詰められた彼だっただけに、慎治にとっては冷や汗ものだった。


 毛利は、君が大和家の長男だからこそ解けたのだ、と何度も手放しで称賛した。だが、だからこそ先祖への感謝を忘れずに祀り事を欠かすことがないように、と、改めて慎治に申し添えた。


 これですべての謎が解けたね、僕も退院したら、さっそく君のお父さんに報告に伺うよ、と明るく毛利が述べると、慎治はこれまであえて触れてこなかった父の病状を、もう隠せない、とばかりに観念したのか、おずおずと切り出した。


 ご報告に言っていただいたとしても、今の父はもう理解できないかもしれません、と慎治が経緯とともに正直な感想を伝えると、毛利は最初、呆然として口を半ば開けていたが、やがてぎゅっと強く瞑目し、その赤らんだ頬には、はらはらと涙がこぼれ始めた。

「もう、もう、丈一郎君とはこの世では語ることが出来んのかっ」


 肩を震わせてしゃくりあげる毛利に、慎治はかける言葉も見つからなかった。

 約一年の間、毛利は父へ歴史調査の成果を報告することだけを生きがいに協力してくれたのである。そのうえ、無二の親友に会っても、その顔を理解できるかどうか分からないのだ。

 その落胆は計り知れなかった。


 しばらく悄然として落涙していた毛利だったが、やがてその頬を自ら病衣の片袖で拭くと、気を取り直したように乱れた襟を綺麗に両手で合わせながら慎治に向き直った。


「そうか。これも運命として受け入れなければならないのだろう。

 ただ、僕は運命論者として、偶然というものはないと信じてる…

 こんな大黒柱のお父さんが大変な時に、親友の僕が丈一郎君に代わって君と二人三脚で一族の歴史を調査した。これにはきっと何かの意味があるはずだ。

 だから、これから語ることは…おこがましいが、どうか、君のお父さんに成り代わって助言しているものとでも思ってほしい」


 慎治は突然の改まった態度に内心戸惑いつつも、静かに頷いた。

 毛利は、日頃の柔和な雰囲気が嘘のような峻厳な態度で、顎をくいと挙げて前を向いた。


「我々はこの一年、大和家の古文書に隠された謎を追いかけてきた。

 そしてその謎はほぼ解けたといえる。しかし、謎を解くこと自体が我々の調査の究極の目的ではないのだ」


 慎治は毛利の言葉の意味を理解しかね、ただ真剣な顔つきで次の言葉を待った。


「君ら先祖が残した謎。

 千利休、貝原益軒、蒙古兵、そして九州王朝…

 これらは今を生きる我々にとっては全く脈絡なく起こった出来事のようにも思える。しかし、君は決してそう考えてはいけない。これは、…謎という名を借りた君ら先祖の生きざまそのものなのだ。

