←前へホーム次へ→




残の海人(のこのかいじん)5章

仮結納

 その後、大和家の歴史調査は停滞した。

 大学の一年遅れの卒業式、家業を継ぐための研修先への挨拶と実地研修の開始、業界主催の講習会への参加など、彼にとってのライフイベントが重なったことが原因だったが、やはり最も大きな影響は真矢との交際であった。

 毛利から何度も催促の電話があったにも関わらず、日程が合わず断り続けたことに呆れたのか、しばらく彼からの連絡は途絶えた。慎治も気が咎めたが、交際したての毎日はすべてが新鮮で、大事な休日を歴史調査に回したいという気持ちにはどうしてもなれなかった。


 清々しい五月晴れに恵まれた祭日、慎治は真矢の自宅を訪ねることになった。


 真矢が待ち合わせ場所として指定したショッピングモールは、彼女の職場の住宅展示場から歩いて一分ぐらいのところである。

 巨大なコロシアム型の施設の外周に巡らされた階段を登ると、庇の下の屋外スペースには、オリエンタル調の動物のオブジェを縫うように、いくつものテラス席が置かれている。

 慎治は二人分のクロワッサンとカフェラテを買い、全面ガラス張りの壁沿いの席に陣取って真矢を待った。

 初夏の新緑を吹き抜ける薫風を受けて、施設前庭のポールに掲げられたつがいの鯉のぼりが活き活きと空を泳いでいる。今日は島に渡るには絶好の日和だ。


「おまたせ~」

 真矢は生成りのコットンシャツの上にパステルカラーのカーディガンを羽織り、デニムを合わせただけのラフな格好だったが、襟元からのぞく白い首筋に慎治は思わず見惚れた。彼女はアプローチの階段をパンプスで軽やかに駆け上がると、はにかみながら手を前に合わせて慎治の前に立った。


「待った?」

「いや、全然。僕も来たばっかり。来ると思って先に頼んどいたよ」

「わ~、助かる~」

 真矢がソバージュの髪を手櫛でかき上げてガーデンチェアーに座ると、甘いフローラルブーケの香りが慎治の鼻を掠めた。

「実はね、さっきまで天神で村田と話してたんだよ」

「えっ、そうなの?」

「しばらく会ってなかったのでこれまでの経緯を聞きたいって」

「え~、いゃだぁ。言わないでぇ」

 眉間に皺を寄せて真矢は口を尖らせた。

「いやいや、深い話しはしてないよ。たださ、村田も付き合うきっかけを作ってくれたんで、全部隠すわけにもいかないしね」

「うちの父さんと村田先生、極端に仲いいから、まだ、あんまり知られたくないの…分かるでしょ?」

 真矢は慎治を軽くにらみ、たしなめた。

 慎治はバツが悪そうに首筋をさすった。

「うん、僕も、その点は分かってるつもりだから…。ところで…、はい、これ」

 慎治はリュックの中からポケットフォルダーを数冊取り出し、テーブルの上に置いた。

「新しいカメラにフィルター付けて撮ったんで…なかなか良い出来だと思うよ」


 フォトアルバムの中には真矢を被写体にしたモデル撮影会さながらの写真が何枚も収められていた。彼女からさんざん渋られながら慎治が前回のデートの際に撮ったものだ。


「きゃ~、恥ずかしいっ。見ないで!」

 両手のひらで真矢は写真帳を必死に隠してみせた。

「なんでぇ? せっかく撮ったのに…」

 慎治は真矢の反応に構わずに、フォルダーをめくった。

「ほらほら、これなんかさ、ソフトフォーカスで撮ったから、幻想的に撮れてるでしょ? まるで童話の世界みたいに…」

 そこには、海のようにネモフィラが咲く花畑の中、リーフ柄のワンピースを着た真矢が麦わら帽を手に微笑んでいた。


「写真は嫌いなのっ!…」

 すねたように真矢はぷい、と右を向いた。が、すぐに機嫌を取り戻し、はにかみながら一枚一枚フォルダーをめくり始めた。

「でも…この時のネモフィラって、ほんと綺麗だったよねぇ…英語ではベイビーブルーアイズっていって、ぴったりの名前でしょ? 私、小さいころは花屋さんになりたいくらいに好きだったんだ。だから結構、花に関しては詳しいんだよ」

「だったら、能古島の自然公園とか、今度行ってみようか? たしか、ツツジとか今、シーズンなんじゃない?」

「うん。ツツジだけじゃないよ。ポピーも、かな? けど、あそこはどこで誰が見てるか分からないでしょう? 與座さんとこの娘が彼氏連れて来た、なんて噂されたら、それこそ、鬼門よ、鬼門!」

 そりゃそうだ、と二人は声をたてて笑った。


「でも、こうしてみると、不思議」

 真矢は頬杖をつくと、ふいに物思いに耽るような瞳でまじまじと慎治を見つめた。

「慎ちゃんと付き合うようになってからさぁ。前の自分って、いったい何して過ごしてたんだろう、って最近思うんだよね」

 見つめられた慎治はどぎまぎしてどう反応していいか分からず、照れて下を向いた。

 彼が俯いていると、これまでざわめいていたテラスに、突然、軽やかなアコーディオンの調べが鳴り響いた。


 今日は大道芸人がモールの各所で芸を披露してるんだって…

 隣で噂する声が聞こえた。

 テラスの奥に目を凝らすと、金髪にシルクハットをかぶり、フリルのドレスを着た女性が、アコーディオンを抱え、家族連れに親しげに声をかけている。

 鍵盤の上を吸い付くように細い指が行き来し、もう一方の手で蛇腹を器用に操りながら、彼女は、どこかノスタルジックで旅情を誘う音色を奏でていた。

 席から席へと移り歩くたびに次々と歓声があがり、小さな子供たちは喜んで彼女の後を追っていく。


 真矢が気が付き、声をあげた。

「あぁ、あの曲、知ってる」

「そうそう、パリの街角で流れてそうな…なんて曲だっけ?」

 慎治は自信なさげだった。


 芸人は各テーブルに愛嬌を振りまきながら、だんだんと慎治たちの席に近づき、曲の終盤には、ついに二人の前に立ち、貴族のように片膝を曲げて会釈した。


「さあさ、皆様、今日一番のカップルを発見いたしました! このお二人に捧げるその曲は、伝説的なシャンソン歌手、エディト・ピアフの愛の讃歌!」

 曲の口上を述べ終えると、彼女は情感たっぷりに蛇腹を大袈裟にうねらせた。


 突然の展開に当初二人は驚いて顔を見合わせたが、やがて観念したのか、ぎこちない笑みでそれを見守った。


 演奏がクライマックスを迎え、近くにいた年配客の一団がアコーディオンの音色に合わせて歌を口ずさみ始めると、その声は徐々に大きくなり、ついには合唱となった。

 慎治と真矢は苦笑いする他なかったが、なぜか悪い気はしなかった。


 予期せぬ盛り上がりに気をよくしたのか、彼女は、今度は突如曲調をガラリと変え、色気のある情熱溢れるタンゴを、髪を振り乱して弾き始めた。

 眉をひょうきんに上下に動かし、芸人はどうやら二人に踊れ、と促しているようだ。

「え~、嘘でしょう?」

「あぁ、無理無理、僕、ダンスなんかしたことないから」


 必死に抵抗するも、どこからか手拍子が自然と沸き起こり、とても断れそうにない雰囲気だ。

 仕方ない、とばかりに二人は手を取り合ってぎこちなく踊り出したが、互いにぎくしゃくした動きを繰り返すだけで、とてもタイミングが合わない。

 数秒もするとすぐに慎治が音を上げた


「あ~、やっぱりダメダメ!」

 組んだ腕を自らほどき、顔を真っ赤にして彼が一人席に戻ると、手を振り、周囲にギブアップを告げている。

 それを見た真矢は、しょうがない人ね、と言わんばかりに腰に手を当てて頬を膨らした。


 諦めて真矢もすぐに座るだろう。

 そう高を括っていた慎治にとって、それからの彼女の行動は全く予想できないものだった。


 呆れて天を仰いだ真矢だったが、すうっと鼻で息を吸い込むと、次の瞬間、いきなり意を決したかのようにきりりと背筋を伸ばし、大げさな身振りでフラメンコダンサーのように天と地を指さして身構えた。

 何が始まるのかと凝視する人々をよそに、半身で振り返り、挑みかかるような目で前を見据え、誘うように客に向かって手招きをし始めた。


 予期せぬ展開に慎治はただ唖然として真矢を見つめるしかなかった。

 彼女がステップを踏み旋回するたびに、波立つ髪は荒々しく唇や肩にまとわりついては離れていく。

 奔馬のように真矢の身体が跳ねるたびに、ふっくらとした豊満な胸はシャツの中でいかにも窮屈そうで、タンゴの弾むリズムとともに大胆に揺れた。

 演奏はクライマックスを迎え、真矢が歌舞伎役者のように足を踏み込み、たん、と勇ましく見栄を切ると、そばにいた客たちは一斉に感嘆の声と拍手が巻き起こった。


 真矢は左右に頭をぺこりと下げて照れ笑いを浮かべると、頬を上気させて椅子に着いた。

 その額には玉の汗が浮かび、ブラウスからのぞく胸元は薄っすらと汗ばみ、午後の陽光を浴びて白く光っている。

 大道芸人は真矢に向かって両手を広げ、膝を付いてうやうやしくお辞儀をした。もう一度お二人に拍手を、と促すと、辺りは温かい拍手に包まれた。



「すごいじゃん! どこで習ったの?」

 圧倒されたままだった慎治が、声を上ずらせながらも尋ねた。

「これね、たまたまユーチューブ動画で気に入って、会社の忘年会の余興で四、五人の女の子で踊ることになったのよ。そしたら意外にも支店長はじめ社員に大受け! すぐ辞めるつもりだったんだけど、なんだかハマっちゃって…こんなのが人生役に立つこともあるんだね」

 うふふ、と笑って真矢は目くばせした。

「いやぁ、役に立つってレベルじゃないよ。見てて、感動しちゃった」

 慎治はいまだ呆気にとられていた。

「このことはね、村田君たちに知られたくないから、シィ~っ、よ」

 真矢は尖らせた唇に人差し指を当て、片目をつぶった。



 午後三時の定期便で島に渡り、真矢に連れられて與座家を訪問した慎治だったが、その日、與座氏や大貴は不在で、礼子も、しばらくは部屋にお菓子とお茶を差し入れたり、と甲斐甲斐しく世話をやいていたが、やがて、自然公園でポピーを見たい友人たちが急遽来島するから、といそいそと車に乗って出かけていった。


