能古島へ
蔵の調査から一週間ほどして、慎治は毛利から、古文書の解読にめどがついたとの連絡を受けた。
さっそく個室のある喫茶店での打ち合わせを提案したところ、毛利は、通い慣れた場所で話したい、と、大名町の老舗ホテルを自ら指定した。
窓から日本庭園と滝が望めるホテル一階のメインバーは、平日の昼下がりということもあり、数名の客はいるものの、驚くほど静かだった。
店の入口に立つと、年配のウェイターが、毛利様ようこそ、とうやうやしく出迎え、二人を当たり前のように窓際の上席へと案内した。
黒い革張りのソファに深々と腰を降ろすや否や、毛利は目を輝かせ、せきを切ったように語り出した。
「いゃあ、庄屋日記。ありゃ、とんでもない代物だ。僕も長い間古文書を見てきたけど、あれほどの物件に巡り会えることは、そうそうない。
君のご先祖が克明に記録を付けてくれていたおかげで、当時の庄屋の具体的な仕事内容や村人たちの暮らしぶりが、それこそ活き活きと伝わってきて…もう、僕も、興奮の連続でねぇ」
隣にウェイトレスが注文を取りに来たのもお構いなしに毛利はまくし立てた。
慎治は詫びながら、一言、コーヒー、とだけ小声で告げた。
「まずね、君も知ってのとおり、庄屋ってのは、一番の仕事は、村人から年貢を集めることなんだ。
ところが、だ。当時は地方自治ってのが未だ分業されていないもんだから、庄屋は、それ以外にも、警察や消防や弁護士などの役割もこなさなきゃいけない。
たとえば、色情のもつれや喧嘩の仲裁、泥棒の捜索。果ては、捨て子や罪人の身柄預かり。なんでもござれ、でね。
とにかく、あまりに面白くて、僕もここ一週間はろくに寝てないんだよ」
口角に泡を溜めながら、毛利は息付く暇もないほどの勢いで解読の結果を滔々と述べ続けた。
先祖の書いた日記とはいえ、慎治にとっても初めて聞くような話しばかりだ。
臨場感ある毛利の語り口も相まって、慎治の姿勢は自然に前のめりになっていった。
しばらくすると、彼は一通り言い尽くしたのか、我に返り、おもむろに革のショルダーバックから風呂敷包みを取り出し、慎重にテーブルの上に置いた。
ゆっくりと彼が結び目を解くと、中から褐色の分厚い和書が現れた。
表紙には、「正保元年始 日記 正月吉日 大和性」とだけ黒々と達筆な字で記されている。
古文書を前にして、これまで華やいでいた毛利の顔が、なぜか一瞬、曇った。
「ただ、ここで…ひとつ、分からない謎が出てきてね。
実は…慶安三年から承応二年の三年間の日記が、どうやら、故意に抜き取られているようなんだ。点綴の糸を無理やり引きちぎったような跡があって...」
それを聞いた慎治は、眉間にしわを寄せ、首を傾げながら携帯のアプリを立ち上げた。
「う~ん。年号、いきなりだと分からないけど...慶安三年とは....西暦一六五〇年、になりますね!」
「その通り」
一言だけ発すると、毛利は目を閉じて腕組みした。
慎治は戸惑った。
「今から四百年前…その時、福岡で何か大きな出来事でも?」
頷きながら毛利は腕を組み代えた。
「う~ん。なかなか思い当たる節はないんだが、強いて言えば貝原益軒が時の藩主黒田忠之公に謹慎を仰せつかった、ってことぐらいかねぇ」
「貝原益軒?」
「聞いたことない? オランダの医学者・シーボルトをして東洋のアリストテレスと言わしめた福岡藩の大学者なんだけど、何で謹慎させられたのか詳しい事情は分かっていない。でも、大和家が大庄屋だったとは言え、この事件に関係してたなんてことは、ちょっと考えにくいが…」
詰まった鼻をすん、と鳴らして、毛利は首をすくめた。
「それと、もう一つ…」
毛利は続けた。
「もうひとつ、気になることがあってね…実は、失われた三年分の日記の直前の日付、慶安二年の大晦日に…博多湾に浮かぶ能古島の大庄屋から、人別帖に記載のない、海女を生業とする一族を島の北西で発見した、との報を受けたことが書き遺されているんだ」
いつの間にか、ウェイトレスがトレイに載せたコーヒーを手に、にこやかに毛利のそばに佇んでいる。
「あ~、ありがとう。それと、すまんが、例のキープ、出してくれない? …あのぉ、慎治君。とても、言いにくいんだが…、僕は、ここに来たら、いつもブランデーを一杯たしなむことを至上の喜びとしていて、だね」
哀願するように上目遣いで了解を求める毛利の顔を見て、慎治は思わず吹き出した。
しばらくするとヘネシーXOのボトルと水割りセットが卓上に置かれた。
ブランデーがウェイターによってグラスに注がれると、毛利は、仙人のように穏やかで満ち足りた笑みを浮かべた。
「慎治君。今回の蔵の整理の目的の中には、大和家と千利休との関係を明らかにするってことも含まれるわけだが、この日記が書かれた江戸時代と利休が活躍した戦国時代には当然ずれがある。しかしね、歴史調査って、存外、全く関係ないと思われた事柄同士がひょんなことから結びつくっていうことも良くあることなのさ。
だから、まずは調査対象を能古島に絞ってみないかい?