 君らの先祖は、時代々々にどのような出来事に遭遇しても迷うことなくひたむきにその信念を貫き通してきた。

 世間やお上がどうの、ではなく、常に己の信じるところに従って生きてきた。それがたまたま謎という形で我々の眼の前に出現したというだけなのだ」


 そう言い終えると、毛利は先程までの鹿爪らしい雰囲気は嘘だったかのようにふっ、と表情を崩し、温かい瞳で慎治に語りかけた。

「僕が君の先祖だったら、きっとこう言うだろう。

 我々はこう生きた。

 しかし、我々の世はすでに過ぎ去り、これからは君自身が、大和家の性質を受け継いで生きていかねばならない。

 そして、それを知ることこそがこの歴史調査のそもそもの答えだったのだ、と」


 慎治はごくりと唾を飲み込み、喉仏を上下させた。

 まるで大和家の先祖が乗り移ったかのような毛利の姿に終始圧倒された慎治は、しばらくどう反応して良いかさえも分からず、ただ固まっていた。

 もちろん、彼の言葉はいちいち腑に落ち、納得できるものだ。

 これがもし父であったら、おそらく反発が先に出て、内容さえろくに頭に入って来なかっただろう。

 ただ、一方で、なぜか心にすとんと落ちるような清々しい納得感を得ることは出来なかった。 


 慎治の心に第一に湧いてきた感情は、ただ、怒りだった。


 一年間伴走してくれた毛利の言葉は、本来なら、感謝を込めて有り難く胸におさめるべきもののはずだ。

 しかし、それより増して、数百年も続いてきた大和家の歴史の重みを、なぜ自分が一人で受け止めねばならないのか。

 その理不尽さに対して、慎治は、誰にもぶつけようのない怒りがふつふつと湧いてくるのだった。




 退院時に毛利を迎えに来ることを約して病室を辞した慎治は、佐賀弘道館大学付属病院を後にして、一路、自家用車で福岡へと向かった。

 一般道経由で佐賀大和インターから長崎自動車道に乗り、高速に合流すると、単調な運転ゆえか慎治にはあらぬ雑念が次々と浮かんだ。


 毛利の言葉をひとつひとつ玩味しようとするものの、それを遮るかのごとく、彼の脳裡には別れ際の真矢の姿が残像のようにこびり付いて離れなかった。


 そんな慎治に、突然、ハンズフリーにしたスピーカーから瀬古のぶっきらぼうな声が聞こえてきた。

「おう、最近どうだ? 生きてるか?」


 なぜかほっとした慎治は、運転中である、とまず断ったうえで、簡単にここ数週間の出来事を瀬古に報告した。


「そうか、別れたのか。良かったじゃないか。白黒はっきりして」

 普通に聞けば傷つくような言葉も、なぜか瀬古が語れば慎治にはすんなりと受け取れた。

「ところで、夜、暇な日はないのか?」


 飲み会の誘いである。

 慎治は心が揺れたが、未だ一人、マンションに籠もって自分の感情と折り合いをつけたいという思いも捨てきれなかった。

 理由をつけて、また今度、と慎治がお茶を濁そうとするも、瀬古は動じなかった。

「俺自身もなぁ、今回は象瀬の一件もあるし、関わったからにはどこかで一区切りつけたいんだよ。お前の気持ちもあるだろうけど、俺の気持ちだって、ある」


 確かにその通りだ。瀬古には象瀬での出来事といい、あり得ないくらい今回は迷惑をかけている。


 分かった、と簡単に慎治は返答し、とにかく今は運転中だからマンションに帰ってから電話する、と瀬古に伝えると、彼はようやく納得し、通話終了の音声が車内のスピーカーから流れた。


 自宅に帰り、シャワーを浴びて一息つくと、慎治は書斎の木製の学習机の一段目の引き出しから時計を取り出し、デスクライトで照らされた天板の上に置いてしげしげと見つめた。

 真矢の父・與座正之氏から、互いの家族総出の食事会の席で思いがけずプレゼントされた、あの時計である。


 慎治はこのビンテージもののオメガを真矢と会う際は欠かさず身につけていたが、真矢と彼女の職場で会って以来、二度とするものか、と締まっておいたのだ。


 これがある限りは、先に進めない。

 しかし、未練たらしいようだが、この時計が真矢との絆を改めてつなぎとめるものになるかもしれない、とも慎治は思った。

 確か、村田の言では、與座氏は今回の縁談が止んだのは残念だと感じているとのことだった。ならば、この時計を與座氏に返却しようとすれば、もう一度娘と掛け合い、よりを戻すように説得してくれるかもしれない。


 もはや冷静に考えれば妄想に近いものであったが、慎治は最後の蜘蛛の糸にすがるように、その考えにこだわった。


 スマートフォンを取り、慎治は着信履歴から瀬古の電話番号を探し出すと、画面を押してコールした。

 数回呼び出し音が鳴ると、すぐに瀬古のもしもし、という声が聞こえた。


「ああ、俺。今度の飲み会の件だけど、その前によかったら付き合ってもらいたいところがあってね。片付けたいことがある」


 どこ行くんだ?