 期せずして二人きりとなった慎治と真矢は、彼女の部屋で昔のアルバムや、真矢の祖父が自費出版した手記などを見ながらゆったりとした時間を過ごした。


  島の東側は西日が島に遮られ、陽の落ちるのもあっという間だ。

 中庭のパーゴラに垂れ下がる藤の花は甘い香りを放ちながら、湾の照り返しで、その白紫色の花弁を見事な朱に染めていた。


「あ~、お母さん、神ぃ~!」

 二人が部屋からダイニングに出てくると、テーブルの上の書き置きを真矢が発見して喜びの声をあげた。もし帰るのが夕食時ならば、慎治さんの分も作ったから良かったら食べて、とのことであった。


「なんか、お母さんに気を使わせて悪いね。いいの? 本当に?」

 厚かましいのでは、と慎治は案じた。

「全然気にしなくていいって。むしろ喜んでるんじゃない? この前も、優しそうな人ねって、慎ちゃん好印象みたいだったし」


 食事を終えて時計を見ると、そろそろ、定期便が心配になる時刻である。が、何を思ったのか、突然、見せたいものがあるの、と真矢が言い出した。

 深く説明しない彼女を慎治は不思議に思ったが、なにかサプライズでも考えているのか、と、敢えてそれ以上は聞かないことにした。



 二人が家を出て海岸線沿いに北上し、暮れなずむ湾の夕景を見ながらタブノキや竹に覆われた緩やかな上り坂を十分ほど歩くと、能古島キャンプ村と書かれた手書きの木製の道標に行き当たった。

 道路からはるか崖下を見下ろすと、ゆうに十米はあろうかと思われる椰子の木が列を為し、砂浜に沿って立ち並んでいる。

 対岸には夕闇の中、志賀島が黒々と浮かび上がり、すでに幾つもの団らんの明かりが海岸線沿いに瞬いている。

 椰子を縫うように立ち並んだバンガローは怖いほど真っ暗で、敷地内に人の気配はまるでなかった。


 真矢の話によれば、ここは島内唯一のキャンプ場で、もとは島の北端にあったものをここに移転させたものだという。ひっきりなしに客船や貨物船が行き交う対岸の博多港とは真逆の、透明の海と白砂の浜辺に慎治は驚いた。


 刻々と夜の闇が迫る景色に目を奪われながら歩く慎治を尻目に、真矢はキャンプ場とは反対方向の浜辺に見えるコンクリートの桟橋の方へと歩を進めた。


「桟橋の向こう側、岩場だよね? 暗いのに大丈夫なの?」

 どこに連れて行かれるのだろう、と言いたげに慎治は尋ねた。

「平気平気。小さいときから通ってる道だから」

 古タイヤが結び付けられた桟橋と浜をつなぐセメントの山に真矢は突然、軽々と飛び移り、にこりと笑って振り向いた。


「こっちこっち」

 その先をみると、海沿いの岩場に迫るこんもりとした雑木林を背に、白の屋根瓦に壁をタコイーズブルーに塗った平屋建ての一軒家が建っていた。

 東側の窓際からはウッドデッキが海へと長々と伸び、その露わになった柱脚は未だ黒く濡れていた。折からの引き潮で拡がった白砂を、静かに打ち寄せるさざ波が次々と湿らせては引いていく。


「じゃ~ん」

 真矢は家の前で大きく手を広げ、どうだ、と言わんばかりの顔である。


「どうしたの、この家」

 慎治は面食らった。

「実はね、ここはうちの夏の別荘なんだ。海に飛び込めるところに家がほしいって、おじいちゃんが漁師さんから譲ってもらったのよ。壁の色を決めたのは私! どぉ?可愛いでしょ?」

 慎治は縁側に登ると、アルミサッシの窓から中を覗いた。

 室内は畳敷きの、磯の香漂う海の家、といった雰囲気だ。ただ、テラスだけは今風で、あたかも海に向かう飛び込み台のようだ。

 デッキの上には忘れ去られたようにニスが剥げたビーチチェアが二脚、海に向かって足を並べている。


「なるほどねぇ。この家が見せたかったんだ」

 頷きながら慎治は独り言のようにつぶやいた。

「う~ん」

 真矢は首を傾げた。

「そうでもあるけど、そうでもない」

 意味ありげに彼女は微笑んだ。

「えぇっ。まだなにかあるの?」

「それはお楽しみ。まず中に入ろっ」


 鍵を開けて別荘の室内に入ると、湿り気を幾分感じたものの、畳替えしたばかりなのか、い草の芳香が鼻をくすぐった。天井には和風照明が青白く灯り、中央の丸い座卓以外はがらんとして、部屋の隅に茶びつと電気ポットがさびしく置かれている。



 そこで小一時間も過ごしただろうか。

 慎治と真矢は、畳に寝転がり大の字になってゴロゴロと戯れたり、スマホの画像加工のソフトなどで互いを写し合ってはきゃっきゃっと声をたてて笑っていたが、ふと真矢は我に返ったように起き上がり、腕時計で時間を確認した。


「もうそろそろいいかな?」

 おもむろに立ち上がった真矢は海側のレース・カーテンを勢い良く引き、錠を回して窓をガラガラと開け放つと、お澄まし顔で案内嬢のように外を指し示した。

「ではご披露いたしましょう」


 窓を開けると、室内には潮風がゆっくりと流れ込み、慎治は撫でるような心地よい風を顔に感じた。

 座ったままの慎治に、真矢はおいでおいで、と手招きしながら、サッシを跨いで先にテラスに出た。


 見上げると、天頂には白い月がまばゆい光を放ちながら、まるで昼間のように夜空を煌々と照らしている。

 鏡のように静かな海面には月光の柱が真っ直ぐに伸び、波打ち際の二人がいるテラスまで続いていた。遠く対岸には福岡ドームや高層ビルの明かりが無数の宝石のように瞬きながら、南の空をぼんやりと染めている。


「これが月の道。私の一番好きな風景」

 真矢の横顔は月の光に照らされ、どこか誇らしげで、透明で、崇高だった。

 繰り返し寄せては引いていく波の音に耳を傾けながら、慎治はただ目の前の景色に見惚れた。ここからの夜景は、まるで過去の世界から未来を眺めているかのようだ。


「ちょっと砂浜を歩いてみない?」

 真矢が慎治を誘った。

 ウッドデッキから下りて砂浜に降り立つと、二人は浜辺の砂に靴を沈めながらゆっくりと並んで歩き始めた。


「私ね」

 伏し目勝ちに足元を気にかけながら真矢はポツリと言った。

「今のままで本当にいいのかしら、このまま仕事して、結婚して、家庭をもって、それで本当にいいのかしら、ってずっと思ってた。仕事はやりがいはあるの。でもね、自分の先行きが分かっちゃうんだ…。ここでどんなに頑張っても、私は今、私に指示を出しているあの人たちの立場にはなれないって」

 真矢は夜空を見上げて深呼吸した。

「家にしてもそう。だって、私の家は長男である弟が継ぐんだから。仕方ないよね。けど、私、何を目的に生きればいいのか、分からなくなっちゃって。

 そんな時に慎ちゃんが現れた。

 なぜか、懐かしい感じがした。

 そして、私の人生に大きな変化をもらたしてくれるんじゃないか、って思った。

 口ではうまく表現できないんだけど」


 真矢は口を尖らせて照れたような仕草を見せた。

「あの日、おばぁちゃんに会いにいった時のこと、覚えてるでしょ?」

「うん。衝撃的だったよ」

 慎治は頷いた。

「実は、あのあと、おばぁちゃんに二人のこと、聞いてみたんだ」

「えぇっ。どんなこと言われたの?」

「最初はつれなく断られたんだけど、ようやく教えてくれて、何百年も前から私と慎ちゃんは縁があったんだって」

「どんな縁?」

「気になるよね。それって前世は夫婦だったってこと?兄妹だったの?ってしつこく聞いたんだけど、それは二人がこれから経験の中で明らかにしていくこと、だなんて言われちゃってさ」


 月に照らされた海面は、ダイヤの屑を散りばめたように銀色に輝いている。

 潮騒の音が心地よく二人を包み、うち寄せる波は慎治と真矢の行く手を知っているかのように次々と白砂を黒く湿らせていく。


「あっ」

 突然、驚いたような声を真矢が挙げ、しゃがんで何かを手に取った。

「ヒレ貝だぁ!」

 真矢が取り上げた手のひらの中には、山伏が吹く法螺貝を小さくしたような、先端が尖った巻き貝が入っていた。

「へぇ、そんな貝も取れるんだ。女性のブローチにでもなりそうだね」

 真矢はその通り、とばかりに瞳を輝かせた。

「そうなの。私が小さい頃はよく浜辺に遊びに来て貝集めしたもの…懐かしいな~。ピンクのヒオウギ貝とか、イタヤ貝とかホント、宝物だったから。アサリ貝でちりめん細工の根付をつくって小学校の先生にもあげたりして…」

 慎治にとっては初めて知る貝の名前ばかりで、まるで外国語を聞くかのようだった。


 まだ見つかるかもしれないね、そう言いながら二人は砂に埋れた貝を探し始めた。

 これは合格、これは外れ、などと無邪気に笑いながらひとしきり貝を集めていると、三、四個ほどつやつやとして傷のない美しい貝殻がすぐに見つかった。


 キャンプ場のプライベートビーチの中程にたどり着くと、そこには綱ブランゴが結わえ付けられた二本の椰子の木が、海へ向かってお辞儀をするように斜めにそそり立っている。

 二人はどちらともなくその木のそばに座り、見つけた貝殻をお互いの間の砂の上に綺麗に並べた。


 頬をなでる潮風に真矢は目を細め、向こう岸の瞬くネオンの群れを愛おしげに見つめている。

 月光は真矢の身体を青白く染め、ソバージュの黒髪が掛かった白い襟元からは豊かな胸の膨らみがのぞき、彼女が息をするたびに上下した。

 慎治は真矢の横顔に見惚れた。真矢はその視線に気づいたのか、ゆっくりと慎治の方に向き直り、真っ直ぐに彼の目を見つめ返した。


 慎治は何か声をかけねば、と思ったが、気の利いた言葉の一つも思い浮かばなかった。

 潤んだ瞳を二、三度瞬かせながら真矢は唇を湿らせ、しっとりと呟いた。

「何?」

  慎治は胸の鼓動を自分で感じながら言葉を絞り出した。


「君の目の中に、僕が、見える」

「じゃあ、見えなくしてみて」


 誰一人いない砂浜に、二つだった影は一つになった。


 月光から伸びる白い光の帯はゆらゆらと海面をたゆたい、湾を貫いて浜辺の二人を冴え冴えと照らし出している。


 完璧なまでに静まり返った世界の中で、青い光を帯びた二人の重なった姿は、しばらく離れることがなかった。






 長かった梅雨も明け、六月下旬にようやく天候が安定すると、コリンはネルグイに現地調査の再開を打診した。


 アジア圏でいくつものプロジェクトを掛け持ちし、また、各方面で水中考古学的見地からの意見を求められるコリンにとって、能古島は多くの案件の中の一つにすぎない。

 そのことを良く理解しているネルグイは、彼からの久しぶりの連絡を、ただ単純に喜んだ。


 島の周辺海域の調査については地元民の船に頼るのが一番、と、真矢を通じて紹介のあった海上タクシーをさっそくネルグイはチャーターした。

 午後からの気温の上昇を見越してか、今日は彼はTシャツにハーフパンツという軽装だ。が、それゆえに余計に胸板の厚さと白い袖から覗く筋肉質の二の腕がはた目にも目立った。