僕が考えるに、日記が抜き取られていることと、その直前の日付に書かれている能古島で起こった出来事については、どうも関わりがあるように思えてならないんだ」
慎治にはこれと言って代案があるわけでもない。一も二もなく承知した。
「よし、これでまずは方向性が決まったね」
毛利は、ブランデーグラスを右手に持ち替え、自らの目線の高さに掲げた。
「乾杯、ってのも大げさだけど、まずは調査の開始を記念して」
慎治は、慌てて眼の前に置かれた水の入ったグラスを手に取り、互いの杯を合わせると、心地のよい倍音が辺りに響いた。
二
「そんなことよりまだ他にすることがあるだろう」
慎治が友人の村田篤郎に電話した第一声がこれだった。
村田の父・衛彦は西区選出の国会議員で、能古島も当然地盤である。
慎治は、何のつてもない島で情報を得るには、まず村田の力を借りるのが早いと判断したのだ。
この話しが衛彦に伝わると、地元の郷土史に詳しい土地の有力者がいるので、まずその家を訪問してみては、と、トントン拍子に事は進んだ。
村田は慎治と高校一年以来の付き合いで、同じく同級生の小松賢治と瀬古逸汰も含めた四人で、よく繁華街をうろついた仲である。それぞれタイプが違うせいか妙にウマが合い、今でもことあるごとに飲みに行く間柄だが、大学を留年した慎治を措いて、村田は父の秘書として、小松は建築士として、瀬古は家業の建築会社の跡継ぎとして社会人の第一歩を既に踏み出していた。
全員が独身だけに、四人集まれば決まって出るのがコンパの話しだ。
村田はすらりとした長身の男前で、父の選挙運動の際も支援者の女性から常に一挙手一投足が注目される存在なだけに、合コンのメンツ集めはお手の物だった。
当然、慎治もその恩恵に預かることはあったが、飲み会のその他大勢、として参加するだけで、本格的な交際に結びついたことは一度もなかった。
そんな現状に業を煮やして発したのが村田の冒頭の言葉だったのである。
次回のコンパは必ず体を空けておけよ、と念を押されてから数日、早くも村田から連絡が入った。
あいにくその日は毛利とのミーティングが入っており、到底間に合わないことを慎治が伝えると、車で迎えに行くから必ず来い、との返事だ。仕方なく慎治は毛利との打ち合わせを早々に切り上げ、村田の到着を待つことにした。
ホテル正面のロビーから慎治が玄関を眺めていると、するすると白の九七年式ユーノス・ロードスターがアプローチに横付けされ、車が止まると、車窓越しに村田が手招きしている。
慎治はホテルのドアマンに一言断りを入れ、ドアを開けて車内へと乗り込んだ。
冬というのに村田は濃緑のサングラス姿である。
「おう。なんか収穫あったの?」
慎治は、村田の手引きで島の有力者ともつながり、おかげで訪問する日程など、具体的に話しが進んだことを謝し、改めて今回の来島に至った経緯と目的を語った。
「ふぅん」
村田は明らかに気のない様子だった。
「まあ、俺にはよくわからんが、お前んとこほどの家柄になると、先祖や子孫に対する責任ってのもあるんだろうなぁ…ただ」
赤信号で車が停止すると、村田はハンドルを軽くポンと叩いた。
「家のこともいいけど、まずはプライベート、だろ? 今日は最低、LINEぐらいは交換してもらわなくちゃ…」
合コンの会場は、村田が借りているマンションを使った家飲みとのことだ。小松と瀬古が先に買い出しを済ませ、会場設営をしてくれることになっていた。
マンションの駐車場に車を止め、一階のエントランスホールでエレベーターを待つと、村田の携帯に突然ショートメッセージが届いた。近くまで来ているのでよかったら迎えに来て、という女性幹事からの連絡だった。
村田は自宅に先に上がるように慎治に告げると、玄関を後にした。
慎治が玄関扉の前に立って呼び鈴を押すと、大きい花柄のエプロンをつけた小松がドアを開け、妙にシリアスな表情で彼を迎えた。
角顔で眉が太い彼とエプロンの柄はどう見ても不釣り合いで、ああ、女子受け狙いだな、と慎治はすぐに悟った。
「お~、慎治ぃ、久しぶり! あまりに女っ気ないもんだから、悟りでも開いてんじゃないかと思ったぜ」
軽口をたたいて慎治を室内に迎え入れると、リビングにいた瀬古は既にどっかりとソファに身を落ち着かせていた。フランネルシャツにユーズドジーンズという出で立ちが、彼の日本人離れした彫りの深い顔立ちには良く似合う。
慎治に気付くと、瀬古は、よっ、と軽く手を挙げ、片眉だけ動かしてみせた。
村田のマンションは選挙運動の際にボランティア運動員の詰め所や選挙協力の電話をするために利用されている場所だ。3LDKと十分な広さがあるにも関わらず調度品は殆どなく、こざっぱりとしたショールームのような雰囲気である。
リビングには大型の液晶テレビと一人用のリクライニングソファーがあるだけで、フロア中央には毛先の長いラグマットが敷かれ、人数分のクッションが無造作に置かれていた。
宅飲みというのは得てして羽目を外しすぎるものだ。
それも、今夜は合コンだ。慎治は過去の村田との経験から、今夜の飲み会が荒れることなく平穏に終わるよう心から願った。
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インターホンが鳴り、玄関から人が入ってくると、女性のきゃっきゃっと浮ついた笑い声がリビングまで響いた。
村田から何か言い含められたのか、出来ないよ、そんなの恥ずかしい、とはしゃぐ黄色い声が聞こえる。
なかなか部屋に入ろうとしない彼女たちを尻目に、村田が先にリビングの戸口に立つと、さも自慢げに、連れて来たよ、とだけ皆に告げ、廊下を向いて手招きした。