 瀬古からの素朴な疑問の声に、彼は與座氏からもらった時計を返しに行きたい旨を告げた。

 いつだ、と聞く瀬古に、すべて任せる、と答えると、何日かの候補日を彼が提案してきた。


「先方の都合も必要だろ?」

 気にする瀬古が尋ねた。

「いや、一か八かで、突然訪問してみる」

「まじか? じゃ、いなかったらどうする?」

「その時は、諦めて時計は後日、郵送するよ」


 瀬古は了解、と返事すると、じゃあな、と軽い調子で電話を切った。


 手にしたスマートフォンを静かにテーブルの上に置くと、慎治は重大な決断をした、とでもいうように深呼吸をして自ら高ぶる鼓動を鎮めようと努力した。






 すでにコスモスは遅咲きのシーズンになったとはいえ、十一月中旬の能古行きの姪浜渡船場は観光客でごった返し、つづら折りとなった長蛇の列は待合所の中だけでなく外の広場まで延々と伸びている。

 時刻表では渡船は一時間おきとなっているものの、自然公園行きの客の混雑を避けるため、フェリーは臨時便が運航されていた。


 その日はこれ以上望めないほどに青く澄み切った晴天で、秋の涼やかさを感じさせる微風が心地よく吹き抜け、行楽には絶好の日和だった。


 慎治と瀬古は、待合所と立体駐車場の間の屋外広場にまで食み出した列の一角に立ち、動き出すのを待っていた。

 瀬古はラフな革ジャンにダメージ・ジーンズという出で立ちだったが、慎治はネイビーのジャケットにグレイのパンツ、と互いにちぐはぐだった。

 慎治のトートバックの中には、例のオメガの時計と、與座氏に最終報告するための大和家の古文書のコピーが忍ばせてある。

 彼は、與座氏が歴史家であることを念頭に、文書は単なるコピー用紙ではなく、こうぞ紙を使い、和装の四つ目とじをした複製品に近いものをわざわざ準備した。


 出発を待つ広場では、案内パンフレットの確認に余念がない親たちを尻目に、興奮を隠しきれない子供たちの一団が所狭しと駆け回り、幾組かの老夫婦がそれを温かい眼差しで見守っている。


 瀬古は、額にかかった短い髪束をそよ風で揺らしながら、目を細めて口を開いた。

「で、與座氏にはどんな話しをするつもりだ?」

 慎治は一瞬目を泳がせたが、すぐに虚勢を張るかのように胸を反らせた。

「まずは歴史調査が終わったことと、謎が解けたことを報告する」

「それから?」

「それからは、出たとこ勝負だよ…與座さんが興味を持ってくれれば、タイミングを見て、真矢ちゃんとのことも話してみて、こちらとしてはまだ彼女への思いがある、と」

 瀬古は口をあけて唖然とした。


「あのなぁ。まだそんな馬鹿な言ってるのか? そもそも真矢ちゃんは家が関わることがいやでお前と別れたんだろ? 與座氏に話して今の事態が好転するとでも思ってるんだったら、お前、よっぽどお目出度い奴だぜ」

 冷静に判断すれば誰もが分かることだ。

 しかし、慎治は、未練がましいと思われてもいい、やるだけやって次に進みたい、と、聞かなかった。


 呆れて瀬古は数秒空を見上げて言葉を呑み込むと、やがて大きく嘆息した。

「ま、お前がそれでいいんなら」

 ぎろりと慎治を横目で見ながら、その視線をすぐに瀬古は波止場に繋留された漁船へとぷい、と移した。

「やってみたらいい」


 しばらくすると、自家用車の客にすみやかに乗船するよう促す放送が流れ、ぎゅうぎゅうになった列がようやく少しずつ前に動き始めた。


 ゆっくりと前に進みながら、瀬古は慎治に念押しした。

「ただし、な? 万一、與座氏に会えて、そんな話しになるようだったら、俺は席を外す。その方が話しやすいだろ? 決着をつけるのはあくまで、お前だ」

 慎治は唇を固く結んで頷いた。


 これまで何度このフェリーで能古島に渡ってきただろうか。

 乗船した慎治にとって、市内からわずか十分で到着するこの地は、毎回、異国へとタイムスリップするように新鮮で、訪れるたびに癒やされてきた。

 しかし、今回ほど気の重い来島もなく、與座家の玄関に立つことを考えると、それだけで早鐘のように彼の鼓動は胸を打ち続けた。


 フェリーの可動橋が能古島港の桟橋の突端に接岸して乗用車が先に出払うと、係員の指示に従って、車両甲板からすし詰めの乗客が次々と下船した。

 慎治と瀬古も、その波に呑まれ、大勢の家族連れに挟まれたまま、ゆっくりと出口へと進んだ。


 海辺を右手に見ながら進む周回道路は、あれほどの混雑ぶりの船内とは打って変わって、時おりレンタサイクルに乗った若者やカップルが後ろから行き過ぎる以外は殆んど人通りもなく、今日も静かだった。


