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残の海人(のこのかいじん4)章

深まる謎

 ジャンボ七八七便はその純白のジュラルミンの機体を陽光で輝かせながら大きく左に旋回すると、前方には人口百六十万の福岡市街の広大なパノラマが拡がり、機内放送は既に当機が最終着陸体制にあることを告げた。

 丸い機窓からは銀翼のはるか向こうに続く雲海が見え、その雲間から神々しい何本もの光の帯が湾へと差し込んでいる。

 見下ろすと、緑の志賀島が砂州の海の中道によって本土と繋がり、あたかも龍が能古島を食んでいるかのように見える。


 きっと、良い事がある。

 一時帰国で英気を養ったばかりの彼にとって、この絶景は、さらに前向きな期待を抱かせるに十分だった。

 

 もともと今年の冬は家族と過ごせないかもしれないと覚悟はしていた。だが、ドルジからの電話には有無を言わせぬ迫力があった。

 航空機の往復チケットを準備しているから、とにかく帰れ、これも仕事のうちだ、とさんざん用件だけ述べると、ドルジはすぐに電話を切った。

 沈没船の手がかりが未だつかめない中ではあったが、ネルグイは厚意に甘え五日間の帰郷を果たし、今、また、福岡に戻る便に搭乗しているのだ。


「シートベルトの今一度の確認を」

 機内アナウンスが流れると、スーツ姿の人々は一斉に身支度を始め、ネルグイの斜め前に座る子連れの母親は、赤ん坊をあやしながら慌ただしくシートポケットの中の小物を片付けている。


 彼は、着陸を前にして浮き立つ旅客の行動をぼんやりと観察しながら、ここ数日の間に故郷で起こった出来事の一つ一つを、まるでいとおしむように振り返っていた。






 満員の白いミニバンの乗り合いタクシーがウランバートル市内から離れたゲル地区の丘の上に到着し、降りながらネルグイが腕時計を見ると、時刻は、はや四時である。


 長い移動だったな。

 ネルグイは誰ともなく嘆息した。

 今日の市内の空はスモッグに覆われ、ぼんやりとした明るさだ。

 足元の凍った地面は、柔らかい陽に照らされ、まるで山吹色の氷の川のように見える。


 舗装されていないゴツゴツとした道の両側を、高さが二米ほどの木の柵がどこまでも続く。波打つ柵の上から覗く木造のバラックやゲルの屋根には未だ昨夜の雪が残っている。


 途中、リヤカーで水を運ぶ子供たちが数名、ネルグイを軽々と抜き去っていく。

 路上では、山積みの原炭を砕く顔なじみの石炭売りや、真新しい民族衣装のデールに身を包んだ家族連れとも行き合い、いよいよ大晦日なのだな、とネルグイの心は高揚した。


 坂を登りきり、錆びたトタンの板戸の前でネルグイが立ち止まると、その向こうから、けたたましく犬の鳴き声が響いた 

 が、それは、すぐさま鼻を鳴らして甘える声へと変わった。


 あっ、ひょっとしてネル?と駆け寄る家人の声がしたのと扉が開いたのはほぼ同時だった。


 そこには、整った美しい眉に、瞳を見開き、満面の笑みを浮かべるデール姿の姉、ツェツェグがいた。

 彼女は大きく手を広げ、おかえり、と彼をゆっくりと抱きしめると、左右の頬をそっと寄せた。その周りを黒の大型のモンゴル犬が忙しなくまとわりついてくる。その額にある白眉はまるで笑っているかのようだ。

「ブルゲド、そんなに嬉しいか?」 

 あまりの喜びようにネルグイは苦笑しつつ、艶やかな毛むくじゃらの頭を腕に抱き、少々荒っぽく撫で回した。


「よく帰ってこれたねぇ。ドルジおじさんから、ちょくちょく事情は聞いていたけど」

 ネルグイはツェツェグの言葉に頷いた。

「ああ、やっぱり正月は皆の顔を見ないとね。一年が始まった、っていう気がしない」

「長旅で疲れたでしょう。さぁさぁ、家の中に」


 手作りの木柵で囲われた五十坪ほどの敷地に入ると、そこには、大きな饅頭姿をしたゲルと、掘っ立て小屋の資材置場が雪の冠をかぶって建っており、庭は一面の雪に覆われている。


 ネルグイが身をかがめてゲルの木製の扉を開け、敷居をまたいで中に入ると、天窓の下、伝統服を着て野菜を刻む、背中をまるめた老女がいた。

 祖母のツェレンだ。

 

 戸口から入ってきた彼の姿に気づくと、彼女はおおっと驚いたような声を漏らし、その目はみるみる涙で潤んだ。


「元気だったかい?」

 ネルグイは、ツェレンを抱き寄せて左右の頬にキスしながら尋ねた。

「元気も元気。逆にお前の方を心配していたよ」

 彼女は震える手でネルグイの腕を愛おしそうにさすっている。


 ツェツェグが、後ろから笑顔で補足した。

「正月のツァガーンサルの準備で大変だったんだけど、おばぁちゃんや叔母さんや近所の人たちに手伝ってもらって、今年も何とか年を越せそうだよ」

 

 ネルグイはゲルの中をぐるりと見渡した。

 何も変わっていない。あの時のままだ。

 部屋の奥に鎮座する父が職人に作らせたモンゴル文様の仏壇、家族の思い出の写真が嵌め込まれた戸棚。母の思い出が詰まった食器やひしゃくなどの思い出の品々。

 ただ、変わっていないだけに、ネルグイは、居心地の良さと同時に、ここにいない両親の気配をむしろ強烈に感じた。


「まあ、ゆっくりなさい」

 ツェレンは嬉しそうに目尻にしわを浮かべ、湯呑に乳茶を注ぐと、立ったままのネルグイにそっと差し出した。


 湯呑の乳茶を飲みながら、ネルグイがもう一度室内をゆっくりと見回すと、見慣れないものがすぐに目に留まった。


「あっ、この小型テレビ、どうしたの?」

 見ると、食器棚の上に十五インチくらいの薄型テレビが置かれている。


「それね」 

 ツェツェグが答えた。

「この前ドルジおじさんが来て、これ、人からもらったけどうちにもテレビがあるからいらない、って」


 ネルグイはおじさんらしい嘘だな、と独り微笑した。

「ネルが日本に行くことになってから結構立ち寄ってくれてて。なんでも、モンゴル帝国の沈没船を探しているんだって?」

 ツェツェグが驚いたように目を見開くと、ネルグイは首を振った。


「まだまだだよ。実際に海に入る前の先行調査なのさ。現地に住む住民への聞き取りと情報収集、島の周囲の海流調査や水深の確認。いろんなことを積み上げていって初めて潜るかどうかを決めるんだ。当たりをつける、ってやつだね」

「で、宝の山探し?」

「うん、男のロマン…そんなとこ、かな?」

 夢のような話ねぇ、とため息をつきながらツェツェグは天を仰いだ。



「実はね」


 ほどなくして話題が途切れると、ツェツェグは少しためらいながら口を開いた。


「おばぁちゃんもネルの日本行きについては心配していたから、良く当たると評判な祈祷師に来てもらって鑑定してもらったの。

 その時に出てきた先祖のおじぃ様の霊によると…今回の仕事は、ネルにとって人生を決定づけるような大きな出会いがある、っていうの。

 そもそも、この仕事自体が精霊からあなた自身が今生の世で授かった、やらなければならない使命なんだって!」


 予期していなかった話に面食らったネルグイだったが、と同時に、彼の心の中には説明出来ない怒りが湧いた。


 勝手なことを!