すると、小柄でミディアムロングの、もう一人は栗色のショートボブの女性が、まるでバラエティ番組の登場シーンのように大げさに躍り出た。
「珠里で~す」
「陽菜で~す」
アイドルのようにポーズを決めた二人の背後に目を転じると、彼女たちよりもかなり長身のソバージュヘアをした女性が、照れくさそうな笑みを浮かべて髪を掻き上げている。
彼女は、一度咎めるように村田をにらんだが、すぐに覚悟を決めたのか、大げさな身振りで腕を組み直し、半身に構え、ドヤ顔で言い放った。
「真矢で~す!今日は職場の後輩、連れてきました~」
言い終えるなり、これでご納得?とお澄まし顔で村田を振り返ると、彼女は次の瞬間、声をたてて笑った。
三人はいずれもライトグレイのジャケット、ベストにタイトスカートという出で立ちで、事務服のネームプレートを外しただけといった印象だ。
「ありゃ~、それ、制服じゃね?コスプレかと思ったよ!」
おどけた調子で小松は三人に尋ねた。
清楚系の珠里は、小動物のようなつぶらな瞳を見開き、口を尖らせている。
「そうなんですよぉ。うちの会社って更衣室がめちゃくちゃ離れたところにあって。で、飲む時間を増やすために会社から直行するよ、って姐御から言われちゃって。なんかヒドくないですかぁ? ね、陽菜?」
茶髪の新入社員といった印象の陽菜は、いきなり会話を振られ、切れ長の目をさらに細くして、照れて、えへへと笑った。
「全っ然ん、大丈夫! むしろいいんじゃない?」
小松は眉を動かすと、両手でハートマークをつくった。瀬古はと言えば、あえて素知らぬ振りを装っている。
「そうでしょ~? オシャレしたい後輩には悪いんだけど、コンパの時間が短くなるよりはいいのかな、と思って」
村田の乾杯の音頭で、いよいよ合コンは始まった。
聞けば女性たちの職場は大手ハウスメーカーの営業職で、常設展示場で住宅販売をしているらしい。
一生に一度の買い物と言える家を売るだけあって、彼女らの話題は豊富で、特に小松と瀬古とは業種柄関係が深いせいか、その場は一気に打ち解けた。
「ねぇ、ねぇ、パーティーゲームしない? 古今東西、とか?」
アルコールも入り、場も温まってきたころを見計らって村田が突然申し出ると、女性陣から悲鳴が上がった。
「罰ゲームはテキーラ一気飲み」
女性陣からは、またもや、え~っ、と非難と困惑ともつかぬ声が広がったが、珠里と陽菜は、おもしろそうじゃない?とすぐに顔を見合わせている。
「最初は僕が親。ね。では、村田さんから始まる!古今東西、動物の名前!」
皆で合いの手を入れながら順々にお題に答えていく他愛もないゲームだ。
が、三巡もするとネタも尽きる。早くも陽菜が答えに詰まると、声を上げて顔を覆った。
皆が息を呑んで陽菜の反応を見守ると、彼女は開き直ったかのようにけらけら笑い、こうするの?と、並々と酒が継がれたショットグラスをやおら手に取った。そして杯を飲み干すや、つまんだ輪切りのライムを舐め、思わず顔をしかめると、皆がどっと笑った。
味をしめたのか、村田はしばらくすると、次のゲームを繰り出した。
王様ゲーム。またもや女性陣から悲鳴が挙がった。
「私はいいけど、珠里も陽菜もまだ若いんだから。お手柔らかにね」
真矢は姉と慕われているだけに、大げさに横目で村田を睨んでいる。
村田はそれには答えず、ただ薄ら笑いするばかりだ。
番号が振られた割り箸を全員が引いてゲームは始まる。
「王様だーれだ?」
ゲームが進行するにつれ、最初は何番が何番に軽くビンタ、当てられたもの同士が疑似告白をするなど、大人しめなものが多かったが、次第に盛り上がるにつれその内容は過激になっていく。
男女ペアを期待して村田が出した「お姫様だっこ」というお題に小松と慎治が当たると、パーティーはこの日一番の盛り上がりを見せた。
そんな中、終始苦笑いを浮かべていた瀬古だったが、ポッキーを左右から食べる、という命令が王様の小松から出されるや、急に何の前触れもなく立ち上がり、皆に言い放った。
「みんな盛り上がっているときに悪いけど、この後、人を待たせててね…お先に失礼するよ」
一瞬、白熱していたその場は、瀬古の言葉で水を打ったように静まり返った。
「どうした? 気でも悪くしたのか?」
村田は驚きながら、怪訝な顔をした。
「いや、そう言うんじゃなくてね。本当に、もともと人を待たせてたんで。気にしないでくれ」
瀬古はおもむろにポールハンガーからダウンジャケットを取ると、呆気にとられた皆を置いて、慎治にちょっと来い、とでも言うかのように目配せをして玄関へと向かった。
慎治は訳も分からずに後を追うと、瀬古はジャケットに腕を通しながら険しい顔で堅く結んだ口を開いた。
「もともとお前に引き合わせたい人がいるからメンツに入ってくれ、って言われて来たら、このざまだ。彼女がいる身にもなってみろってんだ! それと、俺から一つだけ忠告しとくがな。もし、本当に気に入った子がいたら、次は、シラフで会え。いいな?」
瀬古はドアノブに手をかけながらもう一度振り向き、そっけなく言い放った。
「何かあったら、電話してくれ」
慎治が瀬古を見送り、リビングの様子を気にしながら戻ると、先程の白けた空気が嘘のように、更に盛り上がりを見せている。
小松と陽菜がポッキーを両端から、もどかしげに食べ進める様子に一同は爆笑した。
真矢は真矢で、仕様がない人たち、とでも言いたげに眉を寄せつつも、薄っすらと口元に笑みを浮かべている。
小松と陽菜の唇が触れるか触れないかという瞬間、小松はあえてポッキーを口で折って自主規制するかのように見えたが、陽菜は自ら最後に残ったポッキーをパクリと加えると、小松の唇に軽く接吻した。