 護岸の向こうに広がる博多湾の穏やかな海面は、強い日差しに照らされ、銀色の波で輝いている。遠く対岸のミニチュアのような福岡ドームやタワーがまるで人差し指でつまめそうだ。

 澄み切った空の下、はるか空の向こうに、山々が紺青色の緩やかな稜線を見せて横たわっている。


 慎治と瀬古は、たったの一言も交わすことなく、ただ黙々と前を見て歩み続けた。

 ときおり上空にとんびが悠然と旋回する以外は、何一つ海にも、陸にも動くものはなかった。


 彼らが海岸線沿いの集落に着き、ひときわ目立つ與座家の入り母屋造りの玄関にたどり着くと、瀬古は始めて慎治の顔を振り返った。

「入るか?」

 瀬古が問いただすと、慎治は唾をごくりと飲み込み、覚悟した顔つきで顎を引いた。


 慎治が呼び鈴を押すと、数秒して人の気配が擦り硝子の格子戸の向こうから見え隠れし、女性の愛想の良い、はぁい、と返答する声が聞こえた。

 ガラガラと引き戸が開くと、真矢の母、礼子だった。

 客が慎治と分かった途端、彼女の笑顔は一瞬にして凍りついた。


「…まぁ、慎治さん…」


 ぎこちない笑顔で礼子が唇をわずかに震わせながら声を絞り出した。


 礼子の表情を見て、慎治はその場で自らが招かれざる客であることを理解した。

 と同時に、当時はあれほど歓迎してくれていた礼子が、突然の訪問とはいえ、これほど困惑した表情を見せたことに心底落胆した。


 礼子は、さあ中へ、とも言わずに、木戸を半分開けたまま格子の桟に手を置き、何を語るのか、と怯えた表情で立ち尽くしている。

 慎治は、ままよ、と腹をくくって問いかけた。


「すみません。與座さん、はいらっしゃいますか?」

 礼子は驚いた。

「與座さん? 主人のことですか?」

「はい、そうです」

「ご用件は?」

「実は、大和家の歴史調査が完了しまして、その報告でも、と」

 礼子は慌てて、もともと白い肌から更に血の気が引き、みるみる青ざめていった。

 木戸に置いた手は小刻みに震えていたが、それを隠すかのように彼女は掌を握りしめた。

「ごめんねぇ、與座はおりませんのよ。出かけてましてねぇ。せっかく来ていただいたのに…」

 礼子は如何にも申し訳ないといった様子で眉間に皺を寄せた。


「そうですか。今日はお帰りは遅いんですね」

「…そうなのよ。ちょっと、地域の集まりがあって、何時に帰るのかも分からないの」

 礼子の体がわずかに揺れて玄関の土間が垣間見えると、そこには普段與座氏が外出時に履いていた博多織の鼻緒の雪駄が綺麗に揃えられていた。


 そうなのか。

 慎治は心から憑き物が落ちたかのように自覚した。


「分かりました。こちらこそ、ご連絡もせずに訪問してすみませんでした。ところで、これを」


 慎治は手に提げていたトートバックをまさぐり、ビニールレザー製の腕時計ケースを取り出すと、礼子の目の前にそれを差し出した。

「一度いただいたもので大変申し訳ないんですが、高価な時計ですから、お返しした方が良いだろうと思いまして」


 はっ、と気づいたような表情を見せた礼子は、それは一度差し上げたものですし、と何度も固辞したものの、押し引きを重ねるうちに最後は折れて、小箱を遠慮がちに受け取った。