 その日の海上は、折からの南風で波頭がわずかに白く騒いでいたが、防波堤に守られた湾内にはさほど影響もなく、フェリーの船着き場の側にある船溜まりには、係留された小型ヨットや漁船が十艘ほど波にゆらゆらと揺蕩っていた。

 人影のない中、ただ一隻だけ、甲板で数着のライフジャケットを抱えて船尾へと移動する中年の男性の姿が見え、ネルグイは当たりをつけて、彼に大きな声を掛けた。


「ネルグイです! 與座さんから紹介を受けた者なんですが…」

 短髪の男性は振り返り、目を細めてネルグイを見返した。

「ああ、真矢ちゃんから聞いてるよ! 遠慮なく乗って。一人?」

「いや、もうひとり乗ります」

「了解」

 ネルグイはデッキに無造作に並べられた一枚の座布団を整えてその上に胡座をかくと、手で太陽の光を遮りながら眩しげに空を見上げた。

 蒼く澄み、晴れ渡った空にはひとつだけぽつりと楕円の形をした綿雲が漂い、海面にその影を落としている。

 しばらくネルグイが船からの景色をあてもなく眺めていると、遠くに見える渡船場の前から、コリンが何かを抱えてこちらに手を振っているのが見えた。

 ようやく近づいてきたコリンはいつものようにサングラスを掛け、アロハシャツに短パンという出で立ちだ。相変わらずリゾート仕様で、とても仕事で来島しているようには見えない。


「おはよう。絶好の日和になったよなぁ。上がってもいいのかい?」

 接岸している船首のデッキに立ち、ネルグイは答えた。

「手を貸しましょうか?」

「馬鹿言え」

 苦笑しながらデッキに巡らされた鉄のパイプを掴み、コリンが重い体重をかけると、船体はゆらりと左に傾いだ。


 船に乗り移るや、コリンはレジ袋に入った何かを太い腕で突き出した。

「ほら、独り身だから朝もろくに食べてないんだろ? 例の能古バーガー、持ち帰りでいくつか買ってきたから、腹ごしらえでもしたらどうだ?」

 ぶっきらぼうに見えながら割と気を使うタイプなのだな、とネルグイは微笑しながら、包装紙に入ったハンバーガーを遠慮なく受け取った。

「オハヨウゴザイマス、ゴハンドウデスカ?」

 コリンは操舵室にいる船長に気さくに声をかけたが、彼は笑って首を振った。

「これで全員?」

 船長がネルグイに尋ねた。

「はい。お待たせしました。ところで、今日の行程は?」

「あぁ、真矢ちゃんからだいたいの話しは聞いてるよ。島の周辺の環境調査なんだろ? 島の西側、東側、あるいは北の玄界灘方向。リクエストに応じてどこにでも船を回すつもりだ。気になるところがあったら、その都度声をかけてくれればいいよ。俺たちは、魚の種類に応じた漁場や水深についてはある程度頭に叩き込んでいるつもりなんでね」

「承知しました。頼りにしています」


 ネルグイは眩しげに手をかざしてコリンの方を向いた。

「海洋調査については私は素人なんですが、海図はお持ちなんですよね?」

「事前に調査済だ。だいたい頭に入ってるよ。こう見えても記憶力だけは抜群でね」

「詳しいものではないですが、私もネットからダウンロードしてきました」

「そうか。ちょっと見せてもらっていいか?」

 リュックからネルグイが取り出した数枚のコピー用紙を片手で受け取ると、コリンはそれに顔がつくほど近づけ、食い入るように見つめた。


「うん。この前から言ってるように、やはり調査のポイントは浚せつが繰り返された博多湾側ではなく、島の西側、つまり今津湾側になる。これは元寇の際の糸島半島沿いにこの海峡を通った元軍の進撃ルートとも合致している。

 特に気になるのが、水深の浅い島の沿岸ではなくて、本島のそばにあるこの離れ小島あたりだ。小島の西側はストン、と落ちたように水深が深くなっているのがわかるよな? ところで、この小島の名称はあるのか?」

 コリンはネルグイに尋ねた。


「船長さん、ここの海図のところなんですけど、わかります?」

 船長はデッキで作業していた手を休めて二人に近づき海図をしげしげと眺めた。

「ああ、これ? これは象瀬だよ」

「象瀬?」

「うん。さよ島とも呼ぶけどね。象の背中のようだという人もいれば、髑髏の横顔のように見えるっていう人もいる。悲しい物語の舞台さ」

「悲しい物語?」

 ネルグイは怪訝そうにおうむ返しした。

「聞きたいかい?」

「もちろん」

 ネルグイが頷くと、船長は船の進む玄界灘の方向へとゆっくりと顔を向けた。

「この島に暮らす者、誰もが知った話だったんだが、今じゃあねえ…」


 船長は目を細め、北に拡がる遠い空を見つめた。

「昔、具体的な年代は分からんが…難破した船からこの島に流れ着いた青年がいて、その男に村の庄屋の娘、おさよが恋をした。

 だが、この村ではよそ者との結婚はご法度だ。夫婦になれるはずもなく、村からは追放され、博多でつつましくも幸せに暮らすことになった。

 ところが、だ…悪いことに、おさよが眼病をわずらい、看病の甲斐もなく、とうとう失明しちまった。

 そんなおさよは、夫を愛するあまり、足手まといにはなりたくない、と島に戻りたかったが、既に親からも勘当された身。そこで男に頼み込み、島からわずか二百米のこの象瀬に行きたいと申し出た…

 男は彼女を小舟に乗せ、無事に着いたものの、いざ帰る段になって、私はここから離れない、と言い出した。

 驚いた男は、何度も懇願するのだが、おさよは頑として聞き入れない。

 しまいには男も、彼女の堅い決心を悟り、泣く泣く妻を置いてその場を後にした、ということだ。

 ほどなくして、この象瀬からは波の音に紛れ、人が嘆き悲しんで吠えるような声が聞こえるようになった、ってわけさ。


 阿波の鳴門か お関の瀬戸か 能古のさよ島おそろしや、ってね」

 寂しげな目で船長は前を見据えた。


「なるほど…地元の伝説が残された場所には、きっと何かある。これは俺の経験則なんだ。今日はまずそこに行ってみてくれ」

 ネルグイから船長の言葉を聞いたコリンは即断した。

 

「船長さん、真矢さんからは、先に行っておいて、とだけ言われたんですが、どうしたら良いですか?」

 出発に当たり、ネルグイは真矢の言伝てが気になった。

「ふ~ん。言ってたのはそれだけかい?」

「はい。それ以上は何も」

「じゃあ、無視しててもいいよ。どうにかして来るだろ。あいつのことだから」


  ぶっきら棒な船長の返事にネルグイは首を傾げたが、携帯もあることだし何とかなるだろう、とそれ以上は深く尋ねなかった。


「この小島の左の等深線は十一から十四メートル。右側は一から五メートル。一目瞭然だな。元軍の上陸用舟艇はもちろん、かなりの大型船でも左には接近することが可能だ」

 コリンは独り言にしては大きすぎるほどの声をあげた。


 船が能古港の波止を抜けて出航し、西回りに旋回すると、ものの一、二分も経つと島の人家は疎らとなり、周回道路は行き止まりとなる。

 船長は、西岸が島一番の景色なのに誰も目を向けん、と操舵室からしきりにぼやいていたが、確かに沿岸沿いに進むにつれ、ところどころ手つかずの砂浜と磯はあるが、満潮となれば大半は水没するため、ここに人が訪れることはまずないとのことだった。

 途中、帝国海軍が砕石のために作ったというコンクリートの桟橋が忘れ去られたように朽ち果てている。

 ネルグイとコリンが物珍しげに船上から見物していると、ここに来るのは廃墟マニアくらいだ、と船長は笑った。


 船が島の半ばまで達すると、船長は大声をあげ、風防ガラス越しに真正面を指さした。

「あれだよ、あれ!」

 それは、最初の頃は豆粒ほどに見えたが、船が急速に近づいていくにつれ、やがて漁船の船体をしのぐほどの岩礁が目前に迫り、見る者を圧倒した。

「かなり大きいな。どれくらいの尺なんだ?」

 コリンからの質問をネルグイがそのまま船長に投げかけると、客によく聞かれるのだろう、彼はすらすらと淀みなく答えた。


 高さ十七米、周囲百米。島の西岸からはわずか二百米。その姿はまさに巨象が背中を丸めてうずくまったようであり、乾ききった象の表皮のような灰色のひび割れた玄武岩が表面を覆っている。

 島の頂は渡り鳥がもたらした草や苔が繁茂し、まるで緑の冠を被ったようで、ごつごつとした無機質な姿に生命の息吹を感じさせた。

 島の東側は浸食で大きく口のようにえぐれ、そこには誰が置いたのか、小さな観音菩薩像がぽつねんと座っていた。

 像の前には平らかな玄武岩の大地が広々と露出し、波に洗われて鏡のように晴れた空を映し出している。


「どうだ、奇岩だろ? この右のえぐれた部分が、髑髏が叫んでいる顔に見えるってやつだ」

 船長は自慢気に語った。

 コリンは感心しきりで声を挙げた。

「事前に能古島の地質は調べてはいたんだが…玄武岩と花崗岩で組成されてるこの島は…珍しいなぁ。どうだ。上がってみないか?」


 ネルグイは困惑して応えた。

「悪いんですが、水着も何も準備していないんですよ…これ以上は接岸出来ないでしょう? ここからでも、まだ水深は四、五メーターはありそうですし」

「泳げないのか?」


 コリンはニヤリと笑うと、なんの前触れもなく突然デッキの縁に立ち、船を揺らして弾みをつけ、奇声を挙げながら一気に海へと飛び込んだ。


 巨体ゆえに甲板の辺り一面を濡らすほどの水しぶきがあがり、船長は変な外人とでも言いたげに、呆れて海中のコリンを見つめた。

「どうした? 本当に金槌なのか? それとも怖いのか?」

 コリンは海面から頭だけをぽっかりと浮かばせ、ずぶ濡れになった髪を掻き上げ、顔の水滴を手で拭いながらネルグイを呼んだ。

「いや、そんなんじゃないんですが…」

 ためらうネルグイを見て、コリンはしびれを切らし、わざと険しい表情を作って見せた。

「じゃあ、これはお願いじゃなく、上司からの命令だ。今すぐ海に入れ」

 ネルグイは溜息をつき首を振りながらも、ようやく観念したのか、着の身着のままで右舷の縁に乗って膝を溜め一気に飛び上がり、勢い良く飛沫を挙げながら足から海へと着水した。