「えぇつ?」
小松は仰天し、口を抑えて周囲を見渡した。
一瞬の静寂の後、皆はどっと笑い転げた。
「小松くん、今日の会費はあなたが全部払ってね」
真矢が見下すように言い放つと、小松はぺろりと舌を出した。
その後もゲームは続いたものの、そうこうするうちに会はいつの間にか割れた。
やがて申し合わせたように村田と珠里、小松と陽菜の二組のペアが出来上がり、ひそひそと何かの打ち合わせをしている。
慎治と真矢はもともと席が離れていたこともあり、手持ち無沙汰の様子で、取り残されたように菓子を食べたりスマホをいじって時間を潰していたが、二人の様子を察して、村田がとうとう口を開いた。
「じゃあ、俺らはそろそろお暇するんで」
慎治は驚いた。
「お暇って、自分の家だろ?」
笑いながら村田は答えた。
「鍵は集合ポストに入れといてくれ。真矢ちゃんはお前が送って帰るんだぞ」
唖然とした慎治と真矢を置いて、二組のペアは意気揚々と席を立った。
帰り際に村田は慎治に向けて軽く手を挙げると、その頬に意味ありげな笑みを浮かべている。
廊下からは小松の軽口とそれに答える陽菜のはしゃぐ声がしばらく響いていたが、玄関の鍵が締まる音とともに次第に遠のき、やがてリビングにはまったくの静寂が訪れた。
取り残された二人は呆れて顔を見合わせた。
「これって何?」
真矢が堪えきれない、といった調子でクスクスと笑った。
「何か、見え見えじゃない? 立派に引き合わせたつもりなのかしら」
慎治は頭をかいた。
「う~ん。友達思いの奴らなんだけど。一番楽しんでいるのは自分たちかもね」
真矢は、村田くんらしいね、と笑うと、頭上に両手を思い切り挙げて反り上がった。真矢のブラウスの膨らみは、はち切れんばかりで、慎治は思わず目をそらした。
「村田君の気遣い、無駄にするのも何だけど、このままだと午前様になっちゃうね」
真矢が尋ねると、慎治は壁の時計を見て慌てた。
「もうこんな時間! 家、どこだっけ? タクシーだったら送ってあげれるけど」
ふふふ、と真矢は微笑した。
「タクシーじゃあ、送れないわね」
「タクシーで送れないところ? そんなに遠くなの?」
「遠くはないわ。海の上」
「海の上?」
真矢の言葉の意味が理解できず、慎治は目を泳がせた。
「船に住んでる、とかじゃないよね」
「まさか」
真矢は面白いことを言う人ね、といった調子で吹き出した。
「能古島なの」
慎治は納得した。
能古島ならここから渡船場まで今の時間帯、タクシーで二十分くらいの距離だ。それに確か、島までも船でそう時間はかからなかったはずだ。
ただ、この時間に渡船などあるのだろうか。
「言いたいこと、分かる。こんな時間に渡船はないでしょって。だけどね、奥の手があるの」
村田の家を後にして、二人は大通り沿いのバスセンター前にあるタクシー乗り場に向かったが、遅い時間にもかかわらず、運良くタクシーが一台だけ空車で止まっている。
「姪浜の渡船場まで」
真矢が告げると、運転手は心得た、とばかりに頷き、白手袋でハンドルを軽やかに右に切った。
乗車すると真矢はすぐに、ちょっと待ってね、と声をかけ、携帯電話を取り出し、何やら知り合いに連絡を取り始めている。
「あぁ、おっちゃん? この前はありがと~! 実はねぇ、今日も突然だけど、今からいいかな? 本当!? 助かる~」
慎治は、見てはいけない、と思いつつも、不自然でない程度に真矢の横顔を盗み見た。
車窓から流れるように差し込む外灯の光は、真矢の輝く瞳と唇を次々と照らしていく。
暗闇の中、シルエットで浮かび上がったソバージュの跳ねた毛先は、あたかも濡れているかのようだ。
しばらくすると、慎治は真矢のベージュ色のコートの袖から覗く腕時計にふと目を留めた。
電話を切った真矢に慎治は声をかけた。
「いい時計」
「あぁ、これでしょう?」
ふふっ、といたずらっぽく真矢は笑った。
「オーデマ・ピゲ、っていってね。私には過ぎた時計なの。父が成人の祝いに、ってくれたんだけど、後で値段聞いてびっくりしちゃって…」
長方形のベゼルに文字盤にはダイヤモンドが配され、ピンクゴールドのブレスレットが真矢の手首の白さを一層引き立てている。
この時計は車の値段ぐらい、という真矢の話しにも容易に頷けた。
「でもね、私に言わせれば、今は父よりも自分の方がばりばり働いているのに、時計を買うなんて夢のまた夢。この世の中の給与格差、何なんだろ、って感じ」
姪浜の渡船場までは道路を走る車もほとんどなく、雑談をしているとあっという間だ。
見ると、天井が高く広々とした平屋建ての旅客待合所の構内からは煌々とした蛍光灯の明かりが漏れ、閑散とした乗船口にはまだ数人の係員が立ち働く姿が見える。
既に定期便は出た直後のようだ。
タクシーを降りると、真矢は、待合ホールの窓を右手に見ながら、ずんずんと海の方向へと進み、腰高のガードフェンスの間をすり抜け、振り返って慎治を手招きした。
待合所前の広場の奥に進むとそこはもう岸壁である。
船溜まりには数隻の漁船や観光船が繋留され、桟橋に並ぶ橙色の外灯の光がそれらを柔らかく照らし出している。
港を挟んだ対岸には、アウトレットモールやホテルの客室の灯、そして電照で鮮やかに彩られた巨大な観覧車が見える。穏やかな海面にはネオンの光の帯が停泊する漁船までゆらゆらと伸び、純白の船体を美しく染めていた。
「おっちゃ~ん、おまたせ~!」
真矢は繋留された一隻の漁船に元気よく声を掛けた。