「ほんとにねぇ…真矢のことはごめんなさいねぇ。私も、慎治さんなら、と喜んでいたんだけど。最終的には本人が決めることだから」

 

 さばさばとした調子で慎治が答えた。

「仕方ないです。残念ですけど」

「なんて言ったらいいか…でも、與座にはあなたが来たことは伝えておきますね」

「はい。短い間でしたけど、いろいろとお世話になりました。では、失礼します」

 慎治はくるりと踵を返すと、瀬古のほうを向き、うなずいて出立を促した。

 瀬古も唇を真一文字に結ぶと、わずかにまばたきをして玄関を背にした。



 二人は、その後、一度も振り返ることもなく、海岸沿いの護岸伝いに、海からの心地よい涼風に髪をなびかせながら、もと来た道を引き返していった。


 すべてが終わった。


 慎治の心は絶望で満たされていたが、一方でやるだけやった、という達成感も感じていた。


 歩く彼の耳には、波打ち際から、次々と打ち寄せるさざ波の心地よい音が、規則正しいリズムで聞こえてくる。

 ときおり、砂浜に群生した赤いオシロイバナからであろうか、まるで化粧水のような芳香が鼻を掠めた。


 帰りの渡船は混雑するかと思いきや、多くの家族連れがまだ公園を満喫している時間帯であることもあって、行きとは打って変わって意外なほど空いていた。

 次の定期便までは二十分ほどだ。


 待合スペースの柱に巡らされた木製のベンチに慎治と瀬古は座って乗船を待ったが、相変わらず互いに一言も交わさなかった。

 慎治が座った眼の前の掲示板には、自然公園の大ぶりのポスターが貼られ、満開のコスモスの中で万歳をした三人の女性が笑顔で写っている。


 結局、二人で公園を訪れる夢は果たされなかったな。


 未練だと分かっていながら、慎治の脳裡には、コスモス畑の小道を満面の笑みを浮かべながら歩く真矢の姿が現れては消えた。

 桃、白、紅、紫。色とりどりに咲いた花の絨毯に分け入ると、チョコレート色のワンピースにベージュのカーディガンを羽織った真矢の姿はそれに同化し、まるで鮮やかな印象派の絵画のようだ。

 背後にある玄界灘の濃紺の海と雲のような極彩色の花畑は、真矢の透き通った白い肌をさらに浮き上がらせて見せた。


 あなたに似た人をみると、最近気になってしょうがないの

 ふとした拍子に口にした真矢の言葉を慎治は思い出していた。


 もう二度と会うこともないのだ。


 はっきりと一つの恋が終焉したことを慎治は完膚なきまでに自覚した。


「おい、もう乗船時間だぞ。そろそろ行こうか」

 瀬古が始めて口を開いた。


 慎治はこくりと頷き、膝に手をおいてゆっくりと立ち上がると、乗降口へと続く列の最後尾に付き、切符を握りしめ瀬古とともに並んだ。


 やがて係員の乗船開始の掛け声とともに待合客の列がざわめくと、昼下がりのあわあわとした日差しが差し込む出口へと徐々に流れ始め、慎治と瀬古も切符を差し出して外に出ると、磯の香りとともに波止場の微風が彼らの頬を撫でた。


 二人して桟橋を歩く中、瀬古が、突然慎治に声をかけた。


「言っとくけどなぁ」

 ぶっきらぼうに瀬古は言い放った。


「今は落ち込むのもいい…。ただな、冷たい言い方になるかもしれんが、お前が誰と付き合って別れたかなんて話しは正直、俺らにとってはどうでもいい。

 一つだけ確かなことは、な。お前がどんなに辛い状況にあろうとそうで無かろうと、これからも俺らは隣にいるってことさ。

 だから、落ち込むな、とは言わん。けど、あんまり自分自身、追い込み過ぎるなよ」


 車両積載前のがらんとしたフェリーの船尾から乗り込むと、二人は車両デッキ階から室外階段を伝って二階へと上がった。

 瀬古は船内の座席に座ろうとしたものの、慎治は姪浜港までわずか十分だから外の風を浴びたい、と船尾の安全柵の間際に陣取り、眼前に聳える能古島の姿を見たまま動かなかった。