 コリンは歓声を挙げた。

「そぉら、何か良いことが起こるような予感がしないか?」

 海藻のように顔に張り付いた髪の毛を両手でオールバックにしながらネルグイは苦笑した。


 二人がぷかぷかと浮かびながら数メートルも泳ぐと、すぐに足は岩礁に届き、濡れ鼠のように全身からぽたぽたと海水を滴らせながら象瀬へと上陸した。

 近くから見ると、なるほど、岩脚の部分に大きく口を開けた洞窟があり、この部分に海水が出入りするたびに怒声が発生し、人が吠えるように聞こえているのであろう。

 コリンはよほど地質学に興味があるのか、島の火成岩の割れ目や亀裂を、目を光らせてつぶさに確認し始めた。ネルグイは海食によって出来た牙のように見える穴の奥に安置された観音菩薩の前まで来ると、ふと、モンゴルに残した、仏壇を拝む祖母を思い出した。


 彼自身は篤い仏教徒というわけではない。

 しかし、故郷に帰りたくて帰れなかったおさよの無念も相まって、妙に敬虔な気持ちになっていた。

 岩に気を取られて夢中なコリンをよそに、ネルグイは菩薩像の前に来るとおもむろに座り、目を閉じて手を合わせた。


 船長は潮でわずかに揺れるデッキから二人の行動を眺めていたが、一人退屈したのか、船上から大声で問いかけた。

「今日は貸し切りだからぁ。ある程度仕事が終わったら釣りでもしたらどうだい? ここはアジが釣れるポイントになっていて、タイミングによっては入れ食い状態にもなるんだぜ」

 船長の声かけにも全く耳を貸さずに、象瀬から周囲の海域をぐるりと眺め、しばし黙考していたコリンだったが、やがてネルグイに向き直って言った。


「決めた。ここをポイントにして一度潜ろう」

 ネルグイは喜んだ。

「いよいよですね。野性の勘、ですか?」

「まぁ、そんなところだ」

 その後、コリンとネルグイが今後のスケジュールを確認し合いながら談笑していると、不意にどこからともなく、エンジンの唸る音が聞こえてきた。

 何事かと二人が北の志賀島の方角へと目を転じると、漆黒のボディに赤い精悍なフロントカウルを付けたジェットスキーが、雄叫びのようなエンジン音と水切り音を挙げながら急速に近づいてきているのが見えた。


「あちゃ~、あいつ水上バイクで来やがった」

 長い黒髪を突風でなびかせながら、ウエットスーツを身にまとったサングラス姿の真矢は、ここよと言わんばかりに遠くから大きく手を振っている。

 が、その姿はみるみる距離を詰め、ついに目前で彼女がハンドルを切りながらその挺体を大きく左へと旋回させると、たちまちコリンとネルグイの足元を水しぶきが盛大に濡らした。


「やっほー! どぅお、何か成果あった?」

「やれやれ、勇ましいお嬢さんだな」

 コリンは肩をすくめて笑った。

 ネルグイは空いた口が塞がらなかったが、やがていっぱい食わされた、といった調子で顔半分をしかめて苦笑した。

「まるで映画のヒロインみたいな登場の仕方だね。いったいどうしたの?」

 真矢は濡れてくるくると巻いた髪を白い指で掻き上げながら、どうだ、と言わんばかりに満面の笑みを湛えてネルグイを見つめた。

 髪の滴がとめどなく落ちる鳩胸の丘は誇らしく前に隆起し、濡れて肌に密着したスーツが丸みを帯びた身体の線をくっきりと際立たせている。


 視線を逸らしたネルグイは、一度息を整え、あえて感情を押し殺したような冷静な態度で真矢を見た。

 ネルグイの素振りに何も気づかないまま、真矢はあっけらかんとした調子で続けた。

「実はね、能古島は市内でも一番はやく海開きしたんだけど、海水浴場の社長さんから、客を乗せる水上バイクの乗り手がどうしても足りないから手伝いに来てくれないかって言われちゃったの。私も弟も運転できるし、今日は休みだったからね。今、少し手が空いたんで、ビーチから直接来てみたのよ」

 楽しくてたまらない、といった調子で真矢は答えた。


「ゲンキデスネ?」

「コリンさん、日本語お上手っ!」

 コリンが眉を動かしながらわざとひょうきんな様子で話しかけると、真矢はけたけたと笑って手を叩いた。


「お陰様で調査の方も進展があったよ。けど、まだ過去の遺物が海底から実際に確認されたわけではないから、最初の予備調査は三名くらいで行われることになる」

 ネルグイは真矢にビジネスライクに経過を説明した。

「わぁ、本当に潜ることになったんだね? ワクワクする~! だけどさ、私が心配することじゃないんだけど、潜って何も出て来なかったらどうするの?」

 それはネルグイが当初から心配していることでもあった。

 この際、自分自身の懸念も含めて尋ねてみよう、と彼はコリンに率直にその思いをぶつけた。

「確かにな。まぁ、元寇第一回目、九百艘と言われる船がここ博多湾に集結した。そして、表向きは八幡神に懲らしめられて、一夜にして命からがら彼らは逃亡した、とされている。

 この真偽はともかくとして、戦闘が行われた中で、沈没する船があったとしても全く不自然ではない。

 しかし、仮に何も出なかったとしよう。

 君、海洋調査会社とモンゴルの大手雑誌社が提携関係を結んでいるメリットはどこにあると思う?

 例えば、この前、能古島の西南岸で元軍の戦闘の際の多量の人骨が出た。そのニュースは日本だけでなく、モンゴルの雑誌社を通じて世界に配信された。そしてそれは当然、モンゴル国内でも大きな話題になった。この記事を見たモンゴル人の中には、日本旅行の際にこの島に来て、一本でも花を手向けたい、と考える人々も当然出てくるだろう。

…どうだい、損する人がいるかい? ここまで言えばもう分かるよな?」

 ネルグイはコリンからこの言葉を聞き、これまでの胸のつかえが降りたような、そんな心地がした。


 コリンが話し終えたか終えないかのうちに、ディーゼル船のデッキから船長が彼を大声で呼ばわる声がした。

「お~い、携帯電話! 鳴ってるぞ~!」

  すると、ピロピロと奇妙な着信音が船の方角から聞こえてきた。

「あっ、いけねぇ! あの音は本部からだ! ネルグイ、悪いが、先に船に戻るぞ」

 言うが早いか、コリンは足元の岩場の平らな場所をひょいひょいと伝い歩きし、膝まで海水に浸ると、その大きな体を屈ませて両手をそろえ、頭から一気に飛び込んだ。


 ぷっと吹き出して真矢が言った。

「コリンさんって、面白い人ね」

「ああ、上司が彼で助かってるよ。一見ぶっきらぼうに見えるけど、実は結構気が優しいところもあってね…」

 船尾の昇降ステップにようやくたどり着き、自らの巨体に四苦八苦しながらレールを登るコリンの後ろ姿をみてネルグイは目を細めた。


「でも…」

 真矢は少し眉をひそめた。

「調査が始まって成果が出たら、みんな自分の国に帰っちゃうんでしょう? せっかく仲良くなれたし、いい思い出がたくさんできたのに…」

 ネルグイは真矢が自分たちのことを思い、寂しげな表情を見せてくれたことに心がざわめいた。

 しかし、それを悟られまいと彼は自らの気持ちを押し殺した。

「もし本調査に入るとすると三ヶ月くらいはかかるらしいよ。だから、すぐにお別れ、ってことにはならないと思う」

「でも、予備調査で何も出なかったら?」

 ネルグイは困ったように首を傾げて肩をすくめて見せた。


 潮目は知らぬ間に引き潮から満ち潮へと変わり、露わになっていた岩場もすでに海水に浸り始めている。

 さきほどまでしっかりと玄武岩の大地に立っていた二人だったが、今はそのくるぶしまでが水中に隠れ、波の光が網の目となって足下にゆらゆらと揺蕩っていた。

 真矢は遠くに霞む玄界島を背にして、濡れて思い思いにカールした髪を掻き上げながらネルグイを見つめ、哀しげに微笑んだ。珠のような水滴が毛先を伝って肩に落ち、彼女が身にまとったウェットスーツをまた濡らした。

 ネルグイは一度下を向き、数秒ためらうような素振りを見せたが、やがて自らを励ますようにTシャツの下の胸を力ませ、真矢の瞳を力強く見つめ返した。


「…自分の気持ちはこのまま国に持ち帰ろうと思っていたんだが…」

 射るような眼差しで、声を振り絞るようにネルグイは続けた。


「君のことが、好きなんだ」


 真矢は一瞬、息が詰まったように胸を上下させたが、その後、じっとネルグイの目を咎めるように見据えた。


 寄せる波の音と空以外は何ひとつない。

 ときおりウミネコの群れがはるか上空を、この静寂の世界を楽しむかのようにミャアミャアと鳴きながら翼を広げて悠々と旋回しているのが見えた。

「私が慎ちゃんと付き合ってるのは知ってるよね?」

「それは聞かなくても傍から見て分かるよ。それを知ったうえで言ってる。大和さんは僕も嫌いじゃない。むしろ、同世代だし、素直で良い人だとは思う。だけど…後悔したくないんだ」

 ぷいと目をそらして真矢は言った。 

「気持ちだけはありがたく頂戴させてもらうわ」

 ネルグイは瞳に熱を帯びたまま力を込めた声で付け加えた。

「これだけは知っておいてほしい。僕は、これを伝えたことで今のプロジェクトが台無しになってもいいくらいの覚悟で言ってるってことを」

 ネルグイを置いて歩みかけた真矢は、一瞬振り返ったが、すぐに目をそらして膝から海にゆっくりと入り始めると、やがて首だけを残し、海中でしなやかに細長い手足を動かして泳ぎ出した。


 ようやくジェットスキーにたどり着いた真矢は、全身びしょ濡れになりながらハンドルに取り付き、エンジンを轟かせると、天に反り返っていた挺体は一気に立て直った。

 ネルグイの方を見まいとして大きく左にハンドルを切った彼女は、アクセルを大きく踏み込むと、爆音と水泡と余波を残しながら、一度も振り返ることなく、みるみる小さくなり島の向こう側へと消えていった。


「どうしたんだ? 電話はもう終わったんで、引き上げるぞ!」

 やがてコリンの急かす大声が船の上からネルグイまで届いた。


 ネルグイは強ばった笑みを見せながら、自分の感情を持て余すかのように、首を振って奇声を挙げ、海中にざっぷりと自らの身を預けた。






 大和丈一郎の病状は初夏に入っても好転せず、PSAの検査結果の数値も上昇する一方で、主治医も考えられる治療はやり尽くした、と半ばさじを投げていた。

 大和の母、玉枝は、父の長年の友人でもある別の医師の意見を仰いだところ、最後の頼みの綱として紹介されたのが癌の免疫療法だった。

 博多区のクリニックに家族で訪ね、具体的な治療の内容を聞くと、なんでも、患者自身の血液から免疫細胞を取り出して活性化し、それを再投与することで患者の免疫力を増強させるらしい。