船は全長十米ほどの大きさで、船首側のデッキには座布団が行儀よく並べられている。そびえるような二階建てのキャビンの風防の前には夜焚き烏賊用の集魚灯がいくつもぶら下がっていた。
声に気づいたのか、やがて操舵室から、短髪でパーマをかけた、遠目からも日焼けしていると分かる六十代ほどのガッシリとした体格の男性がひょっこり顔を出した。
「おぉう。今日も元気そうだな」
真矢は小刻みに手を振りながら、慎治を振り向いて言った。
「海上タクシーなの。遅い時間は渡船は一時間に一本しかないから、島に住んでる若い子にとっては本当に助かるんだ」
言い終えると真矢は船に向けて叫んだ。
「船長、どぉお? お客さんは?」
男は眉間のしわを解いて微笑んだ。
「あぁ、最近は暖冬だろ? サッパリと思っとったら、なんか急に呼び出しが多くなってな。どうせ、お前さんみたいな元気もんがいっぱいおるんだろう」
がはは、と彼は笑った。
「そりゃぁ、良かった。この頃、おっちゃん、少し痩せてたから心配してたんだよ!」
「ありがたいのぉ」
「病気なんかになったら、私、承知しないから!」
「ぉお怖わ、」
船長は頭をかいた。
「…なんだか、冬じゃないみたい」
羽織っていたベージュのコートを脱いで小脇に抱え、真矢はトートバックを肩に下げると、接岸している船首の突端に勢いよく足をかけて、鉄パイプのピットをつかみ、バランスを取りながらひょぃ、と飛び移った。
夜の帳が降りた遥か北へと広がる玄界灘へ目を移すと、群青色の空には漆黒の島影が視界を遮るように浮かんでいる。この遅い時間に既に民家の明かりはなく、島の外周道路沿いに一直線に並ぶ街路灯がわずかに海との境界を示している。
漁船のデッキにすっくと立ち上がった真矢の体は、桟橋から差し込むオレンジ色の灯りを浴びて、まるで熱を帯びているかのように見えた。
「おっちゃん、そろそろ行こうか」
「了解、船長」
高らかな笑いとともにスクリューは声を上げて駆動し、エンジン音が静かな海に響き渡った。
慎治は、初めての光景に圧倒され、会話することさえも忘れ、ただ茫然と真矢を見ていた。
が、ふと我に返り、肝心の連絡先を聞きそびれていたことに気づいた。
漁船はすでに右舷の船体を見せながら旋回し、島の方角へと船首を立て直しつつある。
「今日はありがとう! なんか久しぶりに楽しかったよ。また一緒に遊びに行こうね~!」
真矢は両手を口に添えてエンジン音に負けぬような声を張り上げ、満面の笑みを浮かべると、手旗信号を振るかのように両腕を大きく交差させて何度も慎治に向けて手を振った。
慎治も慌てて手を振り返し、何かを大声で叫んだ。が、駆動音にかき消され、真矢は聞こえないよ、と耳に手を当てている。
何か伝えねば。
慎治は、急ぎ、両腕で大きな丸を作ってみせた。笑って真矢も頷くと、頭上に大きな丸を作って応えた。
しばらく左右にわずかに揺れていた漁船は進行方向を島に定めると、うなりを上げて前に進んだ。真矢のブラウスの前身頃は風ではためき、白い歯を見せる彼女の顔に波打つ髪が妖艶にまとわりついた。
船上で乱れた髪を抑えながら大きく手を振る真矢を、慎治は一瞬でも見逃すまいと、瞬きさえも忘れて目で追った。
また会えるのだろうか。
船尾に立つ真矢の姿は、無情にも、漁船のディーゼルエンジンの音とともに見る間に遠ざかり、後には白い気泡と放射状に広がる航跡だけが海面に残されていく。
進む漁船から一直線に慎治へと伸びる痕跡は、ほのかに二人をつないでいるかのように思えたが、それさえも、新しく生まれる波に次々と呑まれては、消えた。
やがて白い点となった漁船の姿は、巨大な山のような島影の中に吸い込まれ、闇の中に瞬く間に溶けていった。
人気のない渡船場に夜の静寂が戻った。
岸壁に繋留された数隻の漁船は、その船体をわずかに軋ませながら寂しげにたゆたっている。
慎治は護岸沿いのガードレールに手を掛けたまま、放心したように黒々とした島影をいつまでも見つめていた。
翌日、電話で慎治が真矢の連絡先を聞き出せなかったことを伝えると、村田は呆れたようにため息をついた。
「まあ、縁がある人ってのは、こちらがもうご勘弁ください、といったとしても縁があるものだし、な」
村田がこんなぶっきら棒な返事をするのは、必ず隠し事をしている時だ。
慎治は真矢の連絡先を教えようともしない彼の態度に苛立ったが、何か魂胆があるに違いない、と、ひとまず電話を切った。
三
能古島は、南北三・五㎞、東西二㎞、人口七百人ほどの博多湾内に浮かぶ離島である。
福岡市営渡船にてわずか十分。再開発に沸く都心に比して、市街化調整区域に指定された島内には未だ手つかずの自然が残り、シーズンともなれば、菜の花やコスモスの見物、海水浴に、自然探索に、と、家族連れで賑わう憩いの場として知られている。
古くから玄界灘に向かう船の出入りを見守ってきたこの島は、飛鳥時代から朝廷が外敵を防ぐために置いた防人がいたことを唯一特定できる地であり、古くは、「能許」、「能巨」、近世には「残」とされ、戦前、福岡市に編入される際、古称が復活し「能古」となった。
この能古の北浦に住む與座家の当主、正之は、村田篤郎の父・衛彦の長年の盟友ともいえる支援者であり、島を代表する事業家、かつ郷土史家でもあった。
蔵から発見された古文書の調査によって能古島に大和家の謎を解く鍵があると推理した毛利と慎治は、村田の紹介を経て、急遽この與座家を訪問することにしたのである。
姪浜渡船場の桟橋に三階建ての二百人乗りフェリーが着岸すると、船尾から舌のように突き出たランプウェイが岸壁に固定され、乗客は次々と口を空けた車両用甲板へと乗り込んでいく。