 瀬古も当初はしょうがない奴だと言いたげであったが、やがて諦めて慎治のそばに立ち、背中を手すりに預けた。



 わずかの時間で、このフェリーも市内に戻り、厳しい現実と向き合わねばならない。

 そして真矢との思い出も過去のものとして封印しなければならないのだ。


 惜別の念と侘しさを感じながら、慎治は、見たものすべてを一瞬でも見逃すまいと、島の緑、海面の泡立つ波、立ち働く船員、潮の香、エンジンの僅かな振動、それらを全身で受け止めていた。



 乗客すべての乗船が終わると、ほどなくして、舌のように突き出されていた乗降板は、跳ね橋のようにゆっくりと上昇し、徐行と記された路面標示を間近に見せながら格納されていく。

 その様子をカメラに納めようと、デッキで恋人同士と思しきカップルが、仲睦まじくスマホを片手で掲げ、自撮りに興じている。


 大きな振動音が鳴り響き、船体と鉄板が合体すると、慎治の心の中で何かが弾けた。



 そうだ!


 慎治に、ある種の確信が湧いた。


 なぜ今まで気づかなかったのだろう?


 與座家の日送りの儀。あれは、太陽信仰などではなかった。 

 実は象瀬そのものが信仰対象だったのだ!

 象瀬付近で座礁した蒙古船、その場こそを聖地として崇めてきたのだ!


 與座家こそがその蒙古兵の子孫であり、そして、大和四郎左衛門が書き残した、能古島にて人別帖にない海人の子孫が見つかった、という謎の一族そのものだったのだ!


 かちんと何かが心の核に触れた気がした慎治には、謎が解けた愉悦とは真逆の、激しい怒りが渦巻いた。


 大和四郎左衛門は蒙古兵をかくまった。

 それがゆえに子孫たる與座家は生き延びることが出来た。


 その大和家の子孫たる慎治は、今、蒙古兵の子孫である真矢と恋に落ち、そして蒙古兵と同じ故郷を持つネルグイと真矢を引き合わせるに至った。


 真矢の祖母・伊乃は、慎治と真矢が宿世の縁で繋がっている、と語った。

 では、僕は運命の当て馬だったのか?

 ただ、この一年を彼女と過ごし、ネルグイに引き合わせるためだけに僕らは出会ったというのか?


 既に未来が決まっているのであれば、その道を辿るのにいったい何の意味があるのだろう?

 そのうえ、これまで自分が全精力を傾けて調査してきた家の歴史がいったい僕に何をもたらしてくれたと云うのだ? 

 真矢のことと言い、むしろ奪うだけではないか。

 大和家が長らく信じ、守ってきた九州王朝説は、この国で忘れ去られ、踏みにじられ、隠蔽されてきた。

 大和家が命懸けで受け継いできたもの。そのすべてが無価値とされてしまったのだ。


 もう何も考えたくない。

 慎治にはこの世のすべてが馬鹿らしく感じられた。


 彼は、手に提げたトートバックから料紙の束を取り出し、乱暴に握り締めると、低く呻きながら右腕を振りかざし、あらん限りの力を込めて中空へと向かって投げつけた。


 料紙は空に舞い、点綴の糸がほどけたページの数十枚が踊るように宙に広がった。慎治と瀬古がいる左舷側の家族連れの中の幼児はそれを見つけ、驚いて家族にあれを、と指さした。

 瀬古は、豹変した慎治の態度に戸惑ったものの、すぐに落ち着いた様子で彼の一挙手一投足を、黙したままデッキのハンドレールに身を預けて見つめていた。


 海面では、逆巻く波の渦に料紙の一枚一枚が吸い込まれ、あっという間にフェリーが残す白く泡立つ航跡とともに海底へと消えていく。


 舷側を叩く純白の波しぶきが風に乗り、その飛沫がミストのように磯の香りとともに慎治と瀬古の頬を濡らした。


 降船の準備を促す船内放送は、まるで異世界から帰還した旅行者たちの目を覚ますかのように、フェリーの中を朗々と響き渡った。



(完)


←前へホーム