 正面立って姉に言わないものの、彼は心の中で舌打ちした。


 もともと、ネルグイは、父方のおばが祈祷師になっているだけに、この手の話しは信じないわけではなかった。

 幼心にも、鳥の羽を頭に突き立て、毛糸のベールで顔を隠した叔母が太鼓をかき鳴らす様は恐怖そのものであったし、人知を越えた大いなる力に対しての畏怖の念も感じていた。


 叔母はある時、こう言った。

「人の宿命は、あらかじめ決まっているのさ。偶然の出来事というものは無い。身の回りに起こること、すべてが、必然なんだよ」

 この言葉が、ネルグイの心に妙に刺さった。


 しかし、彼のそれまでの人生観は、父母の死によって根本的に覆された。


 父と母。

 あれほど清く生きた夫婦もいない。

 だが、見惚れるほどの美丈夫だった父は、ゾドによって人生を狂わせ、酒に溺れ、酒に死んだ。

 そして、親戚の誰からも慕われ、一族きっての美人と謳われた母は、生きる意味を失い、突然、何の前触れもなく自ら命を絶った。

 ネルグイは、自分たちを遺して逝った母を、愛するがゆえにどうしても許すことが出来なかった。

 なぜ自分たちを見捨てたのか、と。


 ただ、一方で、それ以上に大きな怒りも感じていた。


 なぜ天は、あの善良な父母を見捨てたのか、と。


 この世に起こることがすべて必然ならば、父母の宿命は決まっていたことになる。

 

「神は本当にいるのか?」


 ネルグイは考えれば考えるほどに分からなくなった。

 

 そして、彼はある時、苦しみから逃れるように、考えるのを止めた。


「自分の目の前にあるもの。それがすべてだ」

  

 ネルグイは、あの日から、不思議を語ることも聞くこともいっさい拒否してきたのだ。

  


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天窓の下のストーブに置かれた大鍋からは、湯気が立ち上り、室内には肉汁の食欲をそそる香りが充満している。三人にとっては久しぶりの家族水入らずの食事だ。

皆がアルミの器につがれた肉うどんに舌鼓を打ちながら、しばらくすると、出てきたのはやはり昔話だった。

 

 真っ先に出たのは、夏の祭典、ナーダムの思い出である。

 それは誰一人欠けることのない、姉弟にとって忘れられない家族の記憶だった。


 色とりどりの民族衣装をまとった人々。チンギス・ハンとその軍団による整然たる行進。数千人のモンゴル相撲の出場者たちと人馬の群れ。姉弟そろっての初の競馬出場と、そのときに父母が見せた涙。



 笑い声の絶えない夕食だったが、時にツェレンやツェツェグは、目尻の涙をデールの裾でぬぐった。


 食事を終え、小一時間。尽きない話しもようやく一段落すると、ツェツェグは席を立ち後片付けを始め、ネルグイも手持ち無沙汰になり、何気なくテレビをつけた。


 すると、そこには、日本の相撲部屋に入門し、言葉や文化の違いに戸惑いながらも活躍するモンゴル人の新弟子の特集番組が映し出された。


「あぁ、この人、最近よく見かけるようになったね。日本でも少し人気が出てきたみたい」


 ツェツェグはストーブの上に置いたタライの水で皿を洗いながら、肩越しにネルグイに声をかけた。


 画面には、体格には恵まれているものの、まだ幼さが残る少年が、慣れない環境で修行に明け暮れる日々が映し出されていた。ネルグイから見ても、なかなか流暢な日本語を披露している。


「うん、この子、僕も日本の新聞で見かけたよ。新弟子検査の身体測定の場面が出てた」


 画面を見ながらネルグイは感慨深げに続けた。

「相撲のこともそうなんだけど、僕、なんか今回の訪日が初めてのような気がしなくてね。僕らも日本人も赤ん坊の頃は同じ蒙古斑を持ってるから、ルーツは一緒ってことだろ? 日本にいて間もないけど、このままずっといてもいいくらいなんだよなぁ」


 そこまでネルグイが語ったかと思うと、突然後ろから食器をカランカランと床に取り落とした音が聞こえた。

 見ると、ツェツェグが台拭きを握りしめ、顔をくしゃっとしかめてうつむいて泣き出している。床にはポタポタと涙がこぼれ落ちていた。


 驚いたネルグイは近寄って声をかけた。


「どうしたの? 突然」

 それには答えず、ツェツェグはしばらくかがんで床に突っ伏したままだった。ネルグイは仕方なく、姉の感情が収まるまでそばで立ち尽くすしかなかった。

 ツェレンも眉間に皺を寄せて、ツェツェグの次の反応を見守っている。


 やがて嗚咽しながらもゆっくりと、一言二言、しぼり出すようにツェツェグは応えた。

「これ以上…誰も失いたくないの! あなたまで失ったら、私達はこれから一体、どうしたらいいの?」


 慌ててネルグイは弁解した。

「あぁ、勘違いしないで! 僕は日本が居心地がいい、と言いたかっただけで、ずっといても良いくらい、っていうのはあくまで仮定の話だから」

「私は怖いの。ただ、怖いのよ」

 手の甲で涙を拭いながらツェツェグは声を震わせている。

 突然、ツェレンはかぶりを振って打ち消し、二人をとりなした。


「アーロヨ、アーロヨ。大晦日が迫ってきているというのに縁起でもない。それに、何と言ってもネルの門出じゃあないか? そりゃ、私だって心配だけど…笑って送り出してあげな。ましてや、祈祷師が人生の転機となる仕事だっていってるんだから」


 しばらく肩を上下させていたツェツェグだったが、ネルグイは彼女が落ち着くのを待って、そっと肩に手をおいた。


「姉さん、僕の帰る場所はいつもここだよ。住みたいところなんて他にない…そうだ! 今の仕事が一段落したら、みんなで旅行にでも行こうよ! おばぁちゃんの体調次第だけど、車を借りてセレンゲ県まで遊びにいくのもいい」

 しゃべると涙が出るのか、ツェツェグはただ黙ってこくりと頷いた。



 ゲルの外は肌を刺すような寒気で、昨日来からうっすらと残る雪の上に牡丹雪がしんしんと降り積もっていく。

 茶碗を伏せたようなゲルの白い表皮は、まるで雪洞のようにほんのりと金色を帯び、当たりの雪景色をあたたかく染めていた。






 慎治に真矢を紹介して二ヶ月が経過しているというのに、二人の仲に進展が見られないことに村田は呆れた。

 慎治は効果的な告白のノウハウなどをネットで集めては、その都度、村田に相談する始末であった。そんな慎治に苛立ち、村田はぞんざいな態度をとった。


「お前はどれだけ真剣なんだ?」

 面倒くさそうに村田は言い放った。

 技術的なことはどうでも良い、真剣なら、たとえ無言でもお前の気持ちは伝わるはずだ、と彼は力説した。


 確かにそのとおりだ。しかし頭では分かっていても、実際に出来るかどうかはまた別問題である。

 とにかく、曲がりなりに友人を交えてでも会ってくれてはいるのだから、そこに光を見い出せ、と村田は慎治をけしかけた。


 三月に入ると島の自然公園は菜の花と桜、デージーやポピーで埋め尽くされる。穏やかな春の気候に誘われ、行楽客が増えるシーズンだ。

 毛利は花見も兼ねて現地調査に訪れたい、と慎治に持ちかけ、今回も村田を通じて與座家に電話を一本入れてもらうことにした。

 なぜ真矢を通じて依頼しないのか、と不平を述べ立てる村田だったが、最終的には、今回までだぞ、としぶしぶ折れた。


 毛利が今回調査の対象としたのは、真矢の祖母、伊乃だった。

 前回の訪問の際、與座氏から、母は私以上に島の生き字引のような存在だ、と推薦を受けていたのだ。


 伊乃は與座本家のある北浦から離れた、渡船の桟橋にほど近い、永福寺近くの丘の上に住み込みの弟子と共に住んでいるという。

 なんでも、午前中は農作業に従事し、午後からは霊能者として活動し、島の内外を問わず数多くの相談に乗っているらしい。


 真矢に告白するチャンスを伺っていた慎治にとっては、毛利をよそに、二人きりの時間が取れるかどうか、それが問題だった。

 そこに毛利から、事情により現地調査にどうしても行けなくなった、との突然の連絡が入った。どうやら長年の友人が急逝したとのことだ。


 親友を失ったことで、毛利の電話の声は想像以上に暗かった。

 慎治は、毛利には悪いと思いつつも、この報を聞き、思わずほくそ笑んだ。




 旅客乗り場の出口で真矢と落ち合うことになった慎治だったが、彼はまだ船の中というのに、二人で会えると考えただけで高鳴る胸の鼓動を抑えきれなかった。

 逸る思いで自然と足早になる自分を落ち着かせながら、フェリーのランプウェイが地面に固定されるや、彼は一番乗りで桟橋に降り立った。

 ぞろぞろと下船する旅客に交じり、彼は待合所のゲートを通り抜け、構内を見渡して真矢を探した。


 が、これまで、終始、にやけ顔が止まらなかった慎治の顔がたちまち凍りついた。


 出口付近では黒の花柄のワンピースにチェスターコートを羽織った真矢がここよ、とばかりに大きく手を振っていたが、その側には、ネルグイともうひとりの若い上背のある青年がいるではないか!