今日は土曜日ということもあって観光客も多く、慎治は高齢の毛利を気遣って、先回りして座席にリュックを置いて確保したが、毛利は外の風を浴びたい、と甲板にそのまま留まった。
冬とはいえ、今日の最高気温は十三度前後で、防寒をしていれば耐えられないこともない。
「時間にして十分ほどだからね。僕は昔から能古に行く時は船内に入ったことがない」
二階デッキの防護柵に身を委ね、毛利は、まるで遠足で浮き立つ小学生のように喜んだ。
場内アナウンスが出航を告げた。
僅かなエンジンの振動が身体に伝わり、渡船は離岸し、しずしずと桟橋を離れていく。
毛利は微風に白髪を棚引かせながら、声のトーンを幾分か上げて慎治に向き直った。
「実はね、あれから大和家の秘密の鍵となる千利休と貝原益軒について改めて調べ直してみたんだ。まずは益軒だが、彼は福岡藩の二代藩主・忠之公に十九歳のときに始めて出仕し、その二年後にお役御免になっている。その二年が大和家の庄屋日記が抜き取られている時期と符号する、というところまでは説明したよね」
「はい。それで、何か新たな情報でも?」
慎治は期待に胸をときめかせた。
「うん。あったよ」
毛利は得意げだ。
「知っての通り、大和家は福岡の筑豊地方と博多を結ぶ篠栗街道の要衝、花瀬村の大庄屋だったわけだけど…この街道は八木山峠という難所を越えて博多部へと通じてる。そして、この八木山に益軒が七歳の時に彼の父が警護役を命じられて赴任しているんだ」
「え? ということは?」
慎治は目を輝かせた。
「そう。大和家との往来はあったと見て良いと思う」
フェリーは、ちょうど博多湾の真中に差し掛かった。目の前には海に寝そべるように裾野を広げる深緑の能古島が、もはや指をさせる距離にある。
視界を右に移すと、霞んだ志賀島に繋がった海の中道が、あたかも砂時計のくびれのように、細く、長く陸へと延々と続いている。
「もう一つ教えようか。大和家は神道を代々信仰しているよね」
「そうらしいですね。しかし、それと益軒さんとはどのような関係が?」
毛利はにやりと笑った。
「幼いころから益軒は兄の存斎に学問を教わっていた。そして、この兄が強烈な仏教排斥論者だったらしい。ゆえに、益軒も終生神道を崇敬していたということだ。どうだい? この事実は、大和家との関係を連想させるものにならないかい?」
船内アナウンスが突然流れ、対岸にはすでに桟橋と外周道路沿いに立ち並ぶ料亭や三角屋根の渡船乗り場が見える。
乗客はにわかにざわつき、気の早い子どもたちが一斉に船首へと駆け寄った。
「ひとまず、ここまでにしておこう」
拍子抜けした顔で毛利は肩のショルダーバックを掛け直すと、慎治とともに階段へと続く下船の列に並んだ。
與座家のある北浦までは、島の外周道路を右回りし、右手に博多湾と福岡市の街並みを臨みながら徒歩で十分ほどである。
海岸通り沿いにある與座家の屋敷は、昭和初期に建てられたという平屋の入母屋造りで、黒光りする破風の彫刻がより一層その重みを感じさせる。
玄関に立ち、慎治が恐る恐る呼び鈴を押すと、はぁい、と声が聞こえ、お団子髪の後れ毛に艶がある夫人が和服で出迎え、お待ちしておりました、と笑顔で室内へといざなった。
十畳ほどの客間に通され、ほどなくすると、着流しに外衣を羽織った、がっしりした髭面の中年の男が会釈をしながら入ってきた。
「これはこれは。村田先生からは概略聞いております。なんでも、島のことが書いてある古文書が蔵から見つかったとか」
毛利は、緊張からか、額に汗を浮かべている。
「急な訪問で申し訳なく思っております。こちらの大和さんを通じて、村田先生に土地に詳しい人を、とお願いしたところ、與座さんを紹介していただいたような次第でして。なんでも、島の歴史について語らせると與座さんの右に並ぶものはいないとか」
與座氏は天井を見上げて呵呵として笑った。
「村田先生も人が悪い。大袈裟ですなぁ。私が能古の歴史に興味があるのは事実ですが、あくまでもアマチュアの立場から、ですよ」
毛利と慎治は、その後、與座氏から小一時間ほど能古島についての講義を受けることになった。
島の植生や地層から始まり、古代から戦後の開拓史に至るまで、その博識ぶりに二人も思わず舌を巻いた。
その土地に残る民話にはたくさんのヒントがつまっている。
毛利はそう慎治に事前に語っていたが、果たせるかな、與座氏からいくつかの伝承を聞くことに成功した。しかし、残念ながら大和家の歴史につながるような直接的な情報は何一つ得られなかった。
具体的な成果はなかったものの、初回の訪問にしては上出来である。
そろそろ暇乞いをしようかという頃、毛利が、遠慮がちに切り出した。
「ご無理は申し上げたくないのですが、良かったら今後もご面談の機会を頂戴できませんか?」
與座氏は快く頷いた。
「もちろんですとも。私としては、この島に興味を持っていただけるだけでも嬉しいんです。
それと…そうだ! 良いことを思いついた! 実は、まだお話しはしてなかったんですが、うちに代々伝わる行事がありまして」
「行事といいますと?」
毛利はきょとん、とした様子で尋ねた。
「日送りの儀、といいましてね。これを、ご覧になってみませんか? 調査のお役に立つかどうかは分かりませんが、毎年、旧暦の正月に與座家のみで実施している、いわば初詣のようなもので」
毛利は両目をしばたたかせた。
「それはいつ?」
「来週の月曜日です」
毛利は慎治を見た。
彼も、すぐにコクリと頷いた。
「良かった。歓迎しますよ。しかし、今日は不思議なことに千客万来でね…。実は、外国からのお客さんが前触れもなく急に尋ねてきて、来客が被るから、と一度は断ったんですが、どうしても、ということで、今、娘に対応させてるんですよ」