 院長の説明を聞いた大和家の面々は一条の光明を見た思いであったが、そんな中、慎治は闘病中の父の歴史調査への思いをないがしろにして真矢との恋を謳歌していることに人知れず罪悪感を感じていた。

 あたかも慎治のそのような思いを察していたかのように、毛利から連絡があったのは真矢とのデートの最中だった。


「も、もしもし、もしも…」

 着信表示に毛利の名を見た慎治が賑わう新天町商店街の中で慌てて受話ボタンを押すと、毛利のいつもの少し早口だが穏やかな声が聞こえてきた。

「ああ、慎治君かい? 今、いい?」

 真矢は目を大きくして毛利さん?と身振りで示すと、慎治は頷きながら片手で拝み、謝る仕草をして話し始めた。

「もちろんです。最近ろくに連絡もせずに申し訳ありませんでした」

「いやいや、気にしなくていいよ。ただ、お父さんの病気のこと、玉枝さんから聞いたけど、蔵の調査についてもある程度そろそろ結果を出して喜ばせてあげられたらなぁ、と思ってね。ちょっと提案もあるし…」

 慎治は真矢を気にしながら人の流れに合わせ、歩きながら答えた。

「ありがとうございます! で…提案と言いますと?」

「うん…。現状からして、抜け落ちた庄屋日記の核心に係わる新たな情報が出てこない以上、これから漫然と調査を続けるわけにはいかない。

 これまで間接的な情報は出てきたものの、問題の、能古島で人別帖に記載されていない一族が発見されたことや、その後の日記が三年分抜き去られていたことにつながる新事実は残念ながらまだ出てきていない…だから」

「だから?」


「もう一度蔵を訪ねてみたいんだよ」

 なんだそんなことか、と慎治は一気に拍子抜けした。

「あぁ、そんなことならお安い御用ですよ。いつでもご都合の良い日取り、おっしゃって下さい」

「ありがとう。でも、最近忙しいんじゃなかったのかい?」


 調子良く応えたものの、慎治は真矢の顔をちらりと見やった。が、彼女は、私のことはいいのよ、とばかりに、顔の前で手を左右に振った。

「はい、いゃ、大丈夫ですよ。なんとか時間を作りますので」


 慎治は毛利から提示された日時を書き留め、折返し詳細の打ち合わせをすることを約して急ぎ電話を切ると、待たせたことをまず真矢に侘びた。

「ぜーんぜん! でも、毛利さん、って何事も一生懸命よね~。体型もモコモコ、っとしてて可愛いし。私、好きだな~」

 真矢は毛利の姿を目に浮かべたのか、ふふっと思い出し笑いをした。

 慎治も真矢の言に頷いた。

「歴史への造詣の深さといい、幅広い知識といい、正直、頭が上がんないんだよね…それに、うちの父と毛利さんの絆が強いってのもあるんだろうけど…なにしろ全てボランティアだから、ね」

「なかなか出来ることじゃないわよね…でも、さっきの電話、せっかくのお誘いだし、あなたのお父さんとの約束もあるんでしょ? 早めに蔵に行ってあげたら?」

 慎治は真矢が父の病いや大和家のことを気にかけてくれたことが嬉しかった。

「うん。そうだね。そうしてみる」


 商店街は春物と夏物のセールが開催されているせいか、いつもより人流が二倍にも感じられた。売り子の甲高い声が鳴り響く中、二人は人ごみに流されながらも愉快げに言葉を交わした。

 アーケードの天井からは色とりどりの横断幕や懸垂幕がいくつもぶら下がり、はるか奥まで続いている。慎治と真矢はそれらを見上げつつ、店先に盛られた特売品にときたま感嘆の声をあげながら当て所もなく歩き続けた。





 その日は大和家の蔵を毛利が始めて訪れた時のように晴れ渡り、湿気を嫌う蔵の所蔵物にとっても悪影響のない絶好の日和となった。

 ここ最近は家の老朽化が目立つ、として自社物件のアパートに移り住んでいた大和家だったが、自宅隣にある花瀬宝満宮で夏越の大祓式の準備が明日から執り行われるらしく、玉枝も座敷を氏子の待機場所にしよう、と、朝から清掃に余念がなかった。

 また、未來も、慎治がコツコツとナンバリングして分類してきた数千点の所蔵品の一覧表を作成するために、ここ数日は詰めて彼をサポートしていた。彼女としても、入院している丈一郎の容態に改善の兆しがなく、闘病する気力を持たせるために少しでも良い知らせを、という思いが強いのであろう。


 これまで、あまりに調査が夜遅くに及んでしまった反省から、毛利は朝一番に電車とバスを乗り継いで大和家にやって来た。

 彼が大和家の玄関口に到着すると、玉枝は予想外に早い訪問に驚きつつも、すぐに丁重に十畳間へと案内した。


「すみませんねぇ。今日は天気も良いし、空気の入れ替えで窓、開けっ放しにしてたんですよ」

 少々年季の入った畳と褐色の座卓に朝の淡い光が差し込み、月見障子の奥の広縁の先には、水やりを終えたばかりの枝振りの良いモッコクの木が生い茂り、靴べらのような愛らしい葉を輝かせている。

 心地よい朝の微風とともに、ジャスミンに似た芳香が客間に座る毛利の鼻先をかすめた。


「ああ、玉枝さん、いいですよ、このままで。なかなかこんな清々しい朝は珍しい。庭木を見ながら打ち合わせしましょう」

 今日は良い天気ですものね、とにこやかに応対しながら玉枝は台所へお茶入れに向かった。


 しばらく庭の景色に見惚れていた毛利だったが、やがて廊下から言葉を交わす若い男女の声が漏れ聞こえてきたかと思うと、襖がするすると開き、慎治と未來が続けて室内に入ってきた。

「おはようございます、すみません、今日も朝早くから」

 慎治は、しばらく連絡をしてなかったせいか、いささか罰が悪そうに頭を掻いて毛利の前に座った。

「毛利のおじちゃん、久しぶり!」

 ベージュのレーヨンブラウスにスキニージーンズを履いた未來が目を輝かせながら、親しげに毛利に近づいた。

 慎治は、自分よりも年下の未來が毛利のことを鮮明に覚えていることに驚いた。

「お~、未來ちゃん、久しぶりだなぁ。小さいころはよく肩車してあげたもんだけど…こんなに大きくなって」

 目を丸くして眼鏡のつるを左の指でつまみながら毛利は喜色満面、未來を見返した。

「え~? そんなに会ってない? 私、何度も会っているような気がするんだけど。よく父から昔のアルバム、見せてもらってたからかな?」 

 その後毛利は丈一郎の学生時代の様子や、慎治や未來の幼い頃のエピソードを嬉々として語り始めた。が、しばらくしてふと時計を見ると、自らに嫌気がさしたように頭を振りながら、気を取り直して本題に入った。


「さぁ~てと。…ところで、慎治君にお願いしていた例のリスト、出来上がったんだってね?」

 慎治は、頷きながら、先程から手にしていた茶封筒の中から分厚いA四サイズの書類を取り出した。

「これなんですが…妹と手分けして作業してみたんです。大雑把に私がナンバリングしていったものを未來がさらに細かに分類し、それぞれの品物の正式名称や用途なども記入してくれました。特に蔵の二階にある六棹の長持の中の品々については集中的に」

「うん? どれどれ…ははぁ…これは、相当な分量だなぁ」

「そうですね。庄屋文書だけでも二千点。生活用品で千点ほどありました。非常に骨の折れる作業で…庄屋文書の解読については地元の歴史資料館の学芸員の力を借りてますが、民具や生活用品についてはほぼ自力です。まあ、僕らがやる前から父がすでに半分くらいは整理してくれてたんですけどね」

「そう、そう。丈一郎君は事あるごとに、僕にも語ってくれてたもんなぁ…」


 毛利は、受け取ったリストに目を通し始めると、たちまち二人の存在を忘れたかのように熱中し、目録を一枚一枚めくり出した。

 ものの数分も経つと、慎治は音もない重苦しい雰囲気に耐えきれなくなったのか、自ら毛利に質問した。

「…先日のお話しでは、膠着した調査を打開するための再調査だとおっしゃってましたが…」

 毛利は慎治の言にぴくりと反応し、ずらした眼鏡越しに慎治を見た。

「そのとおり。今日の目的は、大和家の秘密に係わる新たなヒント探しなんだよ。ただね、蔵に闇雲に入って一つ一つ品物をチェックしていくことは大海の中を小さなオールで漕ぐようなもんで非常に効率が悪い。リストの中からある程度関連のありそうな文書や品物をリストアップしていくのが時間の節約につながるんだ。だから…目録を見ながら私が番号を書き出し、それを都度持ってきてもらって、確認する。そんな進め方でどうだろう?」

 終わりの見えない調査を少々重荷に感じていた慎治にとって、毛利の提案はまさに助け舟である。

「もちろんです、 是非よろしくお願いします!」

 朗らかに答えると、慎治と未來は顔を見合わせてこくりと頷いた。


 大和家の謎の解明に有益と思える品々のリストアップが始まると、午前中は主に公文書や証文の確認に当てられ、毛利から矢継ぎ早に指示が出された。


「四九二番、穂波郡花瀬村庄屋組頭恐レナガラ御願ヒ申シ上ゲ候フ事。八七〇番、穂波郡花瀬村庄屋甚九郎恐レナガラ御願ヒ申シ上ゲル口上ノ覚へ…」

 次々に読み上げられる書状を慎治と未來は蔵から次々と持ち出し、座敷の左隅の角から丁寧に順番に並べていった。毛利のくずし字の解読はとにかく信じられないように早く、まるで現代文を読み込むような速度だ。

 調査の主眼は千利休や貝原益軒や能古島に係わると思われる記述を洗い出すことにあったが、目新しい発見はなかなか現れなかった。 

 ただ、一通り古文書についての調査が昼食を挟んで一段落すると、午後一番に山水画が描かれた襖の骨組みが一部露出し、下地から文字が覗いていることが判明した。

 一同にわかに色めきたったが、慎重に裏から光源を当てると、いただいた御祝儀の備忘録であったことが分かり、皆の期待はもろくも崩れ去った。

 その後、豊臣秀吉の馬印を思わせる千成瓢箪の木型が発見されたが、千利休と大和家をつなぐ直接的な証拠にはなりそうもなかった。


 午後四時頃になってもさしたる成果も得られない現状に、皆の疲労が濃くなり始めると、毛利は慎治と未來に労いの言葉をかけた。

「いや~。長時間になってしまって悪かったね。二人とも疲れただろう? そろそろ一度締めたいんだけど、二人の記憶の中で、これ以外に気になることや、何か心当たりのあるものはない? どんな情報でもいい。それを聞いて今日はひとまず終わりにしようか」