 慎治は自分の動揺を隠しつつ、何とかこんにちは、と一言しぼり出すと、真矢は挨拶もそこそこに切り出した。


「実はね、今回のおばぁちゃんの聞き取り調査のことを耳にして、ネルグイさんも是非同行させてくれ、ってことになって。そしたら、うちの弟も今日はフリーだから、自分も付いていくって言い出したの。良いかしら?」

 

「こんにちは、大和さん。弟の大貴と言います。突然お邪魔しちゃって、すみません」

「ああ、全然大丈夫ですよ」


 慎治は、平静を装うのに必死だ。

 真矢は得意げに付け加えた。

「大貴はねぇ、私の自慢の弟なの。モテるのよ~」

 照れくさそうに頭をかきながら大貴はもう一度頭を下げた。

 慎治は、さきほどまで告白する模擬演習を心の中で繰り返していた自分が恥ずかしかった。



 一行が、海岸線沿いの外周道路から細い路地に曲がり、丘の上を目指してしばらく登ると、立ち並ぶ民家の中でもひときわ歴史を感じさせる、苔むした胸高のブロック塀に囲まれた敷地が見えてきた。

 塀から中をのぞくと、奥には色褪せた赤いトタン屋根が張られた木造の平屋が見え、手前の畑では、紺色のヤッケに身を包んだ、ほっかむりした二人の女性が中腰で作業をしている。

 玄関のひさしの下には、すでに三名の客がパイプ椅子に座って伊乃の鑑定を待っていた。


 真矢は塀の外から唐突に声をかけた。

「おばぁちゃ~ん!」

 種芋を畑の畝に埋めていた老女が手を休め、何事かと目を細めると、すぐに真矢に気づき、一瞬で相好を崩した。

「真矢じゃないか、待っとったんよ。大貴も来たんかい? こりゃ、嬉しいねぇ」

 腰を伸ばしながら喜ぶ伊乃に、真矢は不思議そうに問いかけた。

「何植えてるの?」

「これかい? 春じゃがいもの植え付けだよ。あんたも好物だっただろ?」

 真矢は頬をふくらませた。

「うん…だけど…、もう年なんだから。無理して野良仕事なんかしなくていいのに」


 伊乃は真矢の心配を笑い飛ばした。

「うんにゃ、これが元気のもとなのさ。土に触れるからこそ午後からの相談にも耐えられる」

 慎治とネルグイも真矢と大貴の後を追い、おずおずと近づいていくと、伊乃は改めてその顔を代わる代わる覗き込んでいる。

「電話じゃお客は一人というとったけども…増えたんだね」

「そうそう。こちらが前から話していた大和慎治さん」

 真矢は手のひらで慎治を指し示した。

「あぁ、この人が?歴史ある家の御曹司と聞いとったから、どんな人かと思えば、えらい、めんこい子で」


 慎治は苦笑しながら、こくりと頭を下げた。

「そしてこちらがネルグイさん。モンゴルからわざわざ来たんだよ」

「モンゴル? 蒙古ってことかい?…それは、遠路はるばる…何でまた、この島に」

 ネルグイは丁寧にお辞儀し、口元に笑みを浮かべた。

「話せば長くなりますが、一言でいうと、鎌倉時代の元寇襲来で何が起こったのかを現地調査しております。今日は伊乃さんが島では昔のことに一番詳しいと聞いてお伺いしました」

「ご苦労なことだねぇ。ただ、ご覧の通り、午前中いっぱいは鑑定の仕事があってね。かなり待つことになるよ」 


 ここまで言うと、伊乃は後ろにいる野良着を来た細身の女性を忘れていたことにふと気づき、振り向きながら詫びた。

「ああ、こちらも紹介せんといかんかった。助手の原野さん」

 銀縁の眼鏡をかけ髪をおさげにした女性は、頬をポッと染め、腰を丁寧に折り曲げた。


「まだ野良仕事するつもりだったけど、きりがいいところで、今日はここまでとしようか? 皆も、家の中でまずはお茶でも飲んで」



 伊乃の鑑定がすべて終わったのは午後一時を過ぎた頃のことだった。


 それまでの間、皆は興味津々といった様子で隣の様子を伺っていたが、客間からは相談者のすすり泣く声や、伊乃の「うんにゃ、できると言ったらできる!」と怒鳴る声が襖越しに響き渡り、慎治やネルグイはその度に肝をつぶした。

 相談が終わるのを待つ四人をよそに、助手の原野氏はガラス障子の向こうでいそいそと皆の昼食の準備を始めている。


 やがて客からのお礼の言葉を笑いながら受け流す伊乃の声が隣室から聞こえたかと思うと、突然居間の襖が開いた。

 伊乃は先程の野良着とは打って変わって、上下白の浄衣を身に着け、長い白髪を後ろで結んでいる。その姿には神官然とした威厳があり、瞳には慈愛溢れる光が宿っていた。


「食事が先。話はあと。腹が減っては戦は出来ぬ、とね」

 伊乃は笑った。

 助手の原野氏によって、つくしやあさり貝、菜の花漬けなど、旬の物が大皿で次々とちゃぶ台に置かれていく。素朴ではあるが、どれも島でしか味わうことの出来ない精一杯のもてなしだ。


 ネルグイは目の前に並べられた料理を見渡して、思わず感嘆の声を挙げた。

「この国に来て、こんな家庭的な料理は初めてです」

 伊乃は満足げに頷いた。

「遠慮なくおあがり。私ら二人が近所から取ってきたものばかりだけどね」

 

 一同は、料理に舌鼓を打ちながら、伊乃の食材や調理方法についての解説に聞き入っていたが、しばらくすると、大貴がしびれを切らした。


「おばぁちゃん、説明してくれてる途中で悪いんだけどさぁ…皆も忙しい中来てるんで、よかったら、あの話し、食べながらでもいいから聞かせてくれない? ほら、あの話しだよ。昔、よく話してくれてた」


 伊乃はとぼけた。

「ん? なんの話しじゃったかなぁ…」

「なんの話しだったか、じゃないよ! ほら、あれだよ、あれ! 人が突然いなくなるっていう言い伝え」


「おぉ、あれか…」

 伊乃は、なぜ急かす、とでも言いたげに勿体をつけて二度ほど咳払いをした。

「若いもんは気がはようて困る」

 苦笑いし、伊乃は一瞬咎めるように大貴を睨んだが、すぐに真顔になり、ゆっくりと座り直しながらほっと息をついた。


「あんたがた、まだ、ろくに食べておらんが…まあ、良いて。では、ご披露することにするかのぉ」

 慎治とネルグイは、何が語られるのか、と、思わず身を乗り出し、伊乃の顔を息を詰めて見守った。


「さて、さて…。これはなあ、北浦の村に長いこと言い伝えられてきた話しじゃ。

 昔々、ある時、村からこつ然と人がいなくなるという出来事があった。

 そして、それも、いなくなったのはただの人ではない。村一番の器量良しの娘じゃった。

 ご近所からも気立てが良い子だと愛され、父母も、それはそれは目に入れても痛くないほど可愛がっていた。


 その娘の突然の失踪で村は一時騒然となった。


 時あたかも、蒙古が博多に襲来してすぐのことだ。

 ゆえに、ある者は死んだ蒙古兵の祟りだと言い、またある者は元寇を無事に乗り切った村の生贄として娘が召されたのだ、と説く者さえいた。

 この事件により、娘の父親は数年間塞ぎ込んでしまって、野良仕事も手につかず、一時は廃人同然になっていたらしい。


 事態を重く見た村の長老は、各庄屋から大口の、そして村人からもなにがしかの寄進を集め、島の守り神である白髭神社からの勧請を受け、お社を設けて、祟りを鎮めるために末永くお祀りした、という話しさ…」


 ネルグイは細めていた目を大きく見開いた。

「それはっ…それは、元寇の直後のことなんですよね?…文永の役、弘安の役、いずれの戦の後だったんでしょうか?!」


 伊乃は目を閉じて首を振った。

「それは…、わからんねぇ…。ただ。村ではこの神隠しのことを長らくムクリと言って恐れてきた。戦前の頃くらいまでは、聞き分けのない子供がいたら、ムクリが来るぞと親から脅されたもんさ」

「ムクリ?なんだそれ?」

 大貴が眉をひそめた。

 伊乃は笑った。

「まあ、知らんのも無理はないわな。ムクリってのはこの九州北部では島や沿岸部で伝承として残ってる呼び名だよ。私たちの世代までは、まだまだ使われていたもんだが…教育委員会の人によれば、どうやら蒙古兵を指す言葉らしくてね…」


「蒙古兵! それはまさしく…私たちが追い求めている情報じゃあないですか?」

 ネルグイは伊乃の言葉に被せるように血相を変えて言い放った。


「そう、そう! 僕もこの話し、うっすらと覚えていて、ネルグイさんにとって有力な情報になるんじゃないか、って思ってたんだよ!」

 大貴は鼻を高くして言い添えた。


「で、で、それ以外に、その神隠しにまつわる情報は、ないんですか?」

 ネルグイは体を前のめりにして伊乃に迫った。

 伊乃は険しい表情で詰め寄るネルグイに驚いたが、しばらく腕を組み、思案した末、やがて申し訳無さそうに答えた。


「それ以外?…うぅん。ないねぇ」

「…では、せめて、そのお社というのは、今、どこにあるんでしょうか?!」

 祈るような目でネルグイは伊乃にただした。

「うぅん? 残念だけど…もうそのお社はどこにあったのかさえ分かっていない。もちろん、この北浦にあったのは間違いないが」


 新たなヒントが得られるのでは、と期待したネルグイの顔にはありありと落胆の色が見てとれた。

 


「じゃあ、さ」

 この一連のやりとりをそばで見ていた真矢が、今度は悪戯っぽく目を輝かせた。


「おばぁちゃんの持つ特殊な力で、大和さんやネルグイさんのそれぞれが、この島で、求めるものを得られるかどうかを占ってみたらいいんじゃない? 