與座氏は懐手をしながら振り向いて大声でおぉい、と襖越しに声をかけた。
「手がかりにはならないでしょうが、彼も同じく島の歴史を調査に来た、とのことですから、今後のためにも引き合わせておきましょう」
程なくして、水墨画が描かれた客間中央の襖がするすると開いた。
「あぁっ!」
思わず慎治は驚きの声を上げた。
そこには、数日前、合コンで連絡先を聞き忘れた真矢が立っていた。
真矢は、いたずらを咎められた子供のように肩をすくめ、舌をぺろりと出して笑った。
「どぉお? びっくりした? 私は事前に大和さんが来ること、知ってたんだ」
真矢は自慢げに腰に手をやり胸を張った。慎治は、村田のあの意味ありげな発言の真意はここにあったのか、とようやく腑に落ちた。
真矢の後ろには、長身でセミロングヘアの、パーカーの上から革ジャンを着込み、擦り切れたジーンズを履いた男が、軽く会釈をして微笑んでいる。
與座氏は意表を突かれたように尋ねた。
「なんだ、顔見知りだったのか?」
「最近知り合ったばかりなの」
「そうなのか? なぜ早く言わなかった」
一瞬拍子抜けしたような表情を見せた與座氏は、気を取り直して真矢を背中越しに見上げた。
「それならば話しは早い。お前からネルグイさんをお二人に紹介してあげなさい」
真矢の言を待つまでもなく、ネルグイは自ら進み出て手を差し伸べ、握手を求めた。
「ネルグイといいます。どうかよろしくお願いします」
毛利は座布団からよっこらしょと掛け声とともに立ち上がり、握手をしながら問いかけた。
「ネルグイさんはどちらのお国から来られたのですか?」
「モンゴルです」
「ははぁ。そのモンゴルの方が、なんでまた、この島に?」
「実は私の仕事はライターでして。十三世紀にここ福岡に元軍が襲来したことはご承知かと思いますが、その件について長期取材をしております」
年齢が同じくらいのようで親しみやすさを感じたのか、慎治は気さくに声をかけた。
「まるで日本人のようですね。アクセントも完璧だし」
「そう言っていただけると嬉しいです。ありがとうございます」
真矢が改めてネルグイの訪日の目的や調査内容について詳しく補足すると、與座氏は破顔して皆を見渡した。
「こうなれば善は急げだ。親戚には私から説明しておきますから、来週、どうか気兼ねなくお越しください。一見の価値はあると思いますよ」
毛利と慎治は彼からの提案をありがたく受けることにした。しかし、その日ネルグイは、あいにく一時帰国中とのことで、與座氏は、互いの情報交換も兼ねて、後日報告会をうちで行うといい、と提案した。
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次の週の月曜日の午後、毛利と慎治は與座家を再訪した。
その日彼らが家に入ると、驚くことに部屋を仕切る襖はすべて取り払われ、合わせて四十畳敷きほどの大広間となっていた。
座敷を取り巻く広縁の窓にはすべて青白幕が張られ、西面に祀られた祖霊舎の前には、三段式の小机にひょうたん型の穴が空いた白木の三方が整然と並び、そこには地元で採れた果物や野菜などのお供えが山のように積まれている。
祭壇に近い上座には與座家の親族十五名ほどが礼服を着て既に床几に神妙に座っており、毛利たちは遠慮がちに、最後列の空いた席に着座し、緊張した面持ちで見守った。
毛利がひそひそと小声で慎治に話しかけた。
「慎治君、祭壇の位置、方角わかるかい?」
きょとんとした顔で慎治は祭壇を確認して答えた。
「東にあるので…西向き、ということになりますね」
「うん。可怪しいと思わないかい?」
「と申しますと?」
「普通、神棚は太陽の光を採り込むためにも南向き、あるいは東向きに据えられていることが多い。しかし、ここは逆だ。西向きだ。それに島の東側は島影で西日も入らない」
時刻は午後三時を回った。
時を告げる柱時計の鐘の音がボゥンボゥンと鳴り響く中、座敷の左の襖が音もなく開いた。
そこには長い白髪をまとめ髪にし、額に雛人形のような金の髪留めをつけ、白衣に白袴を身に着けた老女が凛として立っていた。
手にした扇を胸に、しずしずと祭壇の前に進み出て厳かに一礼すると、居並ぶ親戚たちもあとに続いた。
かけまくもかしこき いざなぎの大神
筑紫のひむかの橘の小戸のあはぎ原に みそぎはらへ給ひし時に
なりませるはらへ戸の大神たち
諸々のまが事 罪けがれあらむをば はらへ給ひ清め給へと
まをすことをきこし召せと かしこみかしこみまをす
祭主がはらへことばを奏上し終えると、振り返り、紙垂を束ねたおはらい棒を両手で頭上に掲げ、左右左と振りかざし、参列者を清め始めた。
ワサッワサッと紙が擦れる音が静寂の中に響き渡り、皆は低頭したままだ。
だが、後列の二人は、一つも見逃すまい、と上目遣いで周囲を見渡していた。
毛利はしばらくすると、当主の與座氏の隣に、年若い男の子が白の裃姿で正座していることに気づいた。
祝詞が奏上され、振られる鈴の涼やかな音色で皆が清められると、次は玉串奉てんである。
当主の與座氏は祭主に促され祭壇に進むと、懐からなにやら人形をした赤い折り紙を取り出し、三方の上に置いたあと、榊の枝を受け取った。
枝を押しいただいて神前に奉納すると、次は男の子の番だ。その後は親族たちも同様に続いた。
毛利は顎をしゃくりあれを見ろ、と言わんばかりに人形の奉納をする様を見るよう慎治に促した。