 二人は互いの記憶の底に有力な手がかりがないか座卓に頬杖をついてしばらく考え込んでいたが、ふと未來が、寄せていた眉を解いた。

「あ、お兄ちゃん、あれあれ! あれがまだあったよ!」

「あれ、って?」

「ほらぁ、開かずの箪笥!」

 はっと気づいたのか、慎治は手を打って声を挙げた。

「ああ、あれ! 忘れてた! 小さい頃、皆で不思議がってた黒箪笥のことだろ?」

 未來はそのとおり、とばかりに微笑んだ。


 毛利は突然色めき立った二人の反応に驚いていたが、慎治はお構いなしに台所にいた玉枝さえも巻き込んで、とにかく現物を見てくれ、と蔵の二階へと急いだ。


 手すりのない蔵の階段を慎重に登り、二階に皆が立つと、ここ数日の好天のせいか、いつもは鼻をつく埃の臭いは鳴りを潜めていた。奥の格子窓からは午後の黄色い陽光が差し込み、左右に整然と並べられた長持を軟らかく照らしている。

 慎治が蔵の窓のそばを指差すと、そこには、衣紋かけや屏風、重箱など、長持に入りきれない大物の家具がまとめられていた。 

 そして、その一角にとりわけ目立つ形で、和箪笥が据えられているのが見えた。


「これです」

 慎治は箪笥の前に立つと毛利にいささか勿体ぶったように手で指し示した。

 そこには人の背の高さで両手を広げたくらいの大きさの黒塗りの時代ものの箪笥が置かれていた。

 最上部が引き戸となった六段構成で大小さまざまな引き出しがついており、四隅や錠前の金具はすべて朱で塗られている。年を経て漆の褪色が見られるものの、それがむしろこの家具の風格を増しているようであった。


「ほう。これは…榎津箪笥だな」

「榎津箪笥?」

 はじめて聞く言葉に慎治は戸惑った。

「大川で明治時代に作られた家具だよ。うちにも小さい頃あったから、良く知ってる。古いほど味が出て来るんだよなぁ」

  ここで玉枝が口を挟んだ。

「よくご存知で。これは多分、曾祖母の嫁入り道具としてうちにやってきたものと聞いていますが…」

 慎治は玉枝の言葉を補足した。

「で、この箪笥には秘密がありまして…一つだけどうしても開かない引き出しがあるんです」


「!」

 毛利は我が意を得たり、とばかりに途端に目を輝かせ、満面の笑みを浮かべた。

「そうか!からくり箪笥、ということだね。どれどれ…」

 慎治が指示した箪笥の最下段の右端には、三段ぶち抜きの観音扉があり、鍵穴に鍵を差し込んで開けると、さらに三段の戸棚が配されていた。

 下の二段は鍵もなく、自由に開け閉めが出来たが、最上段の引き出しだけ、様々な部分に手をかけて開けようと試みるが、どうしても開けることができない。

 刻々と時間が経過するばかりで、箪笥と格闘していた毛利も、ついに音を上げて、その場に座り込んでしまった。

 こりゃ秘密にたどり着く前に扉を閉ざされちゃったな、と毛利は苦笑した。慎治や玉枝も失望の色をありありと顔に浮かべた。


 そんな一連のやりとりを後ろから冷静に観察していた未來だったが、突然、いたずらっぽい笑みを片頬に浮かべたかと思うと、さも自信ありげに腕を組んで語った。

「実はね~…誰にも話してない秘密、私、知ってるよ!」

 皆は未來の言に驚いて、一斉に振り返った。

「いい? まずはここを見て。それぞれの引き出しに鍵穴のついた銅の金具があるでしょ? この家紋がついてるやつ。これ全部の引き出しについてるじゃん」

 未來の言う通り、確かに龍や牡丹などの美しい彫金が施された金具がすべての引き出しに付けられている。その金具の中央にあるのは大和家の家紋である丸に三つ巴紋だ。

「私が五歳のころ、一人で蔵の中に入ってこの箪笥の秘密を暴こうと格闘してたわけ。そんな中で発見したのがこれ。この家紋の部分、良く見てみて? どこかひとつだけ、摩耗して若干色が変わっているのが分からない?」

  三人はしげしげと箪笥の引き出しの一つ一つを見ていたが、慎治が真ん中の二段目にある金具を指さして、これ? と未來に尋ねた。

「そう、そして…ここの家紋の金具を…左にわずかにずらすと…ほら! 耳を澄まして聞いてみて! カタン、って、閂が落ちるような音が聞こえるでしょう?」

  慎治は箪笥に近寄り耳をわずかに当てた。

「確かに!」

 慎治は目を輝かせると、いきなり開かずの引き出しに手をかけるが、締め切られたままで開く気配はない。


「? なんで? 開かないじゃない?」

 不満げに慎治は未來の方を振り返った。

 未來は罰が悪そうに答えた。

「そう。私が解明したのはここまで。誰にも話さなかったんだけどね。結局、開けられなかったから悔しくて…この記憶、封印してたの」

 仕方ないでしょ、と言わんばかりに悪びれることなく未來が肩をすくめると、慎治と玉枝は大きなため息をもらした。

「なぁんだ。開かなかったら意味ないじゃない」

 玉枝が未來を責めた。


 だが、慎治が家紋の金具をずらす様を注意深く見ていた毛利の顔には落胆の色はなかった。

 彼は、何か過去の記憶を頭で手繰り寄せているかのように黙考したままだ。

 皆は毛利の態度に気づくと、次に彼が何を語るのかを固唾を飲んで見守った。


「うん」

 深い思考から醒め、何かを確信したかのように毛利は小さく頷いた。

「僕の小さい頃、同じ様なからくり箪笥が自宅にあったんだよ。その箪笥の開け方。実は祖母がやっていたのを子供心に自分も見てたんだ。たぶん、産地が同じなら同じからくりかもしれない」

 三人は毛利の言に目を見開いた。


「玉枝さん、この箪笥は曾祖母の方の婚礼の際に持ち込まれたものだとおっしゃってましたよね」

 玉枝は少し戸惑いながらも答えた。

「は、はい。おそらく、ですね」

「では、その曾祖母の方のお誕生日、分かりますか?」

「ええ…過去帳を見れば…」

 玉枝は一度仏壇のある居間に戻ると、すぐに過去帳を持参して蔵に戻ってきた。

「曾祖母は…ナヲです。明治五年一月三十一日生まれ…」

「やってみよう…」

 毛利は箪笥の前に立つと一度深呼吸をし、大きく息を吸い込むと、まず箪笥の最上段の左端の引き出しを半分ほど引き出した。

「まず、これで一」

 次に毛利は二段目に手を当て、左端から順に三つの引き出しをいずれも半分ほど引き出した。

「これで三」

 そして、最後に三段目の左端の引き出しを一つ、半分引き出したところで、箪笥の後ろから大きなカタン、という音が蔵の二階に響き渡った。


「開いた」


 毛利が他人事のように呆然とした様子でぽつりと声を漏らすと、一同は大きな歓声をあげた。


「毛利さんっ! 天才!」

 未來は感激して思わず大きな声を挙げた。

 玉枝も信じられない、といった面持ちで口を半ば開けて引き出しを見つめている。

 慎治はごくりと喉を鳴らし、しばらく引き出しを凝視していたが、やがて振り返り、毛利にためらいがちに尋ねた。


「…私が、開けても?」

 力強く毛利は答えた。

「もちろんだともっ、君が次の当主なんだから」

 唇を結んでその言に頷くと、慎治は恐る恐る、一ミリ、また一ミリ、と、あたかもその一瞬を惜しむかように最上段の引き出しを右手でゆっくりと開けた。


 やがて、引き出しの中から現れたのは小ぶりの黒光りする桐箱だった。

 慎治は、その箱を慎重に取り出し、持ち上げて上下左右様々な方向からしげしげと眺めた。ところが、箱の表面に何かが書かれている形跡はない。

 さらに包み紙の上に静かに置いて上蓋を開けると、中には茶色に変色した上質な手漉き和紙で何かの品がくるまれており、そこには毛筆で、「十枚組手書き伊万里染め付け小皿 永代宝物」とだけ記されている。


「割れ物のようだね。慎重に…」

 毛利はごくりと唾を飲み込むと慎治に静かに忠告した。

 結わえられたコヨリ紐をほどいて慎治が包みを開くと、中には表書きの通り、白磁に藍一色で濃淡を表現した、ぽってりとした質感の組小皿が収められていた。


「これが宝物?」

 慎治は玉枝と未來と代わる代わる顔を見合わせた。毛利もいささか拍子抜けしたようである。

「どうやら古伊万里のようだね。伊万里焼といったら極彩色の花鳥風月で有名だけど、これはおそらく初期の頃の作風だ。大和家の古文書で最も古いのは慶長七年…伊万里焼の創始も慶長年間と言われてるから、時代的には合うな…貴重なものであることは間違いないが…」


 慎治は皆の視線を感じつつも、今度は組皿を手に取り、包み紙の上に一つ一つ丁寧に並べた。

 眼鏡を人差し指で押し上げつつ、毛利が皿の一つを手に取ると、やがて感心したような声を漏らして微笑んだ。

「ほう…これは面白いな。十牛図の翻案だ」


「十牛図?」

 未來は毛利の顔を思わず覗き込んだ。

「うん。禅の修行の到達段階を示すものでね。悟りの境地を十段階に分けて図で表してるんだ。牛と牛飼いが比喩として使われている…

 たとえば、この最初の『尋牛』。まだ牛飼いが牛を見つけていない、つまり真の自分から遠ざかった状態。次は『得牛』といって、牛は得たけど、まだ使いこなしていない状態。そして、例えばこれ。『人牛倶忘』。牛を捕まえにきた理由も忘れ、捕まえた牛も忘れ、捕まえたことさえも忘れるという明鏡止水の境地」

 毛利はさらに、こみ上げる笑みを抑えきれないといった様子で慎治を見た。

「ただ、ここで面白いのは…その牛を象に変えている、ってことだ」


 確かに、皿の一つを眺めると、現代の感覚でいうと、とても象には見えない皺だらけの巨大な怪物が長い鼻を地面に垂らして振り向く様子と、それを扱いかねて調教棒を振り回している頭巾姿の象使いが描かれている。