 私、二人の話を聞いて以来、ワクワクが止まらなくなっちゃってさぁ。

 だって、私たちが住んでるこの島に二人の秘密を解く鍵が眠っているわけでしょう?」


 呆れた顔をして伊乃は真矢を見据えた。

「あのねぇ、真矢。鬼道っていうのは、テレビの今日の運勢、のように軽い気持ちで聞くもんじゃないんだよ」

 真矢は舌を出した。

「そりゃそうだけど、せっかく二人が来てるんだし。ネルグイさんなんて、外国からこのためだけに来たんだよ? 

 ねぇ、ネルグイさん。占ってもらうなんて、始めての経験になるんじゃない?」

 唐突に話しを振られたネルグイは、目を泳がせたまま口をつぐんでいる。


「モンゴルにも占いなんてあるの? 興味ない?」

 畳み掛けるように真矢は尋ねた。


「モンゴルにも勿論占いはあります。けど、興味は全く無いですね」

 そっけない態度でネルグイは言下に言い放った。


 真矢はネルグイの反応に明らかに不満そうだったが、とにかくせっかく来たのだから物は試しに、と返し、伊乃にもしつこく鑑定を要求した。

 

「なんとも…人使いの荒いこっちゃのう」

 しばらく難色を示していた伊乃だったが、やがて折れ、苦笑いしながらも、原野氏に食卓を片付けるように告げた。

 隙間がないほど大皿小皿で埋まっていたテーブルは、皆の手であっという間に片付けられ、その卓上には花瓶代わりのコップに挿されたれんげ草だけが残された。

 

 

 片付けも済み、皆が座布団に落ち着くと、伊乃は座卓の前で居住まいを正し、精神を統一し始めた。すると、これまでの和気あいあいとした部屋の空気はたちまち一変した。


 ほどなくして伊乃がおもむろに懐から一枚の紙を取り出すと、皆の名前を尋ね、左から順にその名を鉛筆で書き付けていく。


 穴が開くほど一同が真剣に見つめる中、伊乃はひとつひとつの漢字の横に画数を書き込みながら足し算を繰り返している。

「外格、天格、人格、地格…」


 最後に四人の姓の上に大きくゆっくり、総画、と大書して数字を書き入れると、伊乃は筆をとめ、しばらく身じろぎもせず、目を閉じた。


 慎治やネルグイは、その光景を、端からただ息を呑んで見守っていたが、やがて沈黙に耐えかねたように慎治が小声で呟いた。


「姓名判断?」

 その声にふと、伊乃が反応した。

「…姓名判断はあくまでも力の水脈にたどり着くための方便にすぎぬ。こうしているうちにも、自然に、霊示は降りてくるのさ…」

 伊乃の態度は侵すべからざる威厳に満ち、言い終えるとまたもや瞑目した。 


 真矢は、伊乃が発する次の言葉が出るまで、頼まれもしないのに伊乃のことを補足し始めた。

「…あのさぁ、これって、言って良かったのかしら? 実はね、小さい頃からよく聞かされてきたんだけど、おばぁちゃんには前世の記憶っていうのものがあってね。邪馬台国の卑弥呼っていう女王がいたでしょ。その跡継ぎか、あるいはそれに関連する人物だったらしいの。信じられる?」


 たしなめるような目で伊乃はちらりと一度真矢を見たが、すぐにその意識は別の世界へと飛んだ。


 それから一分ほどたっただろうか。


 やがて、異世界から呼び戻れされたような虚ろな目をして、伊乃は鉛筆を静かに置いた。

 しばらく、彼女は喉を擦って目を閉じたまま何度も首を傾げていたが、ついに言いにくそうにおずおずと口を開いた。


「宿世の縁」


 伊乃の言葉を聞いた真矢が、きょとんとしている。

「おばぁちゃん、その意味、もう少し分かりやすく説明してくれない?」

 真矢をちらりと一瞥すると、伊乃は襟を合わせて眼光鋭く中空を見据えた。


「簡単に言えば、あんた方は会うべくして会ったってことさ。ま、天の配剤とでも言っておこうか」


 真矢は眉間にしわを寄せ、口をとがらせた。

「ますます分からないじゃない。もうちょっとヒントでもくれないと」


 伊乃はそんな真矢の態度に、ようやくふっ、と気を緩めて堅い表情を崩した。


「では、こう説明しようか。

…人生ってのは出会いの連続だ。そして、その出会いによって人は磨かれ、人として完成していく。

 その出会いの多くは決められていないが、しかし、世の中にはすでに出会うことが決められた人もいる。

 それが宿世の縁、というわけさ…。悪いが、今日は、もう、これ以上は…何も出ないみたいだね…」

 

「ちぇっ、今日のおばぁちゃん、ケチだなぁ」

 大貴は肩透かしのような結果に少し慌てて、慎治とネルグイの顔色を気にしている。

「いつもはどんなことでもスラスラと答えてくれるんだけど…前なんか、人が死ぬ日付まで当てたくらいなんですよ。それが、今日は嘘みたいに普通のおばあちゃんになっちゃって…」

 大貴が詫びると、慎治は慌てた。

「いゃ、気にしないで下さい。逆に占いですべての謎が解けるようだったら、調査に来る必要もありませんし。でも、私たちの出会いに意味があるなんて、聞いただけで何だかワクワクしてきますね。そう思いません?」

 慎治はネルグイに同意を求めた。


 ネルグイの顔は鑑定が始まってからというもの、こわばったままだ。顔色さえ青白く感じる。

 彼はぎこちなく笑みを返すと、確かに、とだけ短く返答し、時間を気にするかのように、わざとらしく腕を曲げて時計を見た。


 時刻を確認したネルグイは、取って付けたように慌てた様子で言った。

「あのぅ…今日はこちらから訪問しておきながら言いにくいんですが…実は夕方までにどうしても仕上げねばならない仕事が一本ありまして…」

 

 暇乞いをするネルグイの血の気のない表情に、真矢と大貴は、彼から見えないように小声で、悪いことしちゃったかな、と顔を見合わせている。



 お礼のあいさつもそこそこに、ネルグイは席を立ち、慌ただしく伊乃の家をあとにした。

 玄関の門柱を急ぎ出ていくネルグイの後ろ姿を居間から見送りながら、真矢は、出過ぎた真似したかも、と眉を曇らせた。


「いや、ネルグイさんはもともと占いに関心がなかっただけで、特に気を悪くされたわけじゃないと思うよ。伊乃さんのおっしゃった内容も、特にネガティブなものではなかったし」

 慎治が必死に真矢をフォローすると、彼女も少しは安心したようだった。

 

 その後もしばらく、慎治は伊乃に勧められたお茶に口を付けつつ歓談していたが、頃合いを見て、もう長時間でご迷惑になりますし、そろそろお暇を、と自ら申し出た。


「おばぁちゃん、また来るからね」

 真矢は伊乃の肩にやさしく手を置き、腰を浮かせた。

 その姿を見て、大貴は、思いついたように声をかけた。

「あぁ、おねぇちゃん? 先に帰ってくれない? 僕、せっかくだから、おばぁちゃんの畑仕事、手伝って帰るよ」


 予期せぬ大貴の言葉に、慎治は思わず心の中で拳を握り、快哉を叫んだ。

 これで二人になれる!