儀式が終盤に近付くころには、張り巡らされた青白幕のすき間から覗く博多湾と福岡の街並みにはすでに西日が差し込み、すべてを黄金色に染めていた。慎治は、日送りの儀とは日没とともに太陽を見送る行事である、との與座氏の言葉を思い出した。
これからは徒歩にて小一時間かけて島の東海岸から山越えをして島の西海岸へと向かうのだ。
祭礼が終わると、一同は礼服の上に白の法被を慌ただしく着込んだ。
行列の先頭は紙垂を挟んだ棒を両手で持った男の子だ。
その後ろには当主の與座氏が三方に載せられた人形を大事に抱えている。親族たちも各々でカンテラを手に持ち、粛々とそれに続いた。
慎治は毛利の体力が気がかりであったが、いざという時は皆で助けますから、という與座氏の親切心に甘え、彼の後を控えめに歩いた。
これから島の西北、邯鄲に向かいます、と與座氏は告げた。
中国の故事に邯鄲の夢、というものがある。
ある男が夢が叶う枕を得て、栄耀栄華を極めるが、目覚めるとすべてが夢だった、というものだ。
與座氏は、その故事を思わせるほど、ここからの景色が美しかったということでしょうな、と笑った。
島の西側はそのほとんどが急斜面で、外周道路はない。満潮となれば砂浜や磯もほぼ水没するため、島の海岸で最も景色が良いとされているのに未だ手つかずの自然が残っているのだと言う。
「慎治君、船の中で言いかけたことなんだけど」
毛利の声かけに歩きながら慎治は答えた。
「千利休のことですね」
「うん。話しが尻切れトンボになっちゃったからねぇ。あの続きなんだけど、利休についても、今一度整理してみた。
ところで、君は、この前、当時の日本を代表するような人物が大和家と関係しているとは思えない、と言ってたよね?」
おどおどとした態度で慎治は答えた。
「はい」
毛利は頷いた。
「たしかに九州は田舎、って刷り込まれてる我々には意外なんだけど…秀吉の九州平定は知ってるかい?」
慎治は首をひねった。
「ごめんなさい、詳しくは…」
「うん、普通はそんなもんだよ。実はね、戦国時代、九州の大半を手中に治めていたのは、豊後のキリシタン大名、大友宗麟だった。が、天下分け目の耳川の戦いで薩摩の島津義久に敗れるとその勢力は急速に衰退。滅亡寸前まで追い詰められる。それを救ったのが秀吉だ。そして、天正十四年、いよいよ秀吉は自らを総大将とし、二十万の大軍を率いて島津征伐に向かった。そして道中、九州の島津に加担する勢力の居城を次々と攻略していったのだが…」
慎治は閃いた。
「も、もしかして」
「そう、そのもしかして、だ。この戦いに、当然の如く千利休は同行していたんだよ!たとえば、一夜城の逸話で名高い益富城から花瀬までは、直線距離で2キロほどしか離れていない!」
慎治は思わず声を挙げた。
「ただ、ね」
興奮を隠せない慎治に水を差すかように毛利はいきなり声を潜めた。
「もちろん、戦に対する兵糧や人馬の手配に功があっただけで、利休が大和家の庭を設計してあげたくなるものなのか? 僕には、それだけのようにはどうしても思えないんだが…?」
四十分くらい山道を歩いただろうか。
一行は島の山頂にある自然公園に着くと、車で先回りしていた神官役の老女もここで合流した。
疑問に思った毛利が親族の一人に尋ねると、あの老女は実は與座氏の母、伊乃だという。
夫には数年前に先立たれたが、本人は未だ與座家で絶大な権限を持っており、なにしろ幼少期から人の見えないものが見え、日頃は求めに応じて、霊能者として運命鑑定を行っているらしい。ゆえに、一門の冠婚葬祭の際は、伊乃が神官役を引き受けているのだ。
それからさらに十分ほど、毛利と慎治は時には岩や木々で身を支えながら、與座一門の背中を追ってようやく断崖の下へと降り立った。
意外にも干潮のためか、海岸にはわずかな白い砂浜が現れていた。
邯鄲。
今、まさにその地には対岸の糸島半島の向こうへと日が沈まんとしているところであった。
雲ひとつない西の空や穏やかな海は燃える炎のような茜色に染まり、漆黒の山々の際だけが黄金色に輝いていた。そして、わずか二百米ほど先には小さな島のような岩礁がぽつんと今津湾に影を落としている。
磯の香に交じって、どこからともなく水仙の香りが微風に運ばれ、皆の鼻をかすめていく。
慎治がふと目をやると、與座氏はわずかに乱れた鬢のほつれを整え、目を細めて、あたかも神の代弁者のように、朱に染まりその場に立ち尽くしている。
しばらく夕焼けに見惚れていた一同であったが、伊乃の声に促され、紙垂を持った男の子が堅い表情で進み出た。
男の子は、與座氏の持つ三方を左右左、と祓い清めた。
三方を恭しく掲げ、微動だもせずに祈りを捧げていた與座氏は、今度は、皆から集めた赤い色紙で出来た男女の人形をおもむろに一枚取り上げると、波打ち際の海中へとぽうん、と放り投げた。
人形はひらひらと表裏を見せながら宙を舞い、押し寄せる白波の中へと消えた。
その様子を側で見守っていた伊乃は、手を合わせ、ひたすらに何かを唱え続けている。
毛利と慎治は、與座家の当初の訪問の目的さえも忘れて、恍惚とした表情で儀式を見守った。
次々と人形が海に投げ込まれ、ようやく最後の一組が打ち寄せる波しぶきに揉まれ、泡立つ波間へと吸い込まれた時、落日の最後の閃光が山の向こうへに消えると、辺りは瞬く間に闇に沈んだ。
白装束の一団が、そそくさと真鍮のカンテラを開けて種火を分け合うと、暗闇の中で蛍のように仄かな灯が一つ、また一つと増えていく。
わずかな残照で赤紫色に染まった彼らは、口々に互いの足元をいたわりながら家路に着いた。
與座家の行列のカンテラの灯は、ゆらゆらと揺れながら、一列となって急坂を登る皆のごつごつとした足元を心細く照らしていた。