 悦に入って床に並べられた小皿に見とれていた毛利だったが、やがて、その表情がはたと曇った。

 血相を変えた彼は、今度は震える指で小皿を指し、何度も数え直した。

「一、二、三…なぜだ? 足りない。九枚しかない…一枚足りない!」


 皿を包んでいた和紙の表書きを改めて確認し、毛利はもう一度数えてみたが、結果は同じだった

 皿の一枚々々を手に取り、その図柄を穴のあくまで確認しては、毛利はぶつぶつと独り言を始めた。

 皆は彼の豹変した態度に戸惑い、不安な表情でそばに立ち尽くすしかなかった。


 しばらくすると、毛利は、ようやく何かを得心したのか、口を真一文字に結び、断固とした様子で叫んだ。

「牧牛! 足りないのは牧牛だ!」


 それにいったいどんな意味があるのか。

 不思議そうに慎治は問いただした。

「一枚割れただけじゃないんですか? 十枚組の中の」

 毛利はさらに頭の中で考えを巡らせているのか、遠くを見るような目をしたまま、それに答えた。


「もちろん、そう考えるのが妥当さ。でも、宝物、と書くほど大切にしているのに一枚欠けているのは何故なんだ? この古伊万里がいくら値が張るものであっても、大和家の蔵の他の所蔵品と比較して、突出した品とは思えない。

 特定の先祖の持ち物であったのかもしれないが、その断り書きすらない。そもそも、組皿は一枚欠けると価値はぐっと下がる。割れたのであれば修復でもすべきだろうけど、その痕跡すらない」


 慎治もそのとおりだ、と呟くと、その後はただひたすら腕組みをするしかなかった。

 未來は未來で、何かの糸口を見つけようと必死である。

「毛利さん、その、足りないという皿は、いったいどんな図柄なんですか?」

 良い質問だ、とばかりに毛利は気を取り直した。

「『牧牛』についてだが…どんな絵かというと、通常は牛の背に牛飼いが乗ってる図案なんだ。要は自分の本質を見出したのなら、飼い慣らして自分のものにしろ、という意味…つまりその状態に慣れろ、っていうことかな…」

 未來は自らの眼で確認するために携帯で十牛図を検索し、ヒットさせると、玉枝の方に差し出した。

 玉枝はふぅん、と首を傾げてしばらく画像に見入っていたが、見当もつかない、といった表情で溜息をついた。

「象の背、ねぇ…」



 毛利は玉枝の言葉に何か閃いたのか、途端に大きく目を見開き、手を打って大声を挙げた。


「そうか!」


 一同は毛利の声に驚いて思わず彼の顔を見た。


「慎治君! 客間から私のバック、取ってきてくれないか?」

「は、はい…分かりました」

 ものの数分もかからずに、息を切らしたまま、慎治は使い込まれた茶色の皮のショルダーバックを抱えてきた。


 バックを受け取ると、毛利は中を慌ててまさぐり、クリアファイルの書類の中から一枚の折りたたまれた紙を見つけると、震える手でそれを開いた。


 能古島全図である。

 地図を見つめていた毛利は、ある一点を睨むと、その表情は瞬く間に歓喜に満ち溢れた。

「やはり、やはりっ! 間違いない! ここを慎治君っ、見てくれ!」

 毛利が指差す先には、能古島の北西、海岸から二百米ほど離れた地点に浮かぶ小島があった。

 そこには小さく、島の名前が『象瀬』とだけ記されている。

「象瀬だ! 象の背だよ! 間違いない! 組皿が足りないのはわざとだ! つまり、大和家の先祖が何かを伝えたくて、あえてこの皿を一枚隠したんだよ!」

 拳を大きく毛利が振り上げると、慎治や未來は思わず同時に感嘆の声を挙げた。驚きのあまり玉枝は顔をくしゃっとしかめたかと思うと、途端にその瞳は涙に濡れた。


 六月の陽は思いの外、長い。


 中庭の木々たちは茜色に染まり、シオカラトンボの群れが暮れなずむ空に悠然と漂うさまは、まるで夢の中の風景を見るかのようだった。白い花を咲かせたモッコクの木の前では、モンシロチョウたちが羽を朱にして楽しげに舞っている。


 あたかも燃えているかのように陽に映える蔵の格子窓からは、しばらく彼らの興奮した声が止むことなくあがり続けた。






 村田から慎治に厄介な話しが舞い込んだのは蔵の再調査の直後ぐらいのタイミングだった。


 なんでも、慎治と真矢の交際の急速な進展を聞きつけた村田の父・衛彦が、是非、大和家と與座家の間を取り持ちたい、というのだ。

 慎治は性急な話に違和感を覚えたが、親友の父の好意でもあり、まずは真矢に相談することにした。

 ところが、彼女に打ち明けたところ、今の段階で二人の間に家が絡むことには大反対、と取り付く島もない。


 間に挟まれた慎治は、慎重な対応を強いられた。

 というのも、村田衛彦と與座正之は政治家と支援者という間柄を遥かに超えた盟友で、こちらの伝え方を間違ったらせっかくの関係に水を差す恐れもあったからだ。 

 慎治は友人の村田を通じて遠回りにお断りしたつもりだったが、なぜかその真意は伝わらなかった。ただの親睦会という形でも良いから、と、土台無理筋の話しがあれよあれよと言う間に通ってしまった。


 食事会の決定を聞いた真矢は憤懣やるかたない、といった様子だったが、慎治は、ここは学校のPTAの飲み会に同席するくらいの軽い気持ちで凌いでいこう、と申し合わせ、何とか彼女の気持ちを落ち着かせた。慎治としては内心冷や汗ものだったが、個人的にも尊敬していた衛彦の顔を潰したくないという切実な思いもあった。


 その日はあいにく、朝からまた梅雨が始まったかのようなまとまった雨が降っていた。


 能古島までの道中、玉枝からは案の定、質問攻めである。

 出会った経緯から真矢の人柄、嗜好、家柄について、など、考えられる限りの問いに慎治はハンドルを手に面倒くさがりもせずに答えた。

 未來からも何を言われるか、と覚悟をしていたものの、女っ気のない兄に彼女が出来たと聞いただけでよほど嬉しかったのか、食事会の誘いにも素直に応じ、大人しく後部座席に座っていた。

「しかし…お兄ちゃんの彼女、見るの楽しみだねぇ」

 それまで二人の会話に口を挟むこともなく黙っていた未來がしみじみと呟いた。

 慎治は忙しなく動くワイパーを見ながら苦笑いした。

 

 雨が降りつける鉄の桟橋を渡ってフェリーに乗り込むと、玉枝や未來は、まるで旅行にいくみたい、とはしゃいだ。

 能古の渡船場まではわずか十分であったが、二人は船窓から雨が降りしきる博多湾の霞む景色と船が白い波頭を切って紺碧の海を進む様をただ飽きずに眺めていた。


 能古の旅客乗り場に着き、待ち合わせ場所である場外の庇の下にしばし佇むと、ロータリーにゆっくりと銀色のプリウスが進入してきた。

 車が静かに停まると、水滴がとめどなく落ちるドア・ウインドウの向こうで中年の女性がにこやかに手を振っている。礼子だ。


 慎治がドアノブに手をかけて助手席を開けると礼子は少し慌てた様子で語った。

「今日は雨の中、大変でしたねぇ。さぁさぁ、濡れますので、どうぞ急いで中に」

 傘を畳んで挨拶もそこそこに車に乗り込むと、玉枝が先陣を切って挨拶した。

「すみませんねぇ、お忙しい中に。私、慎治の母の玉枝と申します。こちらは娘の未來です」

「ええ、ええ。慎治さんから伺っております。いつも娘が大変お世話になっております。何だか突然のことで申し訳なかったですねぇ。こちらの島に来られたのは何時ぶりですか?」

 礼子が車を発進させ、お互いの自己紹介を済ませると、やがてすぐに話しの種も尽きたが、気まずい沈黙が訪れる間もなく、気がつけば車はもう與座家の門柱の前だった。

 降り止まぬ雨の中、大和家の面々は堂々たる門構えに感嘆の声を上げながら、雨を避けつつ玄関に入った。靴を脱ぎ、礼子の案内で廊下を進むと、客間からは男性の賑やかに談笑する声が漏れ聞こえてきた。 


「どうぞ」

 礼子がにっこりと振り向いて襖をするすると開けると、そこには着物姿の與座氏と黒のストライプスーツを着込んだ長身で恰幅のいい村田の父・衛彦が座卓を挟んで向き合っていた。

 卓上には桶盛りに詰め込まれた寿司と刺し身の舟盛り、ビールやドリンク類などがすでに賑やかに並んでいた。

「おーう、慎治君! 元気だったか?」

 席を立つと衛彦は慎治に近寄り、その肩を二度ほどがっしりと厚い手の平でぽんぽんと叩いた。


 衛彦は慎治のことを、息子の大事な友人として特段に目をかけていた。まだ衛彦が議員に立候補したての頃から彼が選挙事務所に出入りしていたこともあって、その後の成長を身内のように気にかけてくれていたのだ。


「村田さん、国会で忙しいのに、本当によかったんですか?」

 心配そうな顔で慎治が尋ねた。

「いやいや、どのみち、週末は地元に帰るんでね。それに、他ならぬ君と與座家のことだから、もちろん第一優先、だろ?」

 豪快に笑う衛彦の顔は、慎治が見てきた、まだ議員になる前のそれだった。普段は無意識のうちに威圧感を漂わせている彼だったが、今日は友人の父としてただ純粋に祝いたい、という気持ちが勝っているのであろう。

「村田先生、今日は息子のためにわざわざすみません」

 恐縮そうに玉枝が詫びる中、未來もその隣で神妙に頭を下げた。

「これは、これは! 大和さん、久しぶりですねぇ。こちら、慎治君の妹さん?未來さんでしたっけ?