「ああ、ちょっと待たんね」

 伊乃は真矢を制し、二人を見送るために原野氏と共に立ち上がった。


 玄関で身を屈めて黒のショートブーツを履く真矢を、伊乃は一段高い廊下から慈しみを込めた瞳でじっと見つめ、声をかけた。


「若いもんは成功したり失敗したり。とにかく精一杯楽しまんとなぁ。何が人生にとって良いことなのか、なんて、終わってみないと分からないんだから」


 それを聞いた真矢は、伊乃の体をやさしく片手で自分に引き寄せながら笑った。

「何々? そんな最後の別れみたいな言い方しないでよ、縁起でもない。私は大丈夫っ! 何事も要領いいんだから」

 真矢は目を見開き、胸を軽く叩いた。


 慎治も、ご馳走様でした、またお伺いするかもしれませんが、その時はよろしく、と、深々と頭を下げた。


「じゃあねぇ。おばぁちゃん」

 軽快に手を振り、玄関の引き戸を開けると、真矢は慎治と連れ立って伊乃の家を出た。

 




「なぜ、本当のことを言わなかったのですか?」

 細い路地の向こうへと声を交わしながら去っていく二人を見送りながら、原野氏は隣の伊乃に声をかけた。


 伊乃は憮然としてため息を付いた。

「分かっとったのかい?」

「もちろんですとも。もう数年寝食をともにさせていただいてきたんですから」


「そうだろうねぇ…しかし」

 断固たる態度で伊乃は続けた。

「人間はね、知らなくても良いことがあるんだよ。これから起こることが全て分かってるのなら、怖くて何も出来ないだろう? それに、たとえ宿命の根本が定まっていたとしても、人間の努力によって結果の枝葉末節が違ってくることもある。それは、時を経てみなければ、分からない」

 真矢たちが消えていった方角を遠く見つめたまま、伊乃はしみじみと語った。


 原野氏はそんな伊乃の横顔に見入っていたが、やがて深く頷きながら低頭した。

「畏まりました。今のお言葉、私も鬼道の基本的な心構えとして心に刻んでおきます」




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 午前中の穏やかな天気が嘘のように、博多湾は折からの春一番で海上には波浪注意報が出されていた。


「あぁっ、ひどい風!」

 帰り路、海から吹き付ける潮風が真矢のソフトソバージュの黒髪をなびかせ、顔やブラウスに黒い糸のように妖艶にまとわりついた。


 慎治は二人きりになった喜びと伊乃との不思議な出会いへの興奮も相まって、声が幾分上ずっているようだった。

「おばぁちゃん、卑弥呼に関係がある、って本当なの?」

 ふふっと真矢は微笑しながら髪を手ぐしでかき上げた。


「言わなきゃよかったかなぁ? おばぁちゃんから、小さい頃良く聞かされてきた話しなの。

…こんな記憶があるんだって。ある日、海を越えて千人単位の渡来人がやってきて、その受け入れで国中が揉めたらしいんだけど、そのとき、自分は女王の娘だったって。

 だけどその後やってきた渡来人の若者と恋に落ちちゃって、最終的には責任を取らされて自害させられた、っていう話し。

どぅお? ロミオとジュリエットみたいでしょ? でも、こんなこと話したら、あなた大丈夫?なんて言われそうよねぇ」

真矢はあはは、と高笑いした。

慎治はそれを見て首を振った。

「いや、僕はぜんぜん変だとは思わないよ。 

 その手の話し、割と信じる方だから…。にしても、ロマンチックな話しだね。ついつい貫頭衣を着たおばぁちゃんの若い頃の姿、勝手に想像しちゃったよ」


 渡船場までは下り坂ゆえ、十分とかからなかった。


 今日の島は午前中は穏やかな日和だったこともあって、対岸の姪浜行きフェリーに乗ろうと、外まで家族連れの長い行列が出来ていた。


 麦わら帽の女性や野球帽を被った客たちは、帽子を飛ばされまいと、強い風が吹き付けるたびにその頭を手で抑えている。


 二人は列の最後尾に立ったが、出発までには、まだ優に三十分はありそうだ。

慎治はせっかくの真矢との二人きりの時間と言うのに、今回も自分の気持ちを伝えずに帰らなければいけないのか、と焦った。


彼は自分の頭の中で、村田の電話での、お前はどれだけ真剣なのか、という言葉を何度も繰り返していた。

ただ、覚悟を持って伝えようとすればするほど、胸の鼓動は早鐘のように鳴り続け、その表情はこわばったままだ。


「ん? どうしたの? 具合でも悪いの?」

「いや…そういう訳じゃないんだけど…」


 先程ペットボトルのお茶を口に含んだばかりというのに、慎治の口の中は既に乾いていた。

彼がかさついた唇を巻き込んで湿らせ、ようやく、今日は諦めよう、またチャンスがあるさ、と自分自身をなだめようとした、その瞬間―


 いきなりの突風が二人のそばにいた親子連れのベビーカーに吹き付け、二歳児ぐらいの男の子の帽子がまくれ上がり地面に落ちると、それは恰も生き物のようにコロコロと転がった。


「あっ!」

 自らの帽子を抑え、ハンドルを手にしていた母親は驚いて声をあげた。


 一瞬の出来事に固まった慎治をよそに、真矢は帽子に気づくと、まるで短距離選手のようにはためくスカートを片手で抑えつつ、ダッシュで駆け出した。


 くるくると回る帽子をようやく右手で捕まえた真矢は、とった獲物を自慢するかのように高く掲げ、母親と子供に示した。


「捕ったよ~!」


 彼女が駆け戻ると、母親は目を丸くして、申し訳なさそうに何度も頭を下げた。

真矢が身を屈めて赤ちゃんの頭に帽子を被せると、その顔を覗き込み、貝殻のように艶のある小さな手を優しく撫で、可愛いね、いくつ?と声をかけた。

赤ん坊はきょとんとした顔で彼女の顔を無垢な瞳で見返している。


 母親は、二歳と四ヶ月なんです、この帽子、この子のお気に入りなので本当に助かりました、と重ねて詫びた。

 真矢は子供にまたね、と手を振り、母親にも会釈をすると、どう、見た?と言わんばかりに慎治を自慢げに振り向いた。


 その様子を見ていた慎治は、一度、大きく息を吸い込んだ。


「あの…」


  いくぶん掠れた声で慎治は恐る恐る切り出した。


「僕と…付き合って…もらえませんか?」


 一瞬、ん?という表情をした真矢だったが、やがて腑に落ちたかのようにじっと慎治を見つめた。


真矢の後ろには姪浜港から着いたばかりの巨大な3階建てフェリーがそびえ立つようにぽっかりと口を開けていた。

やがて係員の乗船を促す威勢の良い声が聞こえると、たくさんの行楽客が列を成し、はやる心を抑えながら次々と桟橋へと降り立った。

 満員の乗客があらかた車両甲板からフェリーの一階と二階へと乗り込むと、構内アナウンスは、次に搭乗する車両に急ぎ乗船口へと向かうよう促している。 


「いいわ」

 黒目がちの潤った瞳で慎治を見つめ、誇らしげに真矢はこくりと頷いた。


 強風で真矢の顔には幾条もの黒髪が棚引き、彼女は両手で髪の乱れを抑えながら微笑むと、今度はおどけた様子で慎治に近づき、その目を覗き込んだ。


 慎治は、満たされた喜びが全身から溢れ出るような始めての感覚に浸っていた。

 時間にして数秒だっただろうか。

 が、それは彼にとって、とても長い時間のように感じられた。


 やがて余韻から覚めたように慎治は照れながらもぽつりと真矢に告げた。


「もう一便、遅らせても、いい?」






 いつもの打ち合わせ場所である大名の老舗ホテルから、たまには気分転換も兼ねて別の場所で会わないか、と提案したのは慎治の方だった。

 毛利は行く先の変更を渋ったが、そのホテルが博多湾を臨むには絶好の位置にあること、調査へのインスピレーションを得るには最適な環境であることなどを説明すると、不承不承ながらも同意した。


 天神でピックアップした毛利を助手席に乗せて、都市高速経由で慎治は百道浜のホテルへと向かった。

 海岸線に並行して東西を走る高架道路からの景色は、いつ見ても圧巻だ。客船や貨物船が悠然と進む姿、玄界灘に浮かぶ島々を眺めながらのドライブは今日も爽快だった。

 ホテルに着くと、平日の午後ということもあって宿泊客もまばらで、落ち着いた打ち合わせができそうだ、と慎治はほっとした。


 メインダイニングとドーム型チャペルの奥の吹き抜けの窓の外には緑の帯のような松林が続き、その先には紺碧の博多湾に浮かぶ能古島と志賀島が、まるで手を伸ばせば届くかのように見える。


 感嘆の声を挙げる二人を、ウエイターはメインバーのソファーへと案内した。

 毛利はソファに深々と座るなり、前回自分が欠席した際の現地調査で目ぼしい収穫がなかったかを慎治に質した。


「どうだい、何か、新しい手がかりでも?」

 毛利の問いかけに慎治は首を傾げた。

「私たちに、と言うよりも、ネルグイさんに、ですかねぇ?」


 慎治は、伊乃を訪問した際に起こった出来事をざっと説明したが、直接の成果が得られていないに関わらず、自らの気持ちが妙に高揚しているのを我ながら不思議に思った。

 

 終始静かに報告を聞いていた毛利だったが、慎治の話しが一段落すると、深く溜息をついた。


「なんだか、僕が提案したこととはいえ、厄介な領域に足を踏み入れちゃったなぁ…どうやら、僕はあの島をすこし甘く見ていた…日送りの儀、神隠し伝説。今のところ大和家の謎には掠りもしないな」


 毛利は肩をすくめた。

 が、慎治は、個人的な収穫も大きかっただけに、今回の調査そのものを毛利にも否定的に捉えてほしくなかった。

「でも、伊乃さんが卑弥呼と関わりのある人物の生まれ変わりって、なんだか、すごくないですか? こんなこと他の人に聞かれたら、笑われそうですけども」

 ウェイターが注文した珈琲をテーブルに置きに来ると、慎治は口にしたことを後悔したかのように一瞬顔を赤らめた。

 笑われるのを覚悟で話題を提供した慎治にとって、次に毛利が発した言葉は意外なものだった。


「うん。一見奇想天外な話しのように聞こえるけど、あり得ないことじゃない」

 毛利が真に受けてくれたのがよほど嬉しかったのか、慎治は目を輝かせた。

「と言うと?」


「例えばさぁ、慎治君、邪馬台国って知っているよね」

「もちろんです」

「じゃあ、その邪馬台国がどこにあるかっていう話しも聞いたことがあるよね?」

「あぁ、確か、近畿説や九州説があるってことだけは聞いたことがあります」

「…その通り。そして、もちろん僕は九州説なんだが…」

一呼吸置いて毛利は切り出した。

「まず、ずばり言おう。邪馬台国なんてなかったんだよ」

「えぇっ!」


 予想外の毛利の返事に慎治は唖然とした。


「研究家の古田武彦先生によると…邪馬台国の『台』」は本来『臺』と表記するんだけど、最初に魏志倭人伝が収載された『三国志』には邪馬『臺』ではなく、邪馬『壹』と記載されている。後代の学者は、これを単なる漢字の間違いとしてきた。しかし、作者の陳寿は、作中、『臺』を五十八個、『壹』を八十六個使用し、いずれも厳格に区別している。だから、本来、『ヤマタイ』は『ヤマイ』、もしくは『ヤマイチ』と呼ぶべきなんだよ」

「なんでそんな書き換えを行ったんですか?」

「簡単に言うと、『ヤマイチ』だと、『ヤマト』に寄せられないけど、『ヤマタイ』だと『ヤマト』に寄せられるだろ? 

つまり、邪馬台国は『大和王権』の前身でなければならない、という前提から導かれた改ざんではないか、ということだ。

その上、『臺』という字はその頃『天子の宮殿』を意味していて、この字を辺境にある夷狄の国名に魏が使うはずがない、とも述べられている」


「それって、根本的な間違いじゃありません?」

「そうだよ。最初の履き違えがあるから議論が深まりようもない。

それにね、これだけじゃなく、古事記や日本書紀、さらには中国の文献などを注意深く読めば、大和朝廷よりも先に九州王朝がこの国に存在したことを示唆する記述はいくらでも見つけられる。ただ、それを認めたくない人々からは作り話だ、と片付けられるが、ね」


熱を帯びた毛利の話はそれから留まることなく続いたが、やがて悪い癖が出た、と自ら気づいたようにハッと口を一度閉じた。

「…いゃあ、なんか、本題から外れて熱く語りすぎちゃったねぇ。でも、僕もこんなだから、伊乃さんの生まれ変わりの話し、単なる空想だとは思わないよ。

九州に卑弥呼がいても全く不思議ではない。…けど、この手の論争に深入りすると、それこそ沼に落ちたようなもんで…」

 毛利は笑った。

「ともあれ、謎は深まるばかりだけど、ここまで来たら推理のうえにも推理を重ねていくしかない。なにしろ蔵の中から今のところ物証は出て来ていないんだから。下調べとして、僕も図書館の郷土史コーナーで目ぼしい資料にもう一度目を通してみる。君もよかったら、付き合わないかい?」






ネルグイは能古島渡船のりばに待ち人が現れないことにやきもきしていた。

ドルジからの連絡では、海洋調査会社の水中考古学の責任者であり、アジア全域を担当している役員が、状況の進展を確認するために島を訪れるとのことだった。

日頃ならばさほど他人の遅刻も気にならない彼だったが、分刻みで忙しなく行き来する日本式の生活に彼も順応したのかもしれない、と一人苦笑いして頭を振った。


約束の時間を十分ほど経過したころ、ネルグイの携帯が鳴った。

聞くと、すでに彼は能古島に着いていて、渡船のりばから出て直ぐのレストランで昼食をとっているらしい。

 ネルグイがログハウスを思わせる観光案内所を覗くと、その奥は食事するスペースになっており、海を臨むカウンター席で、一人、赤毛を短く刈り上げた筋肉質のレスラー体形をした男が黙々と食事をしているところだった。


「コリンさんですね?」

 男は背中越しの声に慌てて振り返った。


 口の中いっぱいに詰まったパティを一気にごくりと飲み込むと、彼は濡れティッシュで急いで唇の肉汁を拭き取り、照れながらネルグイに手を差し出した。

「ああ、コリン。コリン・チックだ。コリンでいいよ。いゃあ、待ち合わせの時間よりも三十分前に着いてたんだけど、ここでハンバーガーを頼んだら予想外に美味しかったもんでね。二個ほど追加してたら遅くなっちまった。ドルジから君のことは聞いてるよ。なんでも、語学の天才らしいな」

「それほどでもありませんよ。今日は東京からですか?」

「そう。別件があったんでね。香港経由だ」

 半袖のアロハシャツにベージュのチノパン、サンダルというラフな格好のコリンは、完全にオフを楽しんでいる観光客にしか見えない。


「しかし、それにしても今回の依頼はおおざっぱだな。まだ潜っていない段階から確実に沈没船はあるっていうんだから…

 確かに、日本の元軍の侵攻についての詳しい記録は八幡愚童訓という書物以外ないらしいんだけど、一夜にして蒙古軍の九百艘の軍船が神風で本当に沈没したのなら、そりゃ出てこない方がおかしいって…

 しかし、ね。俺の調査では二回目の弘安の役は別として、一回目の文永の役の十一月は台風シーズンでもないし、当時の貴族の日記には侵攻の前後、大風が吹いたなんてことも書かれていない。

 だから、唯一の資料といえる八幡愚童訓も、今やその信憑性には疑問符がついてる、ってわけさ」


 コリンは自らの知識を誇るかのようにまくし立てた。

 ネルグイは初対面でもお構いなしに滔々と語り続ける彼に面食らった。

 が、すぐに気を取り直して彼を持ち上げた。


「ずいぶんお調べになったんですね」

 当たり前だよ、と呆れてコリンは答えた。


「もし潜るとなると数億円はかかる案件なんだぜ。下手な郷土史家では太刀打ちできないくらい調べるのが俺の仕事なのさ。

 ただし、今回の沈没船調査については、すでに福岡だけでなく、長崎県の松浦市でも元軍の軍船や碇は出土している。埋蔵されている蓋然性は高いんだよ。

 けれど、博多湾というのは水深が浅いので、これまでも大型船の乗り入れのために湾の中心は浚せつを繰り返している。

 ゆえに、能古島の博多湾側でなくて、左側の糸島半島との間の今津湾側の方が可能性は高いと俺は見ている」


 ネルグイは彼の見立てに感心して頷いた。

「鋭い仮説ですね。湾の水深の調査についてですが、僕が思うに、現地の漁協がやはりいちばん詳しいはずです。地元の有力者とのコネは出来てますんで、そのルートを使って打診してみるのはどうでしょう?」


「ああ、助かるよ。しかしなぁ…、実は今日は俺の結婚記念日なんだ。嫁さんとの関係上、こんなタイミングでの呼び出しは次回からは御免蒙りたいもんだ。一度ネガティブな査定が付くと、あとで取り返すのが大変でね」

 憮然とした調子でコリンは肩をすくめた。


 ネルグイは、初対面でも個人的な事情をあけすけに披露する彼に苦笑した。


「御社の上層部にも伝わるようにドルジにはそれとなく話しておきますよ。

 ともあれ、今日は私が今回の件でお世話になっている與座ファミリーにお引き合わせします。それと、後でご説明しますが、同じくこの島について調査している大和さんという興味深い一族もいらっしゃいますので…」