 写真でしかお見かけしたことないけど、大きくなって。本当に、お美しい! まぁ…、ね、今日はお互い久しぶりだし、堅苦しいことは抜きにしてゆっくり楽しみましょうや」


 当初、もともと面識のない親同士の初顔合わせとなるだけに、気まずい沈黙が続き、会自体が成立しないのでは、と慎治は人知れず危惧していた。

 が、衛彦の絶妙な合いの手や掛け合いが暖機運転のような効果を生んだのか、やがて双方は自然な会話を衛彦を介さずに交わせるようになっていった。

 そんな親たちを尻目に、慎治と真矢はと言うと、明らかに距離を置くように末席に座り、彼らの一挙手一投足を冷めた目で見守っている。

 とにかく二人を出汁にするような宴会にはしないでくれ、と慎治から堅く申し入れていたおかげで、立ちいった質問をされるようなこともなく、むしろ拍子抜けするぐらい親たちは独自に盛り上がっていった。


 宴も後半に入ってきた頃、興に乗ったのか、玉枝と話していた與座氏が赤い顔をして慎治に呼びかけた。

「慎治君、今日はお父さん、来れなくて残念だったねぇ。歴史に詳しい方だと聞いてたので、お会いできるのを楽しみにしていたんだが」


 不意を突かれ、慎治は一瞬驚いて顔を挙げた。

「…そ、そうですね。本人も来る意欲はあったようなんですけど、やはり長時間は耐えられそうもなかったので、遠慮させていただきました」

「う~ん。闘病生活も長いときついだろうなぁ。僕はこれまで盲腸で二週間くらいしか入院した経験がないんでね。それでも退屈で仕方なかったもんだよ。辛抱強いお方なんだろう」

しみじみと頷いて與座氏は続けた。

「でも、今、玉枝さんから聞いたんだけど、お父さんから依頼を受けた蔵の整理や歴史の謎解きも大詰めなんだって?」

 慎治は真矢の方を振り向き、お互いに顔を見合わせてから頷いた。

「はい。真矢さんからも現地調査などでたくさん手伝っていただいたお陰で、だいぶ進んでいます。いずれ解明できたらお礼も兼ねてまとめてご披露したいと思っています」

 與座氏は少々高飛車な態度で真矢に声をかけた。

「お前も少しは役に立っているみたいだな。安心した」

 当たり前でしょ、と言いたげな顔をして真矢はぷいと横を向いた。


 與座氏は真矢の反応をろくに見ずに機嫌よく続けた。

「しかし…慎治君。これは初めて話すことなんだけど…僕がなぜ周囲から郷土史家とまで言われているかというと、もとを辿れば自らのルーツ探しが発端だったんだよ。うちは大和家のように連綿と続く家系図のようなものがなくてね。だから余計に君らの活動を見て羨ましくもあり、感動もしている。そんな背景もあって、真矢にも大和家のお役に立つならば、と、言い含めておいたんだ」


 飲み干されたグラスを目ざとく見つけた衛彦がまぁまぁ、と言いながらビールを注ぎ足すと、與座氏は軽く礼をして受け取り、その半分ほどをぐいと一気に喉に流し込んだ。

 そういえば與座氏への報告はまだだった。慎治は今更のように気づき、自らの配慮不足を恥じた。


「あの~、與座さん。実を言うと、話し忘れていたことがありまして…

 最近わかったことなんですが…一連の調査で、先日、大和家の秘密の鍵が、象瀬にある、ということが判明したんです」


「なんと!」

 與座氏は酔いがいっぺんで醒めたかのように目を見開き、慎治の顔を見直した。


「象瀬! 長い間、私達が日送りの儀で邯鄲を訪れると必ず目の前にいつも象瀬があった! 

 …ご存じかもしれんが、あの島はさよ島ともいって、悲劇の小島として昔は、そりゃあ有名だったんだよ… ところが今では人々に忘れられてしまって、常々僕は残念に思っていたんだ。そのさよ島に大和家の秘密がある!? こりゃあ、おもしろくなってきた!」

 目を輝かせて與座氏は慎治の座る方向へと知らず知らずのうちにじり寄った。


 彼の高揚をよそに、慎治がこれまでの調査で判明した事実や推理を順を追って淡々と解説すると、與座氏は喜色を満面に湛え、その一つ一つに好意的な反応と彼独自の見解を付け加えてみせた。

 慎治がからくり箪笥から十枚組の染付小皿を発見し、その一枚が象瀬にあるのでは、とした毛利の推理を披露すると、彼の興奮はピークに達した。


「慎治君、君らは大変な発見をしたねぇ! 気に入った!」

 與座氏は紅潮した顔で声を上ずらせて答えると、いきなり思い出したように立ち上がり、襖を開けてそそくさと客間を退出した。

 皆はどうしたのか、と驚いた。互いに顔を見合わせてひそひそと語る中、ものの数分で彼が懐手をして戻ってくると、慎治の前にどっかと胡座をかき、向き直って言った。

「前祝いだ! これを君にあげよう」


 和服の袖から何かを取り出し、ぐい、と眼の前に手のひらを差し出すと、そこには黒の文字盤が配されたアンティーク調のオメガの腕時計が載せられていた。


「お父さん!」

 眉をひそめ咎めるように礼子が口をはさむと、真矢もまた始まった、といった顔で天を仰いでいる。


 慎治も予期せぬ與座氏の行動にどう反応して良いのか分からず、固まったままだ。

「まぁ、いいじゃぁないか。今、慎治君がやっていることは地方史に一石を投じるほどの画期的なことだよ。ましてや、僕らが住む能古島と大和家が数百年も前からつながっていたというんだから尚さらだ」

 さも当然といった調子で與座氏は抗弁した。


「與座さん、こんな高価なもの、頂戴してはバチが当たります」

 玉枝も横からそれとなく意見した。

「お兄ちゃん、よかったじゃない。この前、仕事用にいい時計がほしい、って言ってたよね?」

 未來はあえて空気が読めない小娘でも装っているのか、状況もわきまえずに茶目っ気たっぷりに慎治に声をかけた。


「これ! 未來!」

 眉間に皺を寄せて、はしたない、とばかりに玉枝が未來を責めた。

 そんな様子を泰然とした様子で眺めていた與座氏は、破顔して再び口を開いた。

「玉枝さん、心配しないで下さい。私は実は腕時計を集めてましてね。これ以外にも何十本も持ってるんですよ。この品は六十年代のオメガシーマスターといって、自分が若い頃実際に付けていたものなんですが、ただ置いておくよりも誰かに使ってもらった方が機械にとっては絶対いいんです。今日、彼の功績に僕も感銘を受けたし、腕時計は男の顔だ。さ、ぜひ。ぜひ、受け取ってほしい」


 手のひらの載せた腕時計を慎治に向けて改めてぐいと差し出すと、慎治は恐る恐る答えた。

「本当に…いいんですか?」

 與座氏は深く頷いた。

 真矢は、これだからうちの父親は、とでも言いたげな表情で呆れて二人を見ている。

 慎治は與座氏の手のひらからおもむろに時計を受け取り、琥珀のような色をした風防と黒の文字盤をしげしげと眺めていたが、ついに皮のベルトを手に巻き付け装着してみせた。

「ほら、ぴったりだろ」

 満足げに與座氏は言い切った。


「なんだか、與座さんと慎治君の義兄弟の契り、みたいになっちゃったなぁ」

 衛彦は大笑いした。一同も彼の表現が余程ツボにハマったのか、釣られてどっと笑った。

「まぁ、慎治君と真矢さんの交際も順調のようだし、両家の顔合わせも済んだことだし、これって、仮結納のようなもんだろ? なあ?」

ますます饒舌になった衛彦は続けて放言した。


 礼子と玉枝はどう反応して良いのか分からず、慎治と真矢のそれぞれの表情をちらちらと盗むように伺っている。その反応と対象的に、與座氏と衛彦はどこ吹く風といった調子で悦に入り、まだ中身が残っているビール瓶を探して互いに杯を差し合った。


 先程まで斜に構えた態度で皆の会話から距離を置いていた真矢だったが、もう何を言っても無駄と思ったのか、自らの爪の先をいじったりスカートのほころびを見つけては整える仕草を繰り返している。

 そんな真矢の表情を見て慎治はただおろおろとどうしたものかと焦り、一刻でも早くこの場を去りたい、という思いを抱いていた。

 その様子を見るに見かねたのか、礼子が、慎治さんと真矢はお互いに話すこともあるだろうから、このへんで二人にしてあげたら、と助け舟を出した。與座氏と衛彦は一も二も無く承知した。


「若い二人はいろいろとあるだろうから、この辺で解放してあげないとな。僕らももう少ししたらお暇するつもりだから」

 衛彦が語ると、與座氏も同意するように付け加えた。

「そろそろ大貴が市内から帰ってくる予定なので、車で港まで送らせますよ」

 玉枝と未來はほっとしたように顔を見合わせた。


 まだまだ終わりそうにない宴の場を後にして、二人が玄関から外に出ると、あれほど土砂降りだった雨が嘘のように止んでいた。


 慎治が真矢と並んで港までの沿岸道路を歩こうとすると、真矢はぷい、と一人、すたすたと先に歩を進めて港の方へと歩き出した。


 この宴を快く思っていないのは分かっていたが、何もそこまで、と内心思いながら慎治は真矢の背中に声をかけた。

「ねぇ、どうしちゃったの?」

 声が聞こえているにも関わらず、真矢は無言のまま歩き続けている。

「怒っているのは分かるけど、答えてくれたっていいじゃない?」

 慎治は早足で真矢に追いつき、先回りするように付いていった。

「怒っているのは分かるけど?」


  真矢は急に立ち止まり、剣のある甲高い声で目を吊り上げて慎治の言葉を繰り返した。

「私が怒るのが分かるんだったら、なぜこの会を事前にやめさせてくれなかったの? 」

 慌てた顔で慎治は反論した。

「いやいや、僕だって村田には、親が入るような会はまだ早いからやめてほしい、っていう事は伝えてたんだよ。けど、それでもいいから、二人を中心にした会にはしないから、っていう条件で受けることにしたってことは話したよね? 」

 真矢は目をそらしたまま海の方角を見つめている。

「それに、村田先生には学生時代から僕もお世話になってるし、国会議員でもあるから、無下にも出来ないじゃない? 僕の立場も分かってよ。みんな僕らが付き合っていることが嬉しくてせっかく盛り上げようとしてくれてるわけだし。これが、嫌いな人と無理やり引き合わせられるのなら誰だっていやだけど、僕ら、お互いに好きで付き合っているわけでしょう?それに、正直、僕は君となら…」

 言いかけて口ごもった慎治の目を見て、真矢は大きくため息をついた。

「分からないかなぁ? そう言ってくれることは嬉しいけど、人の気持ちって絵本みたいに右から左にはいかないんだよ。好きになりました。一緒になりました。はいめでたしめでたし。そんな単純ものじゃないでしょ」

 慎治は弁明に必死だった。

「…うん、確かにこんな状況を作ってしまって申し訳ないと思う。だけど現実の世界っていろんな人たちが関わっていく中で存在しているわけじゃない? 二人だけで無人島で暮らしているならまだしも、親や兄妹やその背後にあるものが全部つながっていて、切り離すのは難しいこともあるんじゃないかな?」


 上を向いてしばらく押し黙り、自らの怒りをなんとかうまく鎮めようとする真矢だったが、数分無言で歩くうちに気持ちが少しは晴れたのか、突然慎治に切り出した。


「とにかく。このようなことは二度としないで。二人の間に家が絡むようなことは」


「分かった。二度としない。約束する」

 真矢は仏頂面したまま慎治の顔をしばらくじっと凝視していたが、やがてぽつりと呟いた。

「いや、わかってない」


 深呼吸するように胸を反らせて海に向けてうぅっと伸びをすると、きっぱりと真矢は言った。

「今日は帰って」

 旅客乗り場に近づくと、午後からの天気の回復を見越した観光客が建物から溢れ、ロータリー付近はバスを待つ家族連れで人溜まりが出来ていた。

 様々な国の言葉が賑やかに飛び交う人混みの中を、二人は流れに逆行するかのように歩いた。


 渡船のり場の入り口に着くと、もともと色白の真矢の顔はさらに血が通っていないかのように何故か青ざめてみえた。

 慎治は見送る真矢に、また連絡するね、と告げて軽く手を振ると、一人肩を落として乗降場の中へと寂しげに消えていった。


←前へホーム次へ→