 ネルグイらが與座家に訪問すると、当主の與座氏と妻の礼子は島の氏神である白鬚神社の春季大祭の後片付けに奉仕するとのことで、玄関を出る直前であった。


 コリンが気さくに與座氏に握手を求めると、ネルグイは立ち話の失礼を詫びつつ、地元漁協への口添えを依頼した。與座氏は快く応じたうえ、今日は慎治君と毛利さんも来ており、真矢と大貴が対応に当たっている、何かあったら二人に気軽に頼るといい、そう言い措いて、すぐに自宅を後にした。


 ネルグイとコリンが與座家の客間に入ると、すでに慎治と毛利は部屋にいた。

 一同全員が正座しており、目を閉じて腕組みした毛利を皆が神妙に見つめている。

 テーブルの上に供された緑茶とお菓子にはまだ、誰一人として手を付けていない。


 ネルグイは真矢の姿がまず目に入った。

 彼女は花柄のブラウスとホワイトデニムに灰色のロングカーディガンを羽織り、両手を畳に付けて身を乗り出していた。黒目がちの潤んだ瞳で毛利を見る真剣な表情に、彼は一瞬、目を奪われた。


 しかし、ネルグイは気を取り直し、遠慮深げに、皆に声をかけた。

「何か、お取込み中のようですが…もしお邪魔でなかったら、私の上司コリンさんを紹介させていただいても?…」


 毛利は彼の声掛けにふと表情を緩めると、穏やかに返答した。

「ああ、もちろんですとも」


 コリンが皆との挨拶を一通り終えると、ネルグイは彼に、改めて大和家がなぜこの島の調査をしているのか、その経緯と、毛利が古代から近世にかけて幅広い知識を持つことを説明した。

 すると、コリンの顔は一変し、口に手を当てて小声でネルグイに耳打ちした。


「ネルグイ、今から言うことをそのまま通訳してくれないか?

 ミスター毛利。実は私も今回の沈没船調査のために、最新の知見に基づいた日本の歴史を見直しています…

 我々は鎌倉期、大和家は戦国から江戸時代、と調査対象の年代は違いますが、協力すれば互いに資するものがあるのでは?と」


 ネルグイがコリンの申し出を通訳すると、毛利は穏やかに微笑んだ。

「我々がネルグイさんたちにどれだけお役に立てるかどうかはわかりません。が、島の歴史をヒアリングするうえで、互いの情報を分かち合うことはもちろん有益なことです。

 そのうえ、我々が当初、近世に的を絞って調査を開始したものの、この島の歴史が遠大であることも手伝って、その年代の範囲はとうに予想を超えてしまっています。


 …実はですね、私が考察したその見解を、今から皆に話そうとしていたところなんですよ」


 毛利の言を聞き、コリンは興味深げに眉を寄せ、ネルグイを見た。

「俺たちも聞きたいもの、だよな」

 いいだろ、頼んでくれよ、とでも言いたげにコリンは顎をシャクった。


 ネルグイは頷き、毛利に尋ねた。

「よかったらその話し、我々にも聞かせていただけませんか? 今は島の歴史に関する情報を一つでも多く手に入れたいんです」

「あぁ、私としては光栄なことですが、これはあくまでも私の見解であって、裏が取れているわけじゃあありません。ですから、ひとつの参考程度に受け止めて下さい」

 ネルグイとコリンは喜色を浮かべ、互いに頷き合った。


「では、お言葉に甘えて」


 毛利はおもむろに立ち上がって居間の東側に西面して祀られている神棚に軽く一礼し、厳かに口を開いた。

「通常、神棚の向きは東向き、あるいは南向きとされている。しかるに、この與座家では神棚は完全に西向きです。これは普通ならばあり得ない。ただ、與座家だけに残された奇習として、日送りの儀というのがありました」

 ネルグイは頷いた。

「私が本国に帰っていた時に行われた儀式ですね」

「はい。この祭り事自体は何も珍しいものではなくて、春分・秋分の際に太陽を追いかけて日を送り、日没を見届けるという風習は古くから各地に残されています」

ネルグイが通訳した言葉を聞き、コリンは口をはさんだ

「いわゆる太陽神、ですね。そういえば日本の国旗も日の丸だ」 

 毛利は頷いた。

「よくお分かりですね。そこで私もこの太陽神、つまりアマテラスの存在と九州を結ぶ事象について探る中で、島にかかわる重大な発見をしたのです。それは…」

 一同は身を乗り出して毛利の次の言葉を待った。


「皆さん、オノゴロ先生という方をご存知ですか? もとは中学校の理科の先生なんですが、民間の立場から九州の古代史研究を続けられていて、彼の、『天岩戸伝説』についての仮説が出色なんです。

概略をいうと、NASAが西暦二四七年、卑弥呼が亡くなった年に皆既日食が起こったのではないか、と調査していたことがあったらしく、オノゴロ先生もそれをヒントに、天体シミュレーションソフトで九州北部一帯を詳しく解析してみたところ、やはりその時に、日没帯食という極めて稀な現象が玄界灘で起こったようなんです」


「日没帯食?はじめて聞く言葉ですね」

 ネルグイは首を傾げた。毛利も頷きながら答えた。

「実を言うと私も知りませんでした。簡単に言うと、日が沈む際に皆既日食が起こり、そのまま日没してしまう現象だそうです。これを古代の人々は、あたかも世の終わりが来たかのように感じたことでしょうが、オノゴロ先生によると、『古事記』にある天岩戸伝説は実際にここ福岡で起こった民族の記憶ではないか、と述べられているんです…」


 ネルグイは、はたと思い当たり膝を打った。

「天岩戸伝説。モンゴルの小学校の図書室で、絵本の中で見たことがあります。たしか、アマテラスが弟のスサノオの横暴さに腹を立てて洞窟に隠れたために世の中が真っ暗になる、というお話しでしたよね。

困った神々が女神の舞いでアマテラスを入り口までおびき寄せ、最終的には力持ちの神が岩戸を開け放ってこの世に光が戻った、という…でも、この伝説と大和家の秘密や與座家の奇習とをつなぐものがあるようには思えませんが?」


 毛利は客間から見える雪見障子からのぞく石庭に目をやり、一呼吸置くと、座卓のお茶でゆっくりと口を湿らせた。

「私も最初はそう思いました。しかし、オノゴロ先生が作られた日没帯食が見られた地点。沖ノ島、小呂島、壱岐島、また、津屋崎や福間、古賀の海岸など、島々を中心にこの現象が確認できた。しかし」

 一段とゆっくり毛利は指摘した。

「ここ能古島にはその現象が見られなかったのです」


「あっ!」

 妙案を閃いたのか、ぱっと晴れ渡ったような表情で慎治は毛利の顔を見た。


「ひょっとしたら…謎をつなぐ鍵になるのは、太陽信仰…じゃありませんか?」

「そう。そこに自然と行き着く。玄界灘の多くの島々では日没帯食が見られた。しかし、この島では見られなかった…つまり、神に守られている神聖な島、と古代の人々は考えたのかもしれない。

では、與座家の日送りの儀はどうなのか。

これも太陽信仰だと説明がつく。そして、大和家の日記が欠落している期間、大学者の貝原益軒も藩主から謹慎させられているが、彼も日本古来の古神道を尊崇する点で大和家とは交流があったとすると」

「太陽信仰や古神道が謎をつなぐ一本の線になり得る、と」

「…その通り」


 毛利は慎治からその答えが出てきたのがよほど嬉しかったのか、満足げに頷いた。


 ネルグイも明るく付け加えた。

「モンゴルでもゲルの出入り口は常に太陽を向いています。我々の民族は似ているということ…ですかね?」


 毛利はしばらく皆の反応に静かに笑みを浮かべていたが、やがて自説が受け入れられたことにほっとしたのか、気が抜けた風船のように座布団に身を沈めた。


「ふぅ…今日は、ギャラリーも多いせいか、気力を使い果たしちゃいましたねぇ」

  眼鏡を外して目頭をつまむ毛利に、ネルグイが労いの声をかけようとしたそのとき、突然真矢の携帯が鳴った。


「はい? ああ、お父さん? うんうん。えぇっ!」


 真矢は驚いた顔をして電話をしながら全員の顔をぐるりと見渡した。

「うん、うん、分かった。伝えておくね!」

 電話を切った真矢は自らを落ち着かせるように大きく息を吸い込んだ。

「今の電話、お父さんからなんだけど…派出所のお巡りさんから、島の西南の磯辺で人の骨が大量に出てきたんだって!」


 真矢の言を聞いた一同は、何の話しをしているのか数秒は理解が出来ないようだった。

 が、ふと我に返り、気を取り直したネルグイが最初に声を挙げた。


「そこまでは遠いの? バイクか自転車か、ないのかい?」

 大貴は即座に反応した。

「ここからならバイクで五、六分。僕のなら、出せる!」

「そうか。ぜひ。よろしく頼む!」


 言うが早いか、大貴はすでに背中を向けて玄関に駆け出していた。

「皆さん! 中座して本当に申し訳ないんですが、僕がまず現地入りしてみます。なぜか、胸が騒ぐんです」


 ネルグイが慌ただしくリュックを肩にからうと、バイクのセルモーターを勢いよく回す音が外から聞こえてきた。


 開け放たれた玄関の硝子引き戸の先には、すでに赤いフルカウルのバイクにまたがる大貴の姿があった。

 彼がアクセルを幾度か踏み込むと、うなるような小気味よい排気音が庭先から室内まで響き渡った。

 大貴が軽く投げてきたフルフェイスのヘルメットをひょぃと受け取ると、ネルグイはためらいもなく片足を挙げ、タンデムシートへと飛び乗った。


「コリンさん、悪いけど、後でみなさんと一緒に来て下さい」

 ネルグイが言い終えると、大貴はスロットルを回して数度エンジンを吹かし、バイクは突き抜けるような甲高いエキゾーストノートを響かせながらあっという間に海岸線沿いの周回道路へと消えていった。






 島の沿岸道路が行き止まりとなる磯辺の地に二人が到着すると、そこには能古島の駐在所の警察官と地元の住民が三、四人立ち話しをしていた。

 みると、三百坪ほどの畑地に隣接した原野の半分くらいの大地が撹拌され、その一部を皆が覗き込んではしきりに顔を寄せて話し込んでいる。

 雑草に覆われた空き地の中央にはまるで軌道を外れた貨車のように緑色の大型の耕運機が捨て置かれていた。


 大貴はバイクから降りると、畑のうねを踏まぬように注意しつつ、耕地に足を踏み入れ、顔見知りの駐在に声をかけた。


「古賀さん、何があったんですか?」

 駐在は顔をふと上げると大貴に気づき、困ったな、とでも言いたげに眉をひそめた。

「ああ、大貴君。あんまり近寄らんで、な。人の骨が出たんで、今、西署にも応援と鑑識を依頼しとるとこなんよ」

「中、のぞかせてもらってもいいですか?」

 じろり、と大貴のそばにいるネルグイを駐在は一瞥した。

「…まぁ、いいでしょう」

 渋々と彼は承知した。


 駐在の隣では土地の持ち主であろうか、つなぎの作業着を来て浅黒く日焼けした男性が白い歯を覗かせながら、骨を発見したときの驚きを身振り手振りで語っていた。

「…最初は気づかなかったんだけどねぇ、振り返ると耕した土の下に白いものが見え隠れしてて。植物の茎かなんかだろう、と大して気にも留めなかったんだが、丸いお椀のような頭の骨が出て、これはいかん、と」


 大貴とネルグイがのぞくと、三十メートルほど耕されてうね立てされたトラクターの轍には転々と白い物が見え、手前には、気づいた後に深掘りされたであろう一メートル四方の穴があった。

 そこには、土にまみれた人の頭骨や地表を突き抜けた肋骨が無数に露出している。

 ひときわ目立つ飴色の頭蓋骨のくぼんだ目が、虚しく空を見上げていた。


「古賀さーん」

「あ、ご苦労様です。お忙しい中ありがとうございます。」

 皆が振り向くと、道路に止まったパトカーからは二人の警察官と作業服を来た白髪交じりの中老の男性が降りてきた。

 そのうちの一人の警察官が親しげに駐在に声をかけた。

「どんな風? 何体くらい出そう?」

「いゃぁ、ちょっと見当もつきません。まずは見てもらって…」

「うん。こちら鑑識医の大迫さん」

 紹介された作業服の男性は軽く頭を下げると、すぐに土中に見つかった人骨を座り込んでしげしげと見つめた。


「あ~、こりゃ古いやつだ。事件性ない、ない」

 鑑識医は一言の下に断定した。

 駐在は驚いて尋ねた。

「は~。すぐ見て分かるもんなんですか?」

「まぁ、百年以上前だってのは経験で分かる」

「時代的にはいつ頃?」

「正確な年代については市教委に任せるしかないけど、まず感覚的に縄文や弥生はないな。中世くらいかなぁ」


 一同が穴の中の骨を見つめながら会話をしていたところに、軽自動車が静かに停車した。真矢だ。車内からは先に毛利が、そしてコリンが大きい体を折りたたむようにして外に出てきた。


「こりゃいかんな。野次馬が多くなってきた。規制線、張りましょうか?」

 西署の警察官はそう言うと、真矢たちの方に向かって言い放った。

「ここから畑の方に入っちゃいかんよ。今、取り調べ中だから」

 駐在はこの発言を聞き、少し慌てたように大貴を振り向いた。

「大貴君も、悪いが、その人と一緒に道路際まで下がってくれないかね?」

 二人は素直に応じて、周回道路と畑地の境界まで下がり、真矢たちと一列に並んで成り行きを見守った。


 警察官の動きと発言を遠目に確認しながら、コリンは傍らにいるネルグイに声をかけた。

「どうやら、年代的には中世の可能性が高いようだな。

 しかし、仮に、だよ。あの骨が鎌倉期の元寇のときのものだったとしても、次の段階で、それは村人のものなのか、日本兵のものなのか。蒙古兵か? 高麗兵か? そういった疑問が出てくる。君らのご先祖なのかどうかは、遺物の出土とさらなる鑑定を待つしかない…」


 ネルグイはコリンの言を聞きながら、しばらく道路から見える畑に散乱する骨をなんの気なしにじっと凝視していた。

 ところが、やがてふいに腹の奥底から突き上げるような、これまで経験したことがないような感覚が彼を襲った。


これは、いったい? 


 彼は自らの内に湧く感情を押し込めように必死に抗ったが、ついには満ちたダムが一気に決壊したかのように身がぶるぶると震え出し、気づいたときは止めどなく流れる涙が頬を伝っていた。


 しばらくは涙を拭こうともせずに立ち尽くしていたネルグイだったが、やがて背中を丸めて地面に崩れ落ちると、両すねを地面に付けたまま声を挙げて泣き叫び始めた。

 くっくっと肩を上下に揺すらせて嗚咽し、号泣するネルグイに毛利や慎治は色を失った。


 コリンはその姿をただただ怪訝な顔で見守っていたが、程なくしてネルグイに聞こえるか聞こえないかくらいの声で独り言のようにつぶやいた。

「モンゴル人かどうかもまだ…、分からないんだぜ」

 理解出来ない、といった調子で肩をすくめて、どうする?とでも言いたげに真矢たちを振り返った。


 警察官の一人も何が起こったのか、と、こちらを見据え、心配そうに、皆に尋ねた。

「どうした? 彼、具合でも悪いのか?」

 毛利はどぎまぎし、自分には分からない、とばかりに手のひらを左右に降った。

 慎治も突然の出来事に動揺し、思わず視線を外した。

 大貴は地に臥せったネルグイのそばに座り込み、心配げに顔を覗き込んでいる。


「可哀そう…」

 真矢は突っ伏したままのネルグイの姿を眉を寄せたまま見つめていたが、やがてその潤んだ瞳にはみるみる涙が溜まり、一筋の涙が頬を伝った。


 真矢の突然の涙に慎治は、戸惑うしかなかった。

 彼の姿に単に同情しているだけなのだろうか。それなら理解できなくもない。

 しかし、それだけでは割り切れない悲嘆を慎治は彼女の涙に感じた。


 慎治は、彼女の頬を濡らす涙を茫然として見つめながら、自分は真矢のことをまだ何も知らないことに改めて気づかされた。



 渡船場に新しい船がついたのであろうか。

 周回道路のはるか向こうから、人の群れがこちらに向けて近づいて来ているのが見える。教育委員会と思しき六、七名の作業服姿の人々を先頭に、カメラを肩に下げた報道陣や野次馬などが迫る様を見て、これはただならぬことになる、と皆は感じた。


 このままではまずい。

 大貴は座り込むネルグイの肩をそっと叩き、声をかけると、慎治にも助力を請うた。二人がかりで涙に濡れるネルグイを抱き起こすものの、彼の足はいまだ萎えたままだ。


「とにかく一度、撤収しよう。これはしばらく騒ぎになるよ」

 毛利は確信したように何度も頷きながら皆に諭した。


 日ならずして、朝刊の地方欄には島で多数の人骨が発見されたことが掲載され、地元のテレビ局も規制線を貼った畑と立ち働く教育委員の映像を繰り返し伝えた。

 ニュースでは、放射性炭素年代測定によると、発見された人骨は文永の役で亡くなった蒙古兵である可能性が極めて高く、発掘調査はさらに続けられる見通し、とのことであった